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走り出したら  作者: 肉団子
4章
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嫌な予感がする



「だから勉強教えてくれ」

「いや」

 滅多に下げない頭を下げたというのに、千佳はほとんど食い気味に突っ返してきた。

 そろそろ学生服とブレザーの姿が目につき始めた校内は、どことなくピリピリとしている。いよいよ始まる受験と、乗り越えねばならない定期試験が重なっているのだ。

「え、どっち?」

「受験勉強」

「だったら嫌。中間だったら考えてあげるけど」

 中間試験なんかに質問はない。冗談のつもりで頼んだので、断られてもそれほど困りはしないが、考えてもくれないのはいささか寂しいものがある。

「修ちゃんの進路に責任なんて取れないもん」

 それが千佳の言い分だった。「だいたい、自分のことで手一杯」

「そりゃま、そうだろうけど」

「でもやっとやる気になったんだ」

「……さすがにな」

 昨夜、プリント類に埋もれていた入試の募集要項を確認すると、公募推薦の出願は二週間後からとなっていた。諸々を考えると、もう決めねばならない。そこへきてようやく俺の中に、これはまずいのではないかという焦りが生まれた。

「どこ受けるの?」

「まあ二、三個候補が……」

 あるようなないような。

 千佳は「ふうん」と曖昧に肯いた。それから周囲に視線を遣り、一歩距離を縮める。低い声で囁いた。

「あんたのビビりは勝手だけど、麻衣のこと泣かしたら承知しないからね」

「え」

 咄嗟のことに言葉の意味をつかみかねた。

「受験みたいにふらふらしてないで、ちゃんとしなさい。ちゃんと」

 それだけ言うと、千佳はもとの距離に戻る。表情は貼り付けたような笑顔だった。

「……聞いたの?」

「まあね。でも修ちゃんの様子見てたらわかるわ。宙ぶらりんでしょ」

 返す言葉もなく、始業のチャイムに救われた。「ちゃんとしなさい」という言葉が、ずっと頭の中に響いていた。

 中間試験前のHRで、期間明けに開催される球技大会の出場種目についての話し合いが行われた。イベントというイベントはこれが最後である。

 女子はバレー、ドッヂボール、バスケ。男子はサッカー、ドッヂボール、バスケの三種目ずつだった。

 バレー部、バスケ部、サッカー部は、それぞれの部活へと自動的に割り振られ、あとは話し合いだった。まず運動が苦手な連中がドッヂボールに逃げた。

 千佳はバスケに出るのだろうか。ふと彼女のユニフォーム姿が頭をよぎる。

「おい黒沢。おまえどうすんの」

「えっ?」

「何に出るかって話」

「ああ、サッカーで良いよ」

 さして考えずに答えた。バスケで千佳と顔を合わせるのは、少し避けたいというのが唯一の理由だろう。

「そんじゃあ、オレもサッカー」

 高梨がそう言って手を上げた。

 特別揉めることもなく出場種目は決まった。体育委員がメンバー表を職員室に持っていくと、わらわらと自由行動を始めたクラスメイトは、そのほとんどが机に向かった。

 なんとなく居心地が悪く、勉強ではなく読書をしていた内田に声をかける。

「何に出るの」

「バスケ」

「えっ、意外」

 的が小さいからドッヂにするかと思っていた。

「小さいからドッヂボールが有利だと思ったんでしょう」

 口をとがらせて、じとっと睨まれた。その仕草からは不機嫌というよりも「お見通しなんだからね」という悪戯っぽさが感じられた。

「黒沢くんは?」

「サッカー」

「好きなの?」

「嫌いじゃないよ。っていうかまあ、運動はだいたい好きだけどさ」

 そうして雑談をしていると視線を感じた。周囲を見渡すが、いつになく静かな教室である。のんきにトランプをする連中も、いつもより声を抑えているほどだ。

 机に突っ伏して眠っている鈴やんが目にとまった。

 内田に断ってそちらへ歩み寄る。

「なあ鈴やん」

「ん?」

 姿勢をそのままに目を開ける。「なんだ黒沢か」

「あのさ、サッカーの練習しない?」

「はあ」

「せっかくだから勝ちたいなってさ」

「ふむ」

 のそりと身体を起こして首を回す。ゴリゴリと音が鳴った、「いいけど、二人で?」

「ああ、どうだろ」

 サッカーのメンバー表を思い出しながら、一人ずつに声をかける。誰も彼もが「勉強」の一言に断っていく。頭につくのが受験か試験かは違っていたが。

 最後に椅子で舟を漕ぐ高梨のところに行く。なにが楽しいのか天井をじっと見つめていた。

「高梨はどうする?」

「なにが?」

「サッカーの練習」

「いつ?」

「いつだ?」

 鈴やんのほうへ言葉を投げかけると、

「いつでも。あ、でも中間の前日は嫌だぞ」

 と声が返って来た。

