電話
――麻衣ってば、いつからこんなことをしているんだろう?
高校二年のときには、友達だったと思うし、ずいぶん早いうちから、黒沢の話をせがまれた記憶がある。けれどもそんな、甘い響きが含まれ始めたのは案外最近だという気もする。ま、感情のよくわからない子だ。色気より食い気と眠気が表に出ている。
黒沢とはまた違った方向に面倒くさがりだ。彼が後回しにして逃げようとするタイプだとすれば、内田はさっさと片付けてしまえというタイプ。
そうと思えば、バスケットボールでの珍しく溢れていた気迫は、面倒事を叩き潰してしまえという短絡さからくるのだろう。それにしては少しムキになっていた気もするけれど。
大好きな二人の友人の今後を想像する。きっと相性は悪くないのだ。問題があるとすればやはり――
説教してやろうかと携帯電話を取り出す。しかしどう言葉にしたものかと悩んでいると、突然液晶画面が灯った。
着信を知らせるメロディ。「遠野 誠」と表示されている。
遠野が? どうして?
「はい、もしもし」
『あ、えっと、遠野だけど』
上擦った声に、くすりと笑ってしまう。
「だろうね」
『ああそうか、ケータイだもんな』
「どうしたの?」
問う声に熱がこもる。期待に鼓動が速くなる。
寒さを忘れていた。
『えっとさ……修一と同じへたれってのが我慢できないからさ』
「でも、そう言っちゃうところはあいつと一緒」
黒沢も遠野と同じだと言われれば、わざと正反対へと走るだろう。
『かも。って、そんな話じゃなくて』
「うん」
『さっき言いそびれたことなんだけど……もう一回会えないか』
「いいよ。どこにする」
『そうだな、内田の家に行く途中に、大きな公園あっただろ。あそこでどうかな』
「うん、わかった。もし見つからなかったら、また電話する」
『了解』
通話を終えても中原はしばらく動けなかった。野良猫に頭突きをされて、やっと時計の針が進む。あんまり突然駆け出したから、野良猫は抗議の声をあげた。
「ごめん!」
まったく意味はないけれど衝動は抑えられなかった。夜道を走る。窓や車や自販機の光が、流星みたいに流れていく。
体が芯から熱くなる。きっと今息を吐いたら、白く染まるだろう。
小道を抜けて、通りを渡る。
目に飛び込んでくる真っ白な――
○
「修一、あんたに電話」
保留音を流す受話器を持って、母が俺のところにやってきた。
球技大会の翌日のことである。
昨夜は残った後片付けをした時点でどうとも眠くなり、いそいそと布団にもぐりこんだ。そのせいで今朝は風呂に入ったり教科書を準備したりと、普段の何倍も忙しかった。ようやく一息ついて新聞を読んでいた最中である。
「千佳ちゃん」
にんまりと笑う母がどうにも鬱陶しくて、俺は受話器を持ってベランダに出た。朝の喧騒が家やビルの隙間をわたっている。通話ボタンを押した。
「もしもし」
『あ、修ちゃん?』
「そうだけど」
『おはよう』
「はい、おはよう」
『ちょっと事故っちゃってさ』
「はぁ?」
声が裏返る。驚きのせいでジコという単語に、当てはめるべき漢字が思い浮かばない。しかし意味は十分に伝わった。
『うるさい』
うんざりしたような声が受話器から届き、俺は我にかえった。
「えっ……大丈夫なのか?」
『じゃなければ電話なんてできないよ』
「あ、そうか……」
ほっと息が漏れる。電話の向こうから、押し殺したような笑い声がした。
反対の耳に朝の雑踏が障る。家の中に戻り、壁に背を預けた。
「それでどうしたんだ?」
無意識に声が優しくなる。また笑われた。
『ちょっと持って来てもらいたいものがあるんだけど、頼める?』
「おお、いいぞ。末端価格いくらってのじゃなきゃな」
『そんなの頼まないし。えっとね、私の部屋、っていうかベッドの上にあるんだけど――』
「は? 部屋? ベッド? おまえ今どこにいるんだ」
『あれ、言ってない? 病院よ。小学校の前の通りをずーっと行ったとこにある』
「は?」
ちっとも大丈夫ではないじゃないか。
受付はすでに老人でいっぱいだった。元気にお喋りしている。近頃ゲートボール場が雑草の茂るままになっているとは思っていたが、寄り合い所は病院に変わったらしい。
彼らはきっと長生きをするだろう、と視線をめぐらすと壁際にちょこんと、腕を吊った男性が立っていた。病院に似つかわしい暗い表情だ。
