わたしは悪くない
内田はエンドラインからのボールを受け取り、ドリブルで一気にボールを運ぶ。しかしセンターラインのあたりで藤井が目の前に立ちはだかる。戻りが早いこと。内田は軽く舌打ちし、素早く左右に視線を配る。
ボールを右手に、左足を前にして体を捻る。
「走れ!」
声を出し、右手を振って左脇を通してコートの左前へパスを通す。さらに一度パスが繋がり二点を獲得する。しかしまだ一〇点以上の差があった。
ボールが藤井に渡る。相手の攻撃は単調で、まず藤井に出し、味方が上がるのを待ち、決まりやすいところから決める。
内田はセンターラインの手前で藤井の前につく。藤井は不愉快そうに顔を歪めた。ドリブルにもパスにも、内田はしつこく付き合った。簡単には抜かせない。時間をかけさせる。消極的なパスを出させる。ミスをさせる。
完璧に止める必要などない。一本止めたという実績を、着実に積み上げていく。男子に比べれば速度も力もないのだから、それだけでもやりやすかった。
特に藤井は油断している。そのうえ何故だか自分を敵視している。そういう相手を完璧に叩き潰そうと考えるのは、スポーツをする人間の本能なのだろう。
冷静さを欠いているならば、内田にも十分対応できた。
次第に彼女の舌打ちが増える。
サイドライン際でしつこく張り付く。幾度か同じような場面があったが、そのたびに藤井はわざと内田の脚にボールを当ててスローインを獲得していた。そう何度もやられてなるものかと、内田は慎重に守りながら、味方に自分のカバーに入るように背後へ伝える。
あとはタイミングだ。目を、動きを、息遣いを――一瞬、藤井の目線が下に向いた。
地面を蹴って身を翻す。直後、空中にあった内田の身体が、横殴りに吹き飛ばされた。床を転がってから、痛みに顔をしかめた。
「……って」
藤井がしまったという顔をして内田を見下ろしていた。大丈夫、痛いのは表面だけ。汗が垂れてくるのを拭うと、変な色がついていた。
「マイマイ、血っ!」
ほとんど引っぱられるようにコートの外に連れ出され、緊急でクラスメイトが一人、交代に入ってくれた。
「大丈夫、もう止まった」
「いやいや止まってないから」
試合経過を見つめながら主張すると、あっさりと否定された。「誰か絆創膏持ってない?」
声を上げると、誰かが絆創膏を持ってくる。これが女子力というやつか。これからはポケットに忍ばせておこう。なんだか素敵な感じがする。
されるがままに額をいじられながらうずうずとしていると、舞台上から中原千佳が近付いてきた。
「麻衣、あんた大丈夫?」
治療されている箇所を、目で見ようとする。クラスメイトの手首しか見えないが、おでこの右端のあたりだ。頭はクリアである。
「うん、どうせ髪で隠れるし」
それでも傷痕が残るのは嫌だな。
「いや、そういうことじゃ……」
そのうちに前半が終わってしまい、肩を上下させたチームメイト達が心配そうに駆け寄ってきた。けれどもそばまで来ると顔色を一変させ、様子をうかがうように距離を取る。
「キレてる?」
「は?」
そりゃあ切れていなければ血なんて出ないだろう。
「内田、目が怖い」
ずっとコートを睨んでいたせいだろう。内田の視線は無意識に、藤井へと向けられた。
○
悪くない。わたしは悪くない。
七組の連中が心配そうに囲む隙間から、じっとこちらを見てくる内田を睨み返し、藤井良子は自分に言い聞かせた。わたしはちっとも悪くない。
別に狙ったわけじゃない。ボールをぶつけようとしたら、タイミング悪くあいつが動くから肘が当たってしまっただけだ。わたしはまったく悪くない。
人垣の中に中原の姿を見つけて、カッと頭に血が上る。全部全部、あいつのせいだ。
「みんな、良かったよ」
仲間に声をかけながらも、頭は別のことでいっぱいだった。「後半もしっかりね」
入学式の日、中原千佳の名前を探した。受験会場にいたという話を聞いて、ずっと気がかりだった。中学三年の引退がかかった大会の初戦で当たった。負けたことも悔しいが、それ以上にあいつの勝っても負けても良いという態度が気に食わなかった。勝ちたくて勝ちたくて必死だった自分が馬鹿みたいだ。逆恨みだったとしても、遺恨を薪とした嫉妬の炎は日増しに強くなった。
だから最初に脅かしておいてやろうと考えた。その後の部活動をやりやすくするために。それがどうだ。関係ないくせに割り込んできて黒沢修一がぶち壊してくれた。後で知ったが二人は幼馴染だという。だからもうそれはいい。何が腹立たしいって結局中原がバスケ部に入らなかったことと、鼻を折られた彼氏と黒沢が、気付けば仲良くなったことだった。坊主憎けりゃ袈裟まで憎いというが、たしかに藤井は彼女らみんなが憎かった。
