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走り出したら  作者: 肉団子
4章
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なんで俺がそんな面倒なこと



 そういうものほど良く当たる。

 中間試験の翌日のことだった。正直に言うと、俺はすっかり忘れていた。

 ひとまずの壁を乗り越えて、教室内は久々に穏やかな空気だった。それでもやはり差し迫る受験に備えて、教室中の会話の端々からは小難しい単語が聞こえてくる。そのくせ不思議なほど卒業については触れない、微妙な心情がふよふよと教室を満たす。

 そのどことなく緩んだ室内に入ってきた高梨を見て俺は言葉を失った。左の頬のあたりに痣ができ、反対の頬と顎には擦り傷があった。想像するに左を強かに打ちつけ、倒れた拍子にぶつけたのだろう。

 高梨の前の席に移動し、向かい合う。様子をうかがわれているのがわかって、俺は声をひそめた。

「派手にやられたな」

「まあな」

「誰?」

「藤井の元……いや、彼氏? よくわからんけど」

 俺は外に行こうかと目で示したが、高梨は手の平をこちらに見せて断った。「敵討ちに行くなんて、言うなよ」

「なんで俺がそんな面倒なことしないといけないの」

「そう言うと思ってたけどよ」

「どうしてそういうことになったの」

 周囲をはばかるように、いっそう声をひそめた。しかし周囲がいっそう耳を澄ましたのは気配でわかった。

「オレもよくわからんけど、良子……ああ、藤井の彼氏だって奴がさ、なんのかんのと言いながら。あ、いや、殴られたあとに胸倉掴んでなんのかんのと」

 ほとんど額をぶつける距離で俺は舌打ちをした。こうなるのなら忠告のひとつでもすれば良かったと悔いるが、後の祭りである。こうなるべくしてなったという気さえする。目に見えない川にはまった気分だった。

「元ではなく?」

「さあ? それがわからん」

「って言うと?」

「オレは別れたって聞いてたんだけどな、あいつはそうじゃないって」

「藤井はなんて言ってんの?」

「なんも。オレが殴られてびっくりしてたけど、そのままそいつと帰ったよ」

「ほう」

「ま、殴られただけだからさ、そのうち治るからいいんだけどな。遊ばれたのかなあって。オレ馬鹿だから、なにがどうなってんのか正直よくわからん」

 頭に美人局という単語が浮かんだが、殴られただけならそれはないだろう。高梨はそこそこ馬鹿にされるし実際バカだし、悪目立ちはするが、むやみに恨みを買うようなことはしない。

 利己的に人を陥れられるほど賢くないからだ。

「なあ一つ確認するけど」

「おう?」

「ヤったのか?」

「付き合って何日だと思ってんの。そこまでいってねえよ」

「そうか、安心した」

 抜け駆けされなかったことに、ではない。どういう事情だったにせよ、おそらく殴られるほどのことを、高梨がしていないことに対してである。

 顔を離して、声を元の調子に戻す。

 それからなるべく、悪巧みをしているような表情をつくった。

「それじゃあ、今日はサッカーの練習ができるな!」



 近頃めっきりと活動を拒否している脳が、ぽろりと記憶を甦らせた。高梨の彼女のことを話したとき、内田が釈然としないふうな態度を取っていた。

 俺は最初、高梨に恋人ができた珍事に対してだろうと思っていたが、よくよく考えてみると、相手が藤井姓であるかと確認していた。だとすると、このあたりの事情を知っていた可能性がある。

 俺自身がそうしたように、不確かなことを伝えるべきかと戸惑っていたのだろう。

 昼休みに声をかけて、一緒に教室を出た。

 休み時間の校内というのはどこも生徒に溢れていて、内緒話が難しい。それに適した場所はいくつかあるが、どうにも屋上での一件がちらついてしまい、結局は体育館南側の、錆びたベンチが置きっぱなしになった一角へと足を運んだ。いかにも古くなったベンチを運び出す途中で、ひとつだけ落としていったという風情のある、ぽつんとそれだけが取り残されている。

 水泳の授業が終わった今、こんな場所に用のある生徒は滅多といない。

「聞いた?」

 俺の問いかけに、内田は申し訳なそうに肯いた。編み込むように作ったハーフアップまでも口惜しそうに見えるのだから、感情表現の豊かさに感心する。それが本心かはともかく、女子のほうがよほど感情を表すなと思う。

 一発で脳を揺さぶったストレートな告白を思い出す。表情は見えなかったはずなのに、意志の強そうな瞳が耀いていたことが、ありありと頭に思い浮かぶ。

「俺、そこんとこの事情よく知らないんだけど」

「えっとね……藤井さんが大宮くんと付き合ってたってことは?」

「誰だそいつ」

「最近、ラグビー同好会できたの知ってる? そのメンバーなんだけど」

「うっすらと」

 なんとも小さな世界だ。ほんの数百メートル四方の千人足らずの中で、ややこしいことになっている。

「文化祭のあとに喧嘩したって聞いてたから、まあそういうことかなって思ってたんだけど……」

「それで高梨に乗り換えたってときに、仲直りしてあんなことに?」

「……だと思う」

「まあ、内田が気に病むことじゃないけどさ」

 それにしたって妙なのは、その藤井という女が事情を説明しないことだ。下手に口を出せば余計にこじれると思っているのかもしれないが。それにしたって、せめてもの誠意というものはないのだろうか。

