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走り出したら  作者: 肉団子
4章
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ぼくがわるい

 真っ白な部屋に、ブラウン管テレビばかりが黒い点として浮かんでいる。

 頭のすっかり禿げ上がった祖父は、青白い顔をして部屋に溶け込んでしまっていた。両親の離婚が成立して、二年も経たない頃だった。

 その病気が重かったのか軽かったのかも覚えていないが、生きては帰ってこなかったのだから、軽いということはなかったのだろう。

 冬枯れた枝が窓の外に伸びていて、子供心にも物悲しさを覚えた。

 祖父の周りには親族が集まっていた。難しい話をしている。よくわからなかった俺は、入院の間に十も歳を取ったような祖父とおしゃべりをした。

 いや、している。

 俺は病室と廊下の間に立って、十数年も昔の光景をはたから眺めていた。

 大人たちの会話は聞こえてこない。記憶にないからだろうと、自然と腑に落ちる。退院したら遊園地にでも行こうという果たされない約束をして四歳くらいの少年は振り返った。

「おとうさん!」

 と、嬉しそうに駆け寄ってくる。昔は素直にそう呼んでいた。他人事のように考えると、俺が……いや少年が俺の脚に抱きついてきた。

「いや、俺は……」

 父親を捜すが彼の姿はどこにもない。少年は俺にしか聞こえない声で、噛んで含めるように言った。

「ぼくもおとうさんと、でたでしょう?」

 確かにその見舞いには父親が迎えに来た。たぶんまだ離婚という事態も理解できていなかったから、ごく当たり前に病院まで来た母と手を振って別れた。

 それが祖父との生涯のお別れであった。

 どういう話し合いが行われたのか、最期に顔を見せてあげ、死には経ち合わせないという気遣いがあったのだろう。

 もちろんそのときは姉もそこにいたはずなのに、どうしたわけかここにはいない。

「あ、ああ……」

 とにかく演じねばならない。「そんなら行くか」

 精一杯、父親の話し方を真似する。たぶんその日、彼がそうしたように、唇を引き結んだ硬い表情で、ゆっくりとお辞儀をして廊下に出た。

 暗い廊下は、両端ばかりが窓から射し込む光で白んでいる。怖いくらいに誰とも出会わない。

「おまえ、俺なのか?」

「うん」

 少年は事も無げに肯いた。エレベーターホールが見えると、一目散に駆け出して、下へ降りるボタンを押す。

 すぐにやってきたそれに乗ると、今度は一階のボタンを押した。

「いつもはひとりなんだ」

 階数表示を無感情で無機質な瞳で、じっと見つめながら少年は言った。

「なにが?」

「ひとりぼっちなの」

「……はあ」

 同じことの繰り返しだった。どういう意味なのだろうと考えている間に、エレベーターは一階に到着した。少年は一歩外へ出ると、くるりと俺を振り返った。階数表示を見つめていたとき同じ無感情で無機質な、次に何がわかるのか知れきった映画を見るようだ目をして、俺を見透かす。

「ぼくがわるい」

 それだけを言って、小走りにロビーのほうへ向かって行った。俺は他に行くあてもないから、のんびりと後を追う。

 ロビーの長椅子に腰かけた少年は、いくらか大きくなっていた。隣には千佳が座っている。

 俺ははじめて、これはおかしいと思った。なぜなら祖父が亡くなった病院と、千佳を担ぎこんだ病院は、まったく違う場所にあるからだ。

「どこに行ってたの?」

 一〇歳くらいの中原千佳は、しゃくりを上げながら、彼女よりすこし年下に見える黒沢修一を責めるように訊ねた。

「トイレだって」

 二人は手を繋いだまま、椅子から動こうとしない。ロビーにも、受付にも、併設された売店にも、どこにも人の気配はない。待ち時間を慰めるテレビだけが虚しく垂れ流されていた。

 千佳はしきりに「ごめんね」と謝り、俺はそのたびに言い方を変えながら「だいじょうぶ」と応えていた。

 他に変化がないのだから、俺の意識は吸い寄せられるようにテレビに向かった。陸上競技場が映っている。たぶん長居陸上競技場だ。映し出されていたのはオリンピックでも世界陸上でもインハイですらない。中学生の記録会だった。