今の彼氏と交際を始めたのは二年の文化祭の秋だ。鬱陶しい先輩は引退したし、中原がいないことへの不満も薄れて、心穏やかな一年だった。それが少し前に、進路のことで喧嘩をして別れ話になった。クリスマスの過ごし方や記念日を忘れたとか、何度もそういうことがあったけれど、今度ばかりはこじれてしまい、本当に別れることになった。
そうすると段々と抑えていた中原一味への怒りを思い出して、あれもこれもあいつらのせいに思えてくる。だからその辺にいた高梨と付き合って、手酷く振ってやろうと思ったのだ。
ちょっとした憂さ晴らしのつもりだった。だのにタイミング悪く彼氏が復縁を申し出てきて、それは嬉しかったがややこしいことになってしまった。
そういうわけで至極単純に、高梨に言い寄られて困っているということにした。大宮は気の短いほうだし体格が良い。高梨みたいな奴ならちょっと脅して、ビビッてそれでおしまいだろうと思っていたのに、ちっとも臆さずに「恋人だ」と言い張るせいで大宮の手が出てしまった。これはまずいと思って適当にその場を後にして、どうにかそれは収まったのだが、まるで自分を責めるように内田麻衣がじっと見てくる。
あいつらと仲の良い女がだ。しかもあの女、胸が大きい。ひそかにそこをコンプレックスに思っている藤井は、いよいよむかっ腹が立つ。
後半開始を告げる電子ホイッスルが鳴った。
内田は味方にさんざん心配されながらコートに出てくる。素直に休んでいれば良いのに。そういう健気なのが可愛いとでも思っているのだろうか。
相変わらず藤井のマークにつく。
「この……っ!」
プレーが荒くなった。不用意なパスを出した瞬間――いや、一瞬早く動き出し内田にカットされる。合わせて走りだしていた味方にパスをして、簡単にシュートを決められる。
スローインのボールを受けて前に向き直ると、もうそこに内田がいる。
誰がどうとか関係なく、もうこいつがむかつく。
点差はまだあるのに、だんだんと気が焦り始めていた。パスのフェイントで釣り、ドリブルで抜く。しかしすぐに追って来る。子供の頃、野良犬に追いかけられた嫌な記憶が甦る。
――うっとうしい!
急制動をかけて引き剥がす。体勢を整えてスリーポイントラインで踏み切ってシュートを放つ。前方から伸びてきた腕に気を取られたそれは、力なくゴールネットを掠めて落ちた。
わっと沸く観衆が耳障りだった。
○
無意識に周囲を見渡す。探している人の見当たらないことにほっとすると、すっと世界が白線に区切られる。
力強く投げ入れられたボールは、そのまま相手コートへと飛んでいく。身体を目一杯に伸ばして受け取って、ゴールに近付くまでに歩数を合わせてレイアップシュート。間髪いれずに戻って守備につく。
ああ、バスケって大変。その点、陸上は良い。万全の準備を整えて、静かに順番を待って、一度っきりの全力疾走。余計なことを考えなくて良いのが好きだ。
お互いに二点を重ねてまたこちらからのリスタート。今度は速攻を警戒して戻りが早い。センターライン付近で足を緩めて振り返る。藤井はやっぱりこちらに来た。彼女を背負ってボールを待つ。大きく踏み込み迎えにいって、一歩分のスペースを作る。その脚を軸にして、体を回転させてパスを繋ぐ。
やられたという顔をしてボールの行方を追う。
藤井は躍起になっている。たぶん自分もむきになっているのだろうと、内田はどこか冷静な一部分で考える。けれども決定的に違うのは、彼女は内田に勝とうとしていて、内田は試合に勝とうとしていることだ。なぜならば、それがもっとも藤井が悔しいことだから。
そして試合に勝つために、熱く燃えたぎる彼女の心へと空気を送ってやる。
ゴール下に駆け込みながら、展開を予想する。あらかじめ自陣に向き直っておき、藤井のそばに位置取った。
きっと判断は同じ。シュートのほうが早いから、リバウンドを押さえる。
味方の撃ったボールは運悪く、リングに跳ねる。
運悪く? そんなことない。内田は自分がそれを望んでいたことに気がつく。
いくつもの肉体が天井に向けて伸び上がる。内田は跳ばない。きっと埋もれるから。
――どうせ貴女が取るんでしょう。
藤井が両手でボールを掴んで落ちてくる。そっと落下地点に手を差し入れて、落下の衝撃でボールを弾き飛ばした。いまに悔しそうな顔が、ボールの向こうから現れる。
黒沢が見に来ていないことを、内田は改めて良かったなと思う。
今の自分は、きっとものすごく意地が悪い。
○




