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走り出したら  作者: 肉団子
4章
82/124

やっぱり何かあった



「黒沢くん、調子悪い?」

 翌日の放課後、HRが終わった直後に内田が俺のもとへ来た。ガヤガヤと人が入り乱れる音を聞きながら、彼女の言葉を頭の中で反芻した。

「ちょっと寝不足かな」

 まんじりともしないまま夜が明けてしまった。眠ろう眠ろうとしたけれど、目は冴える一方だった。けれど体育でもすこぶる好調だったし、気分は沈鬱ながらも、非常に澄んでいる。

「そう」

「なあ、内田。ちょっと一緒に居残りしてくれない?」

「え、それはどういう……」

「まあ、ちょっと」

 訝しみながらも、いや、だからこそだろう。内田はためらうように肯いた。高梨と三人で雑談をしていると、案外早くに彼は来た。

 まだクラスには、いくらかのグループが残っている。自習であったり、卒業アルバムの制作作業であったり、カードゲームであったり――俺のクラスメイトたちを彷徨うように見て、遠野誠は入口に立ち尽くしていた。

「あれ、遠野」

 声を上げたのは内田だった。「もう放課後だよ」

 下校時間ギリギリに着てくれると信じていたのに。俺は足元に肺の空気をこぼすようにため息を吐ききって、口角と顔を同時に持ち上げる。

「遅かったなあ、誠」

 誠は無言のまま不確かな足取りで近付いてくる。

「遠野……?」

 不安げな内田の声に、申し訳なくなって視線がそちらに向かう。高梨のだらしない顔が、今はいくらか引き締まって見える。付き合いが長いだけあって、察してくれているようだ。

「勉強ができるからってサボってんじゃねえぞ」

 わざと小馬鹿にしたように言う。誠はいっさい表情を変えず、俺を見下ろしてくる。近付いてみれば、その顔には事態への困惑や憤り、自責の念やその分だけの他者への恨みがごちゃ混ぜになった、要するには思いつめた表情だ。

「なんとか言えよ」

「被害者ぶってない」

 自分に言い聞かせるように、呟き声を漏らした。「だろうな」という言葉を、俺は飲み込む。

 教室に残っていた連中が、剣呑な空気を肌で感じたのか、ちらちらと見てくるのがわかる。

「それじゃ、なんで学校休んでんの?」

「それは……」

「わからないだろうな、誠の頭じゃ」

「はあ?」

「お勉強ばっかりやってるから、そんな簡単なこともわかんないんだよ。いや、っていうかそもそも、こういう事態になるのだって、そういうことだろ」

「関係ないだろ、それ」

「あるよ。おまえ、教科書に書いてないとなんもできないのな。だから自分の気持ちも口にできないの」

「なんで知ってんだよ」

「直接聞いたからな、千佳に」

 誠の下瞼が、ぴくりと動く。歯を食いしばるように、顎に力がはいった。

「だからさあ、事の経緯は知ってんの。おまえが下らない電話したってこととかさ」

「それがっ……」

 叫ぼうとした声は喉につっかえるように、熱のこもった吐息に変わる。

 遠野誠の精一杯が、きっとこれなのだ。まったくもって優等生だ。だんだん本気で腹が立ってくる。

 俺を睨みつけてく誠の、ちょうど眉間に指を突きつける。

「被害者ぶろうったってそうはいかねえぞ。別れ際でも、電話越しでも、いつでも言えたろうが。待ち合わせったって、なんでてめえで追いかけねえんだ」

「わかってるよ!」

 泣き出しそうな声で誠が叫んだ。

「わかってないだろ!」

 机をひっくり返す勢いで立ち上がる。思いがけず大きな音がして、自分で驚きながら誠の学ランの胸倉を掴んで、力任せに押して行く。

「ぶらぶら逃げ回って、みんなに心配かけて、挙句ここか? 悪いって思ってんだったら、見舞いにくらい行けよ、このボケッ!」

 黒板にぶつけるように手を放す。痛みに呻き、

「うるさいな!」

 と、誠の足が、俺の腰を踏む。よろめくように後ずさる。「修一に関係ないだろ!」

「おお、関係ないぞ。それがこうなってんのは、おまえが現実逃避してるからだろ。この際だからはっきり言うけどな、おまえがバカみたいな電話で呼び出したせいで事故ってんだから、おまえが悪い」

