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走り出したら  作者: 肉団子
4章
78/124

成功しなければならないという平均台

 言いたいことはたくさんあった。言うべきことも、きっとあった。けれどもそれは、二人きりでないと言えない。

 中原千佳は街灯の下でもやもやとした気持ちを、息にこめて吐いてみた。まだ白くはならない。こんなに寒いのにおかしいなと思う。

「あれ、中原ってそっちなの?」

 信号前で高梨が、心底意外だというふうに声を上げた。ヘッドライトとテールランプが視界にちらつく。夜の闇の底を這ってくるようで、なんとなく不思議だ。

「うん。麻衣を送って行く。あいつも心配してたしね」

 考えていた嘘は、すらりと出た。

「ふうん。そんじゃあ、オレはこれで」

 ひらひらと手を振って家路につく高梨を見送りながら、内田がぼそりと言った。

「今日の高梨くんは格好良かったよね」

「ああ、あのヘディングか。たしかにすごかった」

 ちょっと締まらない辺りが、実に高梨っぽくて良い。PKを外した黒沢も、らしいと言えばらしいけど、格好良くはない。

 高梨は馬鹿だ。馬鹿だけど頭を使えないわけではない。彼なりにいろんな事情を考えて、それらを飲み込んで、あの一点をもぎ取ったのだ。そういう背景を思えばこそ、ゴールポストに激突してでも勝ちたいと考えられる彼の姿勢を格好良いと感じる。

 中原は十年来の友人の、気付かない成長を思い知る。

「そういや、中原と高梨は小学校から一緒なんだよな」

 遠野が路地の闇をぼうっと見送りながら言った。

「うん」

「修一とはいつからなんだっけ」

「修ちゃんは、三歳くらいかな? 親同士が同級生とかで、ちょこちょこね」

「さっき見た写真にも写ってたね、千佳ちゃん」

「あの頃の私、可愛いでしょ?」

 冗談を言うと、滲み出るように記憶が溢れてくる。たいていは無邪気に遊んでいたことだ。

「えー、今も可愛いよ?」

 内田が可愛く小首をかしげて言う。

「ありがと。昔はね、修ちゃんももっとしっかりしてたんだよ。もっと自己主張激しい奴だったし。それがいつの間にか、あんなぼけーっとした奴になっちゃって……」

「そうかな」

 と、内田は考えるように空を見上げた。

 そうなのよ、と言いかけた言葉をため息に変える。もちろん、この小さくて健気な友人の後押しをしてやるつもりもあったけれど、それと同じくらいには、黒沢に良い影響が出ればと考えていた。

 一度は変な方向に走ったが、近頃はそれも改善され、幾分かはマシになったように思う。けれども期待したほどではない。

 まったくもってままならない。自分の気持ち一つ持て余しているのに、人のことをどうこうできるはずもない。

 何度目かの大きな通りで、遠野は足を止めた。

「俺、あっちだから」

「女の子二人で夜道を歩けと?」

 内田が低い声で応じた。二人はしばらく火花の出そうなほど睨み合っていたが、やがて遠野ががしがしと頭をかいた。

「ああもう、わかったよ!」

 不機嫌そうにずかずか歩いて二人を先導する。すれ違いざまに「内田で駄目なら俺が敵うわけないだろ」と毒づいた。

 遠野誠のそんなに子供っぽい言動を、中原ははじめて見る。これが付き合いの長さの効能なのだろうか。知らず知らずのうちに、内田にも同じ嫉妬を味わわせているのかもしれない。例えば「修ちゃん」とか。

 なんとはなしに不安になり内田の様子をうかがうと、彼女もまた中原を得意気に見上げていた。時刻が遅くなればなるほど丸くなる彼女の瞳は、わずかな街灯りを爛々と映している。

「どう?」

「……あんがと」

 何度か訪れたことのある内田家の玄関で手を振ったとき、申し訳なさがこみ上げてきた。自分ばかりが気を遣われているようだ。

「ひょっとして、これから中原の家に送ったほうが良いのかな」

 暗がりで表情が読めない。果たしてそれを迷惑に感じているのか、ただの確認なのか、中原は考え込まなければならなかった。「送らないといけないのか」ではないのだから、嫌悪感はないはずだ。たぶん。そんなふうに言葉尻に傍線を引き、発言の意図を捉えようとする。

 これは受験の副作用? それとも誰でも思い悩むこと?