「じゃあ、今日」

「すまん。今日は彼女とデート」

 一瞬、教室中から音が止んだ。引いた潮が返ってくるように、「ええ――っ!」と驚嘆の声があちこちであがる。

 近くにいた男子が「嘘つけよテメェ!」と詰め寄ってくる。「嘘なわけあるか」と高梨はそいつに返す。

「どこのどいつよ。本当に女か、それ」

「女だよ、なんで男なんだよ」

「誰? うちの学校?」

「藤井良子。ほら、バスケ部だった」

「ああ、あいつか」

「っていうかなんでそんなことになってんの?」

 高梨への質問攻めは、チャイムが鳴って武内が戻ってくるまで続いた。



 サッカー部からボールを一つ拝借し、学校近くの公園に寄った。こういう場合、部活動の上下関係が物を言う。備品の持ち出しに躊躇していた後輩たちに「いいだろ」の一言で押し切れるのだから。

 適当な距離をとって右、左と交互にパスを出し合う。鈴やんのボールはまっすぐ足元にくるのに、俺の球は右に左にと曲がってしまう。蹴るたびに白い砂埃が巻き上がる。空気が乾燥し始めているな、となんとなく思う。

「軸足だ、軸足」と、鈴やんはそれしか言わない。

 しばらくパスの練習をしたあと、軽く一対一の練習をする。これがまた赤子の手を捻るようにあしらわれる。ボールを取りにいけば簡単にかわされるし、鈴やんを抜こうとすればあっさり止められる。

 いっそ楽しいとさえ思える実力差だった。柔道部と勝負をして微動だにしなかったことを思い出す。俺は短距離走において、そんな圧倒的なものは持っていないのに。

 あまりの実力差に運動以上のエネルギー消費を感じ、俺はぜいぜい息をつく。

「なんでこうも違う」

「そりゃ俺が上手いから」

「……こんにゃろ」

 鈴やんが踏んでいたボールに足を伸ばしたが、軽く距離をとっていなされる。

「あのな、相手の足元にあるボールを取ろうって考えが、まず間違ってんの」

「あ?」

「まず攻撃を遅らせることと、コースを限定すること。案山子じゃなけりゃできる」

「お、おう」

「ドリブルとかパスで転がってるボールを奪う。まあ、これにもコツがあるんだが」

「なるほど」

 わかるような、わからないような。

「とりあえずやってみよう」

 鈴やんから少し距離をとる。相手の動きを制限でき、かつ咄嗟のことに反応できる距離。よくわからないステップで左右に振られそうになるのをグッと堪えながらそれを維持する。

 一歩踏み込み、逆の足を構えている。俺は咄嗟にコースを塞ぎにいったが、鈴やんは流れるように俺の後ろを通っていく。

「なんだよ、今の」

「何って、フェイントかけただけだけど」

「じゃなくって、その後」

「ああ、クライフターン?」

「知らんけど」

 聞くと、ボールを蹴ると見せかけて、踏み込んだ軸足の後ろを通して相手をかわすというものらしい。言葉にするとなんともシンプルだが、やってみるとこれが案外難しい。変にブレーキがかかったり、軸足にボールがぶつかったりする。

「んなもん練習しないで、もっとシンプルなことを覚えたほうが早いぞ」

「でも俺、これはできる」

 昔取った杵柄で、ヒールリフトを見せてやると、「おお」と、感心の声が漏れた。

「なんで?」

「ガキんときに流行ったから」

「どこも一緒か」

 俺の自慢もむなしく、鈴やんの言う「シンプル」な練習をする。つまりは、左右の足のアウトサイド、インサイドでボールを蹴り出す練習だった。小難しいことなど抜きにして、最低限の技量を得る以上の時間はない、ということである。

 しかしこれは案外俺に向いているようで、ある程度コントロールができるようになると、数回に一度は鈴やんを抜けるようになった。鈴やんに言わせれば「一人スルーパス」であるそうだが。

 制服が砂まみれになったころ、鈴やんがふいに動きを止めて、いつの間にか灯った公園の街灯照明を見上げる。しばらく思いつめたようにそうしていたが、やがてこちらを見ずに口を開いた。

「なあ今日のさ」

「うん」

「高梨の彼女の話」

「うん」

「いやさ、大したことじゃねえんだけど、バスケ部の藤井ってさ」

「うん?」

 鈴やんはやけに言葉を区切りながら、手探りという感じだった。

「俺の記憶違いじゃなけりゃ、なんだけどよ、あいつ、別の男と付き合ってたんじゃないか?」

「え?」

「いや、そりゃもう別れたかもしれねえし、だからどうってことじゃねえんだけどな」

「……うん」

 俺はその女も男もよくは知らない。高梨の話を聞く限りは、横恋慕ということもあるまい。相関図も時系列も持たない以上、すべては杞憂だと考えるほかはなかった。あやふやなことで高梨に口出ししたところで、どうにもならないだろう。

 日が暮れると、思わず身震いするほど寒かった。

 嫌な予感がする。

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