今好きな子はいる?
「学年とクラス、名前を言って」
「三年七組、黒沢修一」
「歳は?」
「十七」
「誕生日まだなんだ。いつ?」
「一月十六日」
「ここがどこだかわかる?」
「保健室、ですよね」
「ここに来る前はどこにいた?」
「自分の教室です」
養護教諭は突然、俺の前にピースサインを作る。同時に、俺の左手の中指が掴まれた。
「これ何本?」
「二本」
「見え方変じゃない?」
「えっと……はい、普通です」
「触ってる場所は?」
「左の中指」
今度は立ち上がり、俺の足元へと回る。
「次はどこに触った?」
「右足の……中指?」
「ええっ、人差し指だよ、触ってるの。こりゃ重症かしら」
「それ、よく間違うってやつじゃないですか?」
「チッ」
と、明らかな舌打ちをした。「目が覚めたときにいたこの子は?」
「内田麻衣」
「今好きな子はいる?」
「えっ……」
咄嗟のことに、目が泳ぎ内田のほうへ向かう。視線が絡み合う。「いや! それは関係ないだ――」
起き上がろうとした俺の身体を、養護教諭はそっと受け止めて、大きな壺でも寝かせるように横たえた。
「はいはい、いきなり動かないの」
ふと見れば、内田は恥ずかしそうに視線を逸らしていた。
「じゃあ次。どうして気を失っていたの?」
「……階だ……いや、机積み上げて遊んでたら、上から落ちたんですよ」
教諭は意地悪そうに唇の端をひくつかせた。それから大仰に、芝居がかった口調で、
「これはいけない! 記憶の混乱が見られるね。親御さんに連絡して、ああっ、その前に救急車を呼ばなくちゃ!」
「いやっ……」
「なにか訂正、あるかな?」
縋るように内田を見ると、小さく両手を合わせて、しきりに何かを伝えようとしている。
「……した」
「ん?」
「教室で、プロレスごっこをちょっと……」
「プロレスごっこ?」
「……喧嘩みたいなことを、ちょっとやってました」
「はいよろしい。相手は?」
「遠野誠……あっ、そういやあいつは?」
「彼なら目立つ傷に消毒液かけたら帰って行ったよ。階段で転んだんですって」
なんだ、あいつも似たような嘘をついていたのか。
ほっとするのと同時に、ということは喧嘩には負けたのだと気がついた。
殴らせて、殴り返して。蹴られて、蹴り返して。そうだ、思いがけずハイキックが飛んできて、下をくぐってかわそうとしたところ、誠の足もそんなに上がらなくて、ちょうど横っ面を蹴られてしまい、踏ん張ろうとした足の下に何かがあって、そのまま転がって……ラッキーが入ったとはいえ、そんなに強くはなかったから、転び方が悪かったのかもしれない。
顔を触ると、ガーゼと絆創膏が所々に貼られている。
「体に異常、ある? 力は入る?」
寝たままなので動きにくかったが、手足にも問題はなさそうである。肯いてみせると、
「じゃあ立って。ゆっくりね」
指示に従って、ゆっくり身体を起こす。軋むような痛みが肩口にある。ベッドからするりと降りてまっすぐに立つ。
「……ま、問題なさそうね。ちょっとでも体調が悪くなったら、すぐに病院に行きなさい」
「はあ」
「ああ、それから」
と、養護教諭は内田に向き直る。「もしよかったら、家まで付き合ってあげて。極力ゆっくりと動くこと。自転車通学?」
「はい」
声を揃えて返事をすると、
「じゃ、歩いて帰って。電車でもいいけど、座れるのに乗りなさい」
二、三さらに注意事項を述べると、彼女はおおきく肯いた。
「ということで、私の仕事は以上。このあと用事があるので早く帰るように」
「……先生、ひょっとしてだから救急車呼ばないの?」
「大事にされたい? それにあなたは大丈夫よ。さっきだって気持ち良さそうに寝てたし。ねえ?」
「そう、ですね」
同意を迫られた内田は、愛想笑いを浮かべて肯いた。
廊下はいつもよりひんやりとしている。あちこちを強かにぶつけた分だけ熱を持ち、差が大きくなっているのかもしれない。
内田は養護教諭の言いつけに素直に従って、俺の腰にそっと手を当ててゆっくり歩くことを促そうとしている。介護される老人を思い出して、なんだか情けないような気持ちになった。
右の足首がすこし痛い。しかしまあ、騒ぐほどのことでもない。
二人の息遣いと、とぼとぼと繰り返される足音ばかりが、静謐な廊下に生まれては消えていく。あらゆる物が波のようだ。
「内田ってさ、爺ちゃん婆ちゃん、いる?」
「生き残りは二人だね」
「生き残りって……」
表現の妙な生々しさに失笑し、唇がピリッと痛んだ。舐めてみると沁みる。割れているらしい。
「それがどうしたの?」
「どうってことはないんだけど、爺さんが死んだときのこと、思い出してさ」
死んだ日のこと、だけれども。
踊り場の壁に、高さ一メートルはあろうかというキャンバスがかかっている。まったく気にもとめたことのないそれに、妙に惹かれた。
寄り道になるけれど、木製の手摺に頼りながら階段を上る。すっかり磨り減った木製で、所々にクレバスのような裂け目がある。けれども角は立っておらず、そこさえも丸みを帯びている。
古い絵だ。汚れ具合や、塗料が剥がれているところから、たぶんもうずっとここに掲げたままなのだろう。折り返して階段を上り始めたところで、足を止めて絵を振り返る。
