不払いの「ありがとう」
「そうだった……、すっかり忘れてた」
「ひどいな。俺よりでかい図体した千佳を、頑張って背負ってやったっていうのに」
「ええ? そんなにおっきくなかったよ」
不満そうに口を尖らす。俺は手のひらを天井に向けて、わざとらしくため息をついた。
「いいや、大きかった。おまえ五月生まれだろ」
「ああ、そっか。まだ成長期来てなかったもんね」
「それに子供が子供背負って歩くには、ずいぶん遠かった」
今になってみれば、徒歩一〇分もかからない。しかしその道程は果てもない遠路であった。一歩の小ささも、世界の狭さも、頼れる者のない行軍も、あらゆるものが数字以上の距離を俺に歩かせた。
「でも修ちゃん、私が『おもくない?』って聞いたら『だいじょうぶ』って言ったじゃない」
「そりゃおまえ、励ますためだろ」
そんな会話をした記憶は、すっかり抜け落ちているけれど。
「うん、励ましてくれてた。ずっとお金とか保険証とか、色んな心配する私に、大丈夫って言い続けてくれてたから、ああ大丈夫なんだって思えた」
「千佳さん、小学生でそんな心配してたの?」
女という生き物は、まったくもって早熟だ。俺はいまだに保険証をどうしようなどと考えたことはないというのに。
さて、そうすると俺はいったい何を考えながら、あの長い道程を歩いていたのだろう? 記憶の紐を手繰っていると、
「中原さーん」
小声なのに不思議と通る声で、看護婦が病室の入口に立った。
「あ、時間」
千佳は手をぽんと叩く。「ほら修ちゃんも、学校行きなさい」
「はいはい、わかってますよ」
廊下に出ると千佳は、唐突に「ありがとね」とお礼を言った。
「なにが?」
「さっきの話のお礼。そういや、まだ言えてなかったから」
「……えらい時間差だな」
「病院まで運んでくれたことと、お母さん来るまでずっと手を握っててくれたでしょ。だから、ありがとう」
「看護婦さん、こいつ頭打って記憶が混乱してますよ」
朝っぱらから何しに来やがったと言いたげに俺を見る看護婦に冗談を言うと、千佳はいまし礼を述べた相手に蹴りをはなつ。
「はよ帰れ」
追い返されるように病院を後にした。
しかし……手を握っていた? それこそまったく記憶にない。
「おお、黒沢。ちょうど良かった」
真夏と同じ肌の浅黒さの武内は、廊下での出会い頭に俺を呼び止めた。
長いこと屋外で陸上競技に精を出しすぎたのだろう。すっかりメラニン色素は沈殿している。内田とはえらい違いだ。
「なんですか? 願書ならちゃんと出しましたよ」
「それはわかってる」
誰がどういう問題を抱えていて、どういう状態であったとしても、受験日は待ってくれない。病床の(ほとんど寝泊りしているだけだが)千佳でさえするべきことはしているのである。俺もともかく目安をつけて、えいやと出願した。
「そうじゃなくてなあ、おまえ、遠野の奴がどうしてるか知らないか?」
「誠? いや、知りませんけど。風邪なんじゃないですか」
「風邪なあ……そういう連絡は受けてないんだがなあ」
武内は「ううむ」と唸りながら、腕組みをして背中を反らした。中年太りのまったくない腹筋が、ちらりとのぞく。顔と同じくらいに日焼けしている。おかしい。
「っていうか、なんで俺に?」
「八組の先生に聞いてくれって頼まれてな。友達だろう」
「まあ」
「ふぅむ……ま、遠野のことだから、心配はないと思うんだが」
鼾のような唸り声を響かせたまま、武内は廊下を歩いて行った。
どうせそのうち来るだろうと思っていたが、そういえば数日誠の顔を拝んでいない。馬鹿は風邪を引かないというが、賢い奴は風邪を拗らせるものなのだろうか。
武内から伝染した唸り声をあげながら教室に入ると内田に、
「武内先生みたい」
と言われてしまった。彼はことあるごとに唸っているらしい。
「ああ、内田。誠知らない?」
俺の質問に、内田の目が剣呑に細くなる。
「……えっと、それはどういう意味ででしょうか?」
「どうって、休んでる理由」
「ああ……。知らない。あいつ休んでたんだ」
「そっからかあ……」
内田にとって不要な言葉は彼女の上を通過し、不要な映像は半分閉じた瞼に遮られる。それくらいにきっぱりとした態度だった。
俺の知る限りもっとも遠野誠に近い内田が知らないのだから、もはや自宅にお見舞いに行くほかはない。
俺はその日の放課後に、さっそく足を伸ばすことにした。