 ふいに路地の家並みに切り取られた、細長い夜空を見上げた。夜空よりも暗い電線が、行ったり来たりと駆け巡っていた。

「ううん、二度手間でしょう?」

「そっか」

 ぽつりと呟くような返事には、すこし落胆の色が見えた。まさか、ね。何でも良いように受け取ろうとするのは、恋する人間の悪い癖だ。

「遠野、中間どうだった?」

「余裕」

「だろうね。私はもう、受験に専念してる」

 高校受験もそうだったけが、余裕を持って準備をしているし、きっと大丈夫だろうというラインを狙っているのに、なぜか不安が嵩を増すのはどうしてなのだろう。父親が見ているスポーツ中継でも、あまりに簡単なボールだと反応できない、なんてことを言っていたけど、そういうものなのだろうか。余裕を持てば持つほど、失敗するわけにはいけないというプレッシャーは、たしかに重くなってはいくけれど。

 成功しなければならないという平均台の上を歩いている感覚。

 暗い路地の先に、子供の幻影を見た。闇の向こうへ走っていく背中でも、それが黒沢修一の少年時代だと中原にはわかる。

 彼の心の尾に、触れたような気がした。

「……そうか」

 心の声が、そのまま口をついた。

「え?」

「ううん、なんでもない」

 怪訝そうに眉間に皺を寄せたのが、薄明かりの中にもわかった。

「ねえ、麻衣と修ちゃんのこと、どう思う?」

「どうって、健康的な奴らだなと思う」

「そうじゃなくてさ」

「まあ……煮え切らないな」

「よね。内田がせっかく勇気出して告白したって言うのに」

「ええっ! 本当か、それ」

 静かな住宅街に、わんと声が響く。どこかの家の犬が吠え返してくる。

「やば、もしかして知らなかった?」

 中原は握った手の人差し指側を口にあてる。「このことは秘密に……」

「わかってる。でもまさか、そんなことになってるなんてな。あの感じだから……そうか、保留にしてるな」

「うん。へたれね、修ちゃん」

「ああ、へたれだ」

 悪口の意見が一致すると、二人の間に笑い声が重なった。同じことで笑えることが、中原には嬉しかった。

「女の子に告白させておいてね」

「返事もできないとはな」

 路地の出口には街灯が、斜めに線を引いていた。まるで曖昧さを許さないとでもいうように。

「それじゃ」

「うん」

 別れを口にしてからも、二人して相手の足元を見つめたまま動かなかった。

 遠野の靴は、意味もなく走り回る黒沢たちと違って、綺麗な汚れ方をしている。ああでも、つま先に擦れた跡がある。歩き方に癖があるのだろう。

 遠野の靴を観察しながら、中原は様々な未来を思い描く。シャボン玉みたいに浮かんでは割れていくそれには、幸福も不幸も映し出される。

 ――曖昧にしておくのは良くないよね。受験もあるし。

「ねえ」

「あのさ」

 ようやく言い訳を探し当て、決意をして開いたはずの口は、同時に声を発した遠野によって遮られた。

 遠野は、いかにも決心が崩れたというふうに目を逸らす。たぶん自分は鏡写しになっている。

「えっと、なに?」

 遠野が水を向けてきた。

「ううん、大したことじゃない。遠野は?」

「いや、あの……寒いから、体に気をつけてな」

「うん」

 気まずい空気を誤魔化すように、明るく肯いて早足でその場を後にする。途中で気になって振り返ると、遠野はポケットに突っこんでいた手を出して、小さく振った。同じくらい小さく、胸の前で小さく振って、中原はもう振り返らなかった。

 とんだへたれだ。黒沢のことをとやかく言えない。いやしかし、明言された好意にためらうよりは、いくらかマシなはずである。

 街灯の橙色に、夏の夕暮れを思い出す。

 ひそかに快復を期待していた内田との交流が、思わぬ方向に転がり出し、心配になって様子を見に行った。あのときの黒沢は、きっと危ない状態だったと中原は回想する。それこそ豆腐の角に頭をぶつけても死ぬのではないかと思うほどに。だから何か責任でもおっつけてやろうと、頭を巡らせた結果、思わず恋心を吐露する結果になったわけだった。

「勝手に元に戻るんだもんなあ……」

 受験のことや、内田のこと。後回しにしたことが山積みで、すっかり途方に暮れているのだろう。その上、自分が頼るのは申し訳ない気がした。

 まさかそんな殊勝な心がけで決心したつもりはなかったが、それなりに重大なきっかけとして、罪悪感がこみ上げてくる。

 だいたいにして黒沢修一という男は、面倒くさがりのくせに面倒見が良すぎるのだ。猫が家出したと相談されれば自分が家出したと思われるまで捜すし、やりたくないやりたくないと繰り返すくせに仕事となれば最後までやってしまう。損な生き方しかできないのだ。

 自分も損を押し付けていたような気がして、中原は憂鬱になる。

 それにしても――と、暗くて寒いのはいけない、気分まで陰鬱になると、頭を切り替える。

 それにしても、遠野は何を言おうとしたのだろう。鏡写しの表情を思い出して、心までも一緒だったのではと淡い期待を抱く。もしそうなのだとしたら、本当にへたれだ。でもこういうのも悪くはない。一歩ずつ、手探りに距離を縮めていくのは、不思議と心地良いものだ。

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