寂れた波止場。暗い海とコンクリートの波止場。錆びた船が並んでいる。絵の劣化が、むしろ完成度を高めている。
上手いのか下手なのかを判断するだけの素養は持ち合わせていないけれど、感じ入る心はある。共振……いや、この気持ちは郷愁だ。見知らぬ港の風景を、俺は懐かしいと感じている。
「この絵がどうかしたの」
「目にしてても、見てないことって多いなってさ」
「そうだね」
亀の歩みでよたよた教室に向かう道々、内田は何度か口を開きかけては肩を落として息をついた。ようやく「あの」と声にしたのは、鞄を回収し、自転車を置き去りにして校舎を出た後だった。
夕陽はまだ沈みきらず、長い影を引いている。熱はもう感じない。
「あの、どうしてあんな、殴り合いなんてしたんですか?」
内田の口ぶりに、俺はまた懐かしさを感じた。そういえばいつのまにか、ですます調がすっかり出なくなっていた。訊ねて良いのかという遠慮が、内田に距離を取らせたのだろう。
「さあ、なんでだろう」
「なんでだろうって……」
「俺がわかるのはさ、あいつが俺を殴りたくて、俺もあいつをぶん殴ってやりたかったことだけだな」
「それって変じゃない?」
「そう? あいつ、帰るときどんな顔してた?」
「なんか……さっぱりしてた」
「だろう。俺だって変だって思うけどさ、でもそうしないとすっきりしないんだから。男なんてのは、そういう生き物なんだな、たぶん」
「わかんない」
拗ねたように、俺を睨む。わかるように言えという要求なのか、それとも理解できない自分への苛立ちなのか。
噛み砕いて説明することは簡単だ。
要するには、誠は誰かに殴られたかったのである。
これは多分に想像を含むが、彼はあの夜、千佳が遅いと感じて電話をかけたのではないだろうか。そしてそれが通じないから、何かあったのだと勘を働かせて、千佳の通りそうな道を辿った。そこで倒れている千佳を見た。いや――そうではない、一歩遅く救急車に担ぎこまれる場面か、事故後の残骸に彼女の痕跡を見つけたか。ともかく一歩遅かった。
学校にも来ず、見舞いにも行かず、また救護にも関わらずに事故のことを知りえるのは、そういう場合しかあるまい。
その事故の責任を、遠野誠は自分に求めた。まさかそんなはずはない。電話で呼び出した奴が悪いなんて、屁理屈としたって無理がある。誠の頭脳が、そんな当然に気付かないはずもない。どれだけ正当な思考があろうと、しかし感情ばかりはどうにもならない。
法に照らせば絶対に無罪であり、千佳がそれを糾弾するとも思えない。決して罪にはなりえない罪に、誠は罰を求めて彷徨った。たぶんそうしなければ、千佳にあわす顔がなかったのだ。会って赦されてしまう前に、誰かに責められなければならなかった。
と、まあ、想像だ。
すくなくとも俺が誠のつもりになれば、そういう考えになる。
「あのさ、内田。ちょっと変なこと聞くんだけどさ」
「うん」
「内田の初恋って、いつ?」
「うえっ」
と、変な声を漏らすと、どの口が言うのだと責めるように、呆れた顔をして俺を見てくる。これも俺の想像だけれども。
「なに、黒沢くん。自分が初恋の相手だって言ってもらいたいの? 残念でした。小学校のころにいたよ、好きな人」
「だろうなあ。俺もそんなもん。でもな、賭けてもいい。誠の野郎、今が初恋だぞ」
「あいつが? まさか」
鼻で笑いながら言ったその「まさか」は、果たして「初」にかかっているのか「恋」にかかっているのか、判断がつかなかった。
万事上手くこなす男だが、あれは秀才であって天才ではない。予習もしていない未経験のことに、易々と対応できるほどの柔軟さもない。
だから思いつめるのだ。その結果、彼は罰を求めて街を彷徨った。俺だったらそんなこと、絶対にしない。学校に行って、手ごろな奴を探すだろう。なんなら高梨を挑発すれば、簡単に乗ってくれる。
有実の無罪を贖うために、誠は自分を殴ってくれる人間を探していたのだ。
意識してか、無意識だったのかは定かではない。屯する不良を見つけても、きっと喧嘩の売り方さえ知らず、ただ途方に暮れていたのだろう。
殴られたい奴を殴るのは簡単だけれど、然るべき理由をでっちあげるのは難しい。案外と人は人を殴らないからだ。本当はあいつから手を出させようとしていたのに、結局俺から荒事を始めることになってしまった。
目撃者がいらぬ節介で生徒指導の耳に、事の経緯を通報しないことを願うばかりだ。
他人を思い通りに動かすことは難しい。けれども、それに輪をかけて難しいのは、自分の思いを、思い通りに動かすことだ。
俺だってそうだ。
自分の気持ちがわからずとも、とりあえず付き合うとか断るとかすれば良いのに、そうとはできないままでいる。
初恋ではないくせに、まったくもって不器用だなと呆れてしまう。
他に言うべきことは山ほどあるような気もするのに、やっと口から出せたのは、
「ありがとうな、付き添ってくれて」
それきりだった。
「頼まれたんだから、しょうがないよ」
得意気にする内田が夕陽よりも眩しいのは、まさか殴られた影響ではあるまい。