 プールサイドのコンクリートをじっと見つめて考え込んでいると、ふいに視線を感じた。目玉だけを動かす。その俺をじっと見つめていた内田と、目が合った。

「ん?」

「もしかして、復讐とか考えてる?」

「まさか」

 笑い飛ばしながら、そう取られかねないタイミングだったかもしれないと考えた。

「でも高梨くんが前に、黒沢くんが敵討ちしてくれたって言ってたよ」

「あったっけ? そんなこと」

「うん」

 そこそこ殴られたり蹴られたり、やり返したり追い討ちをかけたりしているから、どれがそうなのかはわからない。それにしたって、子供なりの大義名分は振りかざしてきたつもりだ。まったくの被害者を作ったことはないはずだ。たぶん。

 やむを得ぬ事情を無理やり拵えたことは、あるけれど。

 考えるうちに、瞼が重くなるのを感じた。

 秋晴れに天日干しをしていると、ぽかぽかと身体の芯があたたかくなる。

 中学までの通学路に古ぼけたベンチがあった。公園というよりは、ただの広場の一角である。ちょうどその正面に桜の巨木が植わっていた。蕾がほころび始めたころから、葉桜から最後の一片が落ちるまで、毎日どこからか老夫婦が花見に来ていた。

 身を寄せ合うようにして、一つの膝掛けを二人で使っていた。彼らの声を聞いたことはない。まさか死んでやしまいかと心配になるほどじいっと、飽かずに桜を眺めていたのである。

 その光景に憧れを抱いたのは、まさか両親の離婚が影響はしていないだろうと思いたい。

 まどろみの中に、内田の横顔が見えた。

 憧憬がありありと胸に甦った。



 はっと目が覚めた。小さな内田に寄りかかるように眠っていたらしい。

「あっ、悪いっ!」

 慌てて身を起こすと、内田は小さく首を振った。

「私も寝てたから」

「ああ、そう」

 なんだかやけに恥ずかしくて俺は頬を叩いて覚醒をうながす。

「そうだ、昼休み終わっちまう」

 立ち上がった俺に続いて、やけにゆっくりと内田が立つ。癖のような柔軟体操をする。

「えっと、たぶんもう、五時間目始まってるね」

 言われて気がついたが、校内のざわめきは止んでいる。かわりに体育館とグラウンドから、いかにも運動をしている声と音が届いていた。

 慌てて戻った教室は、もちろん五時間目の真っ最中だった。先生に適当な嘘をついて席に戻る。教科書を広げて授業を受けているふりをしながら、頭はてんで違う方向へとむかっていた。

 放課後になって帰り支度を整えていると、信楽君がそろりと寄ってきた。

「なあおい」

「うん?」

「サッカーの練習するんだろ。俺も行くよ」

 罰が悪そうによそを見ながら付け足した。「中間も終わったしな」

 視線を追うと、痣の目立つ顔をひしゃげて笑う高梨がいた。

「そう。それじゃあ、ボールは二つ必要か」

「いや三つだと思う。他の奴らも来るってさ」

「へえ」

 驚きがそのまま声になった。

 鈴やんは「それはさすがに」と渋る後輩に睨みをきかせて、首尾良くボール三つを略取した。「ちゃんと戻してくださいよぉ! うるさいんですから!」と、懇願が背後から聞こえてきた。

「顧問誰だっけ?」

 俺の質問に鈴やんは間の抜けた声で返事した。

「え? ああ、うるさいの?」

「うん」

「それならマネージャーだよ。顧問より怖かった」

 それとなく歩く速度を緩めて、鈴やんと二人きりになる。夕陽に縁取られた四人の影を見ながら訊ねた。

「なんで全員参加なの?」

「ああ、それがなあ……どこからどう伝わってきたのか、藤井の彼氏が球技大会、サッカーに出るらしいんだよ」

「はあ……愛されてんなあ」

 俺は腐れ縁の背中に投げかける。まさか届きはしないだろうが。「俺だったらみんなスルーだろうなあ」

「まったくだ」

「……その同意はどっちに?」

「どっちもだけど」

「こんにゃろ」

 鈴やんの冗談に蹴りを入れながら、冗談であることを願った。

 今週の末が球技大会だ。はじめはほとんど現実逃避に始めたことであるが、こうなってくると事情が違う。いかにして大宮を倒すか。そればかりが目標になる。

 いいや、せっかくだ、優勝を目指すほうが面白かろう。

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