 言い終わらぬうちに、誠が体ごと突っこんでくる。

 咄嗟に頭をかばって床に転がった。馬乗りになった誠を、両脚で挟んで引き倒してからよろめき立つ。

 遅れて立ち上がろうとした誠の肩を、蹴って再び倒す。

 ここまでやれば良かろう。舌で歯をぐるりと撫でる。抜けてくれるなよ。

 誠が歯を剥いて俺を睨み上げてくる。体を起こす前に駆けて来る。明らかなテレフォンパンチ。ぐっと力を込めて、上腕で当たりに行く。

 無意識に衝撃を逃がすように体を捻った。反動を利用して、俺も同じような拳を出す。


           ○


 突然に殴り合いが始まった。

 止めに入ろうとしたが、内田は身が竦んでしまって動けなかった。喧嘩がこんなに恐ろしいものだと知らなかった。

 助けを求めるように高梨を見ると、彼はじっと教室で暴れまわる二人を見ていた。

「ね……ねえ、止めないと……!」

 必死にそう告げると、高梨はちらとも内田を見ずに、

「いや」

 とだけを呟いた。無意識に返事をしたようで、しかしその声は明瞭だった。

 教室に残っていた人たちは、壁際に逃げて傍観している。どの顔にも困惑が浮かんでいる。

「どうして?」

「いや、どうしてって……」

 それ以上の答えは返ってこない。高梨は他のクラスメイトとは違い、身構えながら静観している。

 机の倒れる音が響いて、内田は思わず身が縮こまった。

 二人はどこからか出血したようで、顔や手、衣類に染みができはじめている。

 止めなければならないという気持ちが増すほどに、足は根を生やしたように動かない。高梨に頼ろうという声さえ、喉から出てこなくなった。

 ほとんど振り回すようなパンチが、黒沢の頬を打った。大きく傾いだ顔から、珠になった血飛沫が飛ぶ。

 ――そうだ、先生。

 ようやく思い出した。内田は縋るような気持ちで歩き出したが、足取りは不確かだった。まっすぐ歩けているのか、いや進めているのかさえわからない。

 ようようたどり着いたドアを開け廊下に出る。どこに先生がいるのかさえ、頭は判じられなくなっていた。

 三年八組のプレートが目に入る。

 しかし隣の教室は誰もいない。あんなに騒がしいのに誰も来ないんだものなと、内田は妙な納得をしてしまう。

「あ、職員室……」

 なぜ一番初めにそこを考えなかったのだ。急ごうと思って振り返ったところで、七組の教室から上半身を出している高梨と目が合った。

「ああ、良かった」

「なにが良いの」

 咎めるような口調になった。苛立っているらしい。緊張をほぐすのと同じように、一息に空気を吸い込んで、唇の隙間からゆっくりと吐き出す。

「何かあったらオレが止めるから、先生はちょっと待ってくれ。いろいろマズい」

「もう何かあったじゃない」

「いやまあ、それはそうなんだが……」

 高梨は下唇を噛んで、視線をあちこちに彷徨わせる。

 あれはじゃれ合いということ? いやそれはない。遊びで殴ったりプロレスをしたりするのは、内田もそれなりに目にしているが、それとは空気が全然違っていた。

 まるで通せんぼするように、高梨は内田の前に立つ。

 何が起こっていて、何が正しくて、何をすべきかがわからない。自信なげに、しかし確信的に見守ろうとする高梨のほうが、ずっと事態を理解しているのかもしれない。

 睨み合っていると、教室のほうから悲鳴が聞こえた。

 やっぱり何かあった!

 叫びたい気持ちをおさえ、教室に駆け込んだ。


          ○


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