やっぱり何かあった
「黒沢くん、調子悪い?」
翌日の放課後、HRが終わった直後に内田が俺のもとへ来た。ガヤガヤと人が入り乱れる音を聞きながら、彼女の言葉を頭の中で反芻した。
「ちょっと寝不足かな」
まんじりともしないまま夜が明けてしまった。眠ろう眠ろうとしたけれど、目は冴える一方だった。けれど体育でもすこぶる好調だったし、気分は沈鬱ながらも、非常に澄んでいる。
「そう」
「なあ、内田。ちょっと一緒に居残りしてくれない?」
「え、それはどういう……」
「まあ、ちょっと」
訝しみながらも、いや、だからこそだろう。内田はためらうように肯いた。高梨と三人で雑談をしていると、案外早くに彼は来た。
まだクラスには、いくらかのグループが残っている。自習であったり、卒業アルバムの制作作業であったり、カードゲームであったり――俺のクラスメイトたちを彷徨うように見て、遠野誠は入口に立ち尽くしていた。
「あれ、遠野」
声を上げたのは内田だった。「もう放課後だよ」
下校時間ギリギリに着てくれると信じていたのに。俺は足元に肺の空気をこぼすようにため息を吐ききって、口角と顔を同時に持ち上げる。
「遅かったなあ、誠」
誠は無言のまま不確かな足取りで近付いてくる。
「遠野……?」
不安げな内田の声に、申し訳なくなって視線がそちらに向かう。高梨のだらしない顔が、今はいくらか引き締まって見える。付き合いが長いだけあって、察してくれているようだ。
「勉強ができるからってサボってんじゃねえぞ」
わざと小馬鹿にしたように言う。誠はいっさい表情を変えず、俺を見下ろしてくる。近付いてみれば、その顔には事態への困惑や憤り、自責の念やその分だけの他者への恨みがごちゃ混ぜになった、要するには思いつめた表情だ。
「なんとか言えよ」
「被害者ぶってない」
自分に言い聞かせるように、呟き声を漏らした。「だろうな」という言葉を、俺は飲み込む。
教室に残っていた連中が、剣呑な空気を肌で感じたのか、ちらちらと見てくるのがわかる。
「それじゃ、なんで学校休んでんの?」
「それは……」
「わからないだろうな、誠の頭じゃ」
「はあ?」
「お勉強ばっかりやってるから、そんな簡単なこともわかんないんだよ。いや、っていうかそもそも、こういう事態になるのだって、そういうことだろ」
「関係ないだろ、それ」
「あるよ。おまえ、教科書に書いてないとなんもできないのな。だから自分の気持ちも口にできないの」
「なんで知ってんだよ」
「直接聞いたからな、千佳に」
誠の下瞼が、ぴくりと動く。歯を食いしばるように、顎に力がはいった。
「だからさあ、事の経緯は知ってんの。おまえが下らない電話したってこととかさ」
「それがっ……」
叫ぼうとした声は喉につっかえるように、熱のこもった吐息に変わる。
遠野誠の精一杯が、きっとこれなのだ。まったくもって優等生だ。だんだん本気で腹が立ってくる。
俺を睨みつけてく誠の、ちょうど眉間に指を突きつける。
「被害者ぶろうったってそうはいかねえぞ。別れ際でも、電話越しでも、いつでも言えたろうが。待ち合わせったって、なんでてめえで追いかけねえんだ」
「わかってるよ!」
泣き出しそうな声で誠が叫んだ。
「わかってないだろ!」
机をひっくり返す勢いで立ち上がる。思いがけず大きな音がして、自分で驚きながら誠の学ランの胸倉を掴んで、力任せに押して行く。
「ぶらぶら逃げ回って、みんなに心配かけて、挙句ここか? 悪いって思ってんだったら、見舞いにくらい行けよ、このボケッ!」
黒板にぶつけるように手を放す。痛みに呻き、
「うるさいな!」