心の中でエールを送って通り過ぎる。
物心ついたころから俺は病院が苦手である。唾をつければ治ると信じて疑わないのは、病院嫌いが高じただけだ。周囲にいるのは体を病んだ人間ばかりだと、治しにいったはずなのに余計な病気をもらいそうで怖い。高熱を出したり、胃の中を戻したり、眩暈が続いたりして病院へ行っても、待合室でケロりと治ってしまうのも、早く帰りたい一心のなせる業だったろう。
案内板を確認してエレベーターに乗る。
そういえば母親も、あんまり調子が悪いからと入院すると、すぐに元に戻っていた。病院にいたくないという気持ちが、何よりの特効薬なのだ。
ひっそりとした廊下を歩く。増築された新館は、どこかホテルじみた空気がある。どこの病院も昼間から肝試しができそうだったのは、もう昔の話なのだろうか。
教えられた病室を覗く。四人部屋である。右手奥のベッドに、上体を起こして本を読む千佳を見つけた。薄いピンクのパジャマである。
他に人の姿はない。しかし病院ということを考えると大きな声を出すのもはばかられ、俺は静かに歩み寄る。
「よう」
声をかけると、千佳は横目でこちらを確認し、すぐに栞をはさみ、太ももの上に置いた。
「ごめんね、学校なのに」
「ほんとだよ。皆勤賞だったのに」
「うそつき」
あらためて病室を見る。上下で白と木目に分かれている。冷蔵庫つきの荷物入れも木目調である。どうにも俺の抱いている病院像は古いらしい。陰気な待合室を通り、足音ばかりが遠く聞こえる暗い洞窟みたいな廊下を抜けて、清潔というよりも潔癖な印象を与える白い病室。
沈鬱な廊下と白々しい病室が子供心にも、ここは病気を治す場所ではなくて命を終える場所なのだと恐怖させた。
俺が大人になったというよりも、病院が患者に優しくなったのだろうと納得し、折畳み椅子を引き寄せて座る。
「何があったんだ」
「言ったでしょう。車に撥ねられちゃった」
「ちゃったってなあ……」
「ちょっと意識飛んだみたいでね。検査入院? みたいな」
「あっそう」
「持って来てくれた?」
「おう」
指にひっかけていた紙袋から、薄汚れた人形を取り出す。すっかりくたびれているが、かつては立派な熊だった。
「ありがとう。これないと眠れなくて」
「それ、昔ゲーセンで取ったのだろ」
「うん。キュンとするでしょ?」
前後の経緯は欠落しているが、数人で商店街のゲームセンターに遊びに行った。全員が挑戦していたせいで、断りきれずにUFOキャチャーをやるハメになった。無欲の強さというべきか、ビギナーズラックというべきか、ぽろんとぬいぐるみが落ちてしまった。
少女漫画はもちろんのこと、女性キャラクターが多い漫画は女々しいとして読めなかった少年時代である。たとえ棚から転がり落ちた餅であっても、持ち帰ることなどできない。それで俺はなるだけ角の立たない相手として千佳に押し付けた。
抱えたような気がしていた熊だったのに、鷲掴みにできてしまうのが物悲しい。
「しない」
「そう? 私はこれ、修ちゃんが唯一プレゼントしてくれたものだし、ずっと大切にしてるのに」
「そりゃどうも」
唯一だったのだろうか。しかし誕生日を祝った記憶もない。
「っていうか、おばさんに持って来てもらえよ。その本だって家にあるやつだろ」
「ぬいぐるみがないと眠れないって、恥ずかしくて親になんて言えない」
拗ねたように顎を振った。
「っていうか元気だな。検査なんて必要なの?」
「私は女の子だから。あんたみたいに叩いたら直るポンコツじゃないの、繊細なの」
「ああ、はいはい」
適当に返事をして引き出しを開ける。お菓子を期待したが、小物ばかりである。「それじゃあ、学校行く。俺、真面目だし」
「うそつけ……。あ、ねえ」
立ち上がりかけた俺を、引き止めるように腕をつつく。
「ん?」
「学校でさ、遠野に会ったら謝っておいて」
「……自分で言えよ」
「携帯電話壊れちゃったの。修ちゃんの家の電話番号は指が覚えてたけど、遠野のはわからないし」
「じゃあ――」
電話番号を教えてやると言いかけて、思いとどまる。千佳だって考えないはずがない。ということは、直接は言いにくい事情があるのだろう。
「わかった。会ったらな」
「よろしくね」
と、微笑んだ。会いに行ってでも伝えるな、というほくそ笑みが裏にある。
そしてそれは、おそらく正解になる。