なにも家まで行って学校に出て来いと言ってやる義理はないのだが、遠野が学校に来ていないとなると、きっと千佳がまた気に病むだろう。何を検査していたのか、医者から無事の太鼓判を捺され、明日には退院するという。心配性のおじさんが、今週いっぱいは休めと言っているらしいので、来週までには誠を引きずり出さないといけない。
千佳に対しても、俺が骨を折ってやる義理などなかったが、気の遠くなる時を隔てたお礼が、後ろめたい気持ちにさせていた。
不払いの「ありがとう」には利子がつかず、時効だけがあるらしい。
遠野家は川沿いの大きなマンションだ。校区割りからして内田家もこの辺りにあるのだろうと、意味もなく家々の表札を確認しながら歩く。
暦の上ではそろそろ立冬である。たまには温暖化にかこつけて秋を続けても良さそうなのに、地球は律儀にもどんどんと冷える。一時暖かさを思い出したりするくせに、天気予報士は「週末の雨のあとはすっかり冬模様になります」などと言う。
放課後の町並みは、どこもかしこも影だらけである。低い太陽がさっさと沈もうとするせいだ。陽光を浴びないと、肌が季節を実感する。
こういう場合、学ランは非常に便利だ。ボタンをひとつ多く留めるだけで、ずいぶんとぬくい。
川風から逃げるように、自動ドアを通ってエントランスに入る。白い床と壁の中に、ぽつんと銀色の集合機が鎮座している。頭の中で確かめながらボタンを一つずつ押すと、少しの間を置いて応答する気配があった。
「あの、黒沢と言いますけど、誠君いらっしゃいますか?」
『あっ、黒沢さん? どうぞ、上がって』
声は子供だ。妹の真理ちゃんだろう。
「いやあの――」
上がるほどのことはないのだが、という言葉を言う前に回線は切れ、オートロックが開錠された。入れと命令するように、ゆっくりとガラスがスライドする。
エレベーターで上へあがる。なんとはなしに緊張しながら待っていると、上品な電子音をひとつだけ鳴らして、ドアは静かにひらく。
おそろしいことに、内廊下なのである。しかも床は足音がしないようにカーペットが敷かれている。雨樋を伝ってマンションへの侵入を遊びにしていた俺からすると、この空間に緊張してしまう。本当はホテルなのではないだろうか。
一度進む方角を間違えて引き返し、目的の部屋番号を見つける。
インターホンを鳴らすと、すぐに扉は開かれた。思った通り、妹の遠野真理が俺を見上げていた。
ヘアピンで分けた前髪から見える額はつるんとしている。目鼻立ちのはっきりしている分だけ、利発そうな印象を与える。兄にも負けぬ頭脳は、彼にくらべるといくらか柔軟だった。
「どうぞ、あがってください」
「あれ、誠の野郎は?」
ドアを大きく開けたまま、真理ちゃんはむくれたように、口をへの字にする。
「まだ帰ってませんけど」
「風邪とかではなくて?」
互いの顔に疑問符を浮かべて、同じ方向に首を傾げた。それからまったくシンクロして、「あっ」と口を開いた。
それから少し慌てたように前のめりに、
「もしかしてうちのあんぽんたん、学校サボってますか?」
「……一応、登校はしてるんだよな」
「はい」
と、肯いたきり、真理ちゃんは落ち着きを取り戻した。「しれっと家出て行って、何食わぬ顔で帰って来ますよ。そういやあいつ、最近帰ってくるの遅いな……」
「そうか……じゃあ、伝言頼んで良いかな」
「え? 待って行かないんですか?」
「真理ちゃん受験生だろ。勉強しないと」
「いえ、たぶんもう十分できてますので」
「ごめんなさい、俺が全然なんです……」
受験勉強をサボっていたから人を待つ余裕がないと、三つも下の女の子に告白する不甲斐なさといったら生半ではない。それも直前に、相手を心配するふりまでしているのだから。
「お兄ちゃんと反対なら、私が勉強教えられるのに」
「そしたら会ってもないけどな」
真理ちゃんはぷくっと頬を膨らましてそっぽを向く。
「じゃあ三つ上が良かった!」
「北高受けるんだろ? そんなに余裕あるの?」
「それは本当」
兄に似て自信家である。しかしその形容は違っている。誠のそれは硬い外殻であるとすれば、彼女はバネという感じだ。
俺は前途をあれこれと思案し、上手な解決などできそうもないことだけを確信する。
「それで伝言なんだけど、良いか?」
「……なんですか?」
「被害者ぶってねえで学校来やがれ、って言っといて」
「うん? わかりましたけど」
納得がいかないという顔のまま肯いてくれた。良い子だと思う。事情を追求されることばかりは、俺ではなく奴の責任だ。