と、誠の足が、俺の腰を踏む。よろめくように後ずさる。「修一に関係ないだろ!」
「おお、関係ないぞ。それがこうなってんのは、おまえが現実逃避してるからだろ。この際だからはっきり言うけどな、おまえがバカみたいな電話で呼び出したせいで事故ってんだから、おまえが悪い」
言い終わらぬうちに、誠が体ごと突っこんでくる。
咄嗟に頭をかばって床に転がった。馬乗りになった誠を、両脚で挟んで引き倒してからよろめき立つ。
遅れて立ち上がろうとした誠の肩を、蹴って再び倒す。
ここまでやれば良かろう。舌で歯をぐるりと撫でる。抜けてくれるなよ。
誠が歯を剥いて俺を睨み上げてくる。体を起こす前に駆けて来る。明らかなテレフォンパンチ。ぐっと力を込めて、上腕で当たりに行く。
無意識に衝撃を逃がすように体を捻った。反動を利用して、俺も同じような拳を出す。
○
突然に殴り合いが始まった。
止めに入ろうとしたが、内田は身が竦んでしまって動けなかった。喧嘩がこんなに恐ろしいものだと知らなかった。
助けを求めるように高梨を見ると、彼はじっと教室で暴れまわる二人を見ていた。
「ね……ねえ、止めないと……!」
必死にそう告げると、高梨はちらとも内田を見ずに、
「いや」
とだけを呟いた。無意識に返事をしたようで、しかしその声は明瞭だった。
教室に残っていた人たちは、壁際に逃げて傍観している。どの顔にも困惑が浮かんでいる。
「どうして?」
「いや、どうしてって……」
それ以上の答えは返ってこない。高梨は他のクラスメイトとは違い、身構えながら静観している。
机の倒れる音が響いて、内田は思わず身が縮こまった。
二人はどこからか出血したようで、顔や手、衣類に染みができはじめている。
止めなければならないという気持ちが増すほどに、足は根を生やしたように動かない。高梨に頼ろうという声さえ、喉から出てこなくなった。
ほとんど振り回すようなパンチが、黒沢の頬を打った。大きく傾いだ顔から、珠になった血飛沫が飛ぶ。
――そうだ、先生。
ようやく思い出した。内田は縋るような気持ちで歩き出したが、足取りは不確かだった。まっすぐ歩けているのか、いや進めているのかさえわからない。
ようようたどり着いたドアを開け廊下に出る。どこに先生がいるのかさえ、頭は判じられなくなっていた。
三年八組のプレートが目に入る。
しかし隣の教室は誰もいない。あんなに騒がしいのに誰も来ないんだものなと、内田は妙な納得をしてしまう。
「あ、職員室……」
なぜ一番初めにそこを考えなかったのだ。急ごうと思って振り返ったところで、七組の教室から上半身を出している高梨と目が合った。
「ああ、良かった」
「なにが良いの」
咎めるような口調になった。苛立っているらしい。緊張をほぐすのと同じように、一息に空気を吸い込んで、唇の隙間からゆっくりと吐き出す。
「何かあったらオレが止めるから、先生はちょっと待ってくれ。いろいろマズい」
「もう何かあったじゃない」
「いやまあ、それはそうなんだが……」
高梨は下唇を噛んで、視線をあちこちに彷徨わせる。
あれはじゃれ合いということ? いやそれはない。遊びで殴ったりプロレスをしたりするのは、内田もそれなりに目にしているが、それとは空気が全然違っていた。
まるで通せんぼするように、高梨は内田の前に立つ。
何が起こっていて、何が正しくて、何をすべきかがわからない。自信なげに、しかし確信的に見守ろうとする高梨のほうが、ずっと事態を理解しているのかもしれない。
睨み合っていると、教室のほうから悲鳴が聞こえた。
やっぱり何かあった!
叫びたい気持ちをおさえ、教室に駆け込んだ。
○