 中学生時代の自分が映っている。走る姿は、たしかに人が褒めるように姿勢が良い。あれで遅いのだから、才能が根本的に足りないのだ。

 あと三年――意地になっていたら何かが花開いたかもしれない。浪費した三年のうちに、体育の記録が伸びてしまい、そういう後悔がわかないわけではなかった。

 けれども、命を削ってコンマ一秒を縮めたいほど、陸上競技を愛してはいなかった。それがなによりの、凡才の証拠だろう。

 テレビには俺と一緒に部長や茅野や、先輩も映っている。

 俺が昔の自分を見ているのだから、カメラが俺を客観視しても不思議はないか……。考えながらちらりと少年をうかがうと、むこうもこちらに顔を向けていた。唇だけを動かす。

「早くかえりなよ」

 たぶん、そんな感じ。言われなくても、こんな場所に用はない。

 あと何時間、親を待つのかもわからない少年少女をその場に残して、自動ドアを通って外へ出る。

 やさしい光に包まれて、反射的に目を閉じる。

 快い香りを運ぶあたたかい風が、頬を撫でてそよいでいく。



 ――ん? …………わ…………てる?

 音。

 遠い。

 人の声。

 女の声。

 波みたい。

 音が明滅。

 蛍の光を思い出す。

 ――だいじょうぶ? くろさわくん。いきてる?

 音の輪郭が見える。

 声は意味を結ぶ前に霧散する。

 真っ白の世界。

 黒い影。

 繰り返される音声。

 動かない映像。

「くろさわくん? だいじょうぶ?」

 名前。

 自分の名前。

 大丈夫?

 なにが?

 深海から気の長い速度で浮上する。声が言葉になる。光が映像になる。

 人影が見える。名前を呼ばれている。大丈夫と心配されている。人影は内田だ。

 マニュアルでもあるかのように、一つずつのスイッチが入ってゆく。

 瞬きができる。ようやく思考が始まる。

 内田が俺を見ている。心配そう。かわいい。後ろは天井。しきりに大丈夫と問いかける。不安そうに周囲を見ては、また俺を見る。

 声はまだ出ない。

 呼吸をする。だんだんと色んなものが明瞭になる。キャトルミューティングされたみたい。呻きが漏れた。

「黒沢くん? 黒沢修一くん? えっ、これ大丈夫なの……? 生きてる?」

「……ころすな」

 やっと声が出せた。

 内田の表情がぱっと和らぐ。視界から彼女が消えたかと思うと、胸に重さを感じた。

 気を失っていたらしい。人は耳から意識を取り戻すらしい。死の間際にも声だけが聞こえる時間が、きっとあるのだろう。

 祖父は最期に何を聞いたのかと、ふと思う。

 視線をめぐらす。カーテンに囲まれた空間。白い天井には規則的な穴。かたいベッドと枕と、消毒液か何かのにおい。保健室だ。

 現状が認識できると、しだいに前後の記憶が浮かび上がってくる。

「誰が運んでくれたの」

「高梨くん」

 心地良い重さが、胸から離れた。落ち着きを取り戻した顔が現れる。

「……そう」

「黒沢くん、大丈夫?」

 あらためて俺の顔をのぞきこむ。ふわりと彼女のかおりが鼻をくすぐる。甘いのはなぜだろう。

「たぶん、大丈夫。えっと……何分ぐらい寝てた?」

「保健室に来てからは、十分くらいかな」

「あ、そう」

 しばらくそうして内田を見上げていると、ドアの開く音がした。内田が「あっ」と振り向く間に、カーテンを無造作に開けて、養護教諭がずかずかと現れた。

 お姉さんと呼ぶにはいささか薹が立ち、おばさんと呼ぶのはさすがに気が引ける、まさしく妙齢というべき年代の女性だ。茶髪のシニョンを作っている。薄緑のセーターに羽織った白衣がよく似合う。

 チョーク対策に白衣を着る教師とは風格が違っていた。着こなしている、と言っても良い。

「お、目ぇ覚めてるね」

 薄いピンクの口紅を引いた唇を、にっと三日月形にかえる。消えたかと思うと自分の椅子を引っ張ってきて、ベッドのそばに腰をおろした。

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