そして何より重かった
「そういやさ、なんで誠のこと嫌ってるの?」
「嫌ってはいないけど……言わない」
「どうして」
「とにかく言わない」
「そう」
なんだか面白そうだと思いながらも、曖昧にしている現状が追求の手を緩めさせる。「ああ、そういや高梨の奴さ――」
話題を変えようと思いついたことを適当に口にしてから、自分の愚かさに舌打ちしたくなった。もっともデリケートな話題をかすめる話だ。
「高梨くんがどうしたの?」
「あ、いや、あいつ、彼女できたんだって」
内田はわずかに眉を動かしてから、驚いた顔を作った。
「えっ、それ本当?」
「本人が言ってたから」
「誰、だれ?」
「良子って言ったかな」
「りょうこ……」
呟いたなり押し黙る。頬に手を当てて傾き、反対の腕に頬杖をつく。胸がきゅっと寄せられて、目のやり場に困ってしまう。
一人相撲でどぎまぎしていると、内田は間合いを詰めるような口ぶりで訊ねてきた。
「それって、藤井さん?」
「藤井? いや、苗字は聞いてない」
「あ、そう」
「それがどうかしたか?」
「うーん……どうってことでもないんだけど……」
言葉を濁したまま、内田はまた黙り込んだ。しばらくそうして考えていたが、やがて諦めたようにため息をついた。
汗がひいて寒気を覚える。やはり季節はずいぶんと進んでしまっている。
「寒くなってきたね」
内田はまったく寒くなさそうだったが、そんなことを言う。
「もう十月だもんなあ。四月からだから、ちょうど半年くらいか」
「そうだ。話は飛ぶけど」
「うん」
「その……春に相談したでしょう、その、家のこと」
「ああ、うん」
ゴールデンウィークのことだから、それからももう五ヶ月が経つ。力になれないという結論を伝えてからもこうして夜の公園で会うのは、惰性という他はない。手助けができないからこそ、家にいたくないと語った彼女の時間潰しの相手くらいにはなろうと思ってのことだった気もするが、果たしてそれにどれほどの意味があっただろう。
「私もよくわからないんだけど、最近は妙に普通なんだよね」
「妙なのに普通なのか。それは……妙だな……」
太ももを軽く叩かれた。
「普通だから妙なの。勘違いだったってことは、ないと思うんだけど」
「よくわからないけど、それは問題が解決したってこと?」
「どうなんだろう。でも、変な空気はなくなったかな」
「だとしたら、俺もお役御免ですか」
「いやっ、別にそういう意味では……」
「でも考えてみろよ。もうすぐ中間で試験勉強だろ? そしたら十一月だろ? こんなとこで喋ってたら風邪ひくぞ」
お互いにランニングのついでなのである。たいてい動きやすい格好をしていて、それはつまり薄着とういうことだ。
「ああ、そうか……」
内田は残念そうに俯いた。「受験だもんね。風邪なんてしてる場合じゃないね」
そうは言いつつも、やはり結論をうやむやにしたまま俺たちは別れた。高梨の難問も、内田の苦悩もすっきりしたというのに、俺は何事も宙ぶらりんのままだった。
「あんた、なんで今さらランニングに力入れてんの?」
風呂上りに姉から鋭い指摘を受けた。アイスクリームを口に運んだスプーンを、俺に向ける。
「陸上部だったときなんて、全然だったくせに」
「運動不足になりたくないだけだから」
「あっそう。お母さん、呼んでるから」
その一言のために、言わなくてもよいことを言うのだから、俺は姉が苦手だった。「あっそう」と返事をして、居間に向かう。
まだ低い机に頬杖をついて母はテレビを眺めていた。こちらに気がつくと消音ボタンを押した。
俺は適当に距離を置いて座る。
「受験、どうなってるの」
「どうって」
「どこ行きたいとか、あんた言わんでしょ」
「……いま考えてるところ」
母はため息をつく。正確には考えようとしているところ、である。おそらくその「正確」は正確に伝わってしまっている。
居間の真ん中には炬燵机が鎮座し、板間に仏壇とテレビが並んでいる。反対側の土壁を隠すように箪笥が置かれていた。
箪笥の上に置かれた家族写真は、ここに越してきた当時のものだから、十五年ほど前になる。そこに写る自分は比べるまでもなく変わっているが、母はすこし丸くなって肌のハリがなくなったくらいだ。苦労の分だけ、皺と白髪が増えているのだろうが、なにせ古い写真だから、そこまで詳しくはわからない。
「赤本とか参考書とか、買うとも買ったとも聞いてないよ」
「姉ちゃんのやつ、もらったから」
母と進路のことについて話すのはこれで何度目だろう。事ここに至っていまだにふわふわとしている俺が悪いのだが、同じ穴を掘っては埋めているだけだ。
「あのねえ、あんたどうして大学に行きたいの」
「大学でも出なきゃまともな仕事ないって言ったの、そっちだろ」
「そうだけどねえ。行きたくないのに行く必要はないんだからね」
「行きたくないってことは、ないと思うけど」
逸らした視線の先に、小さな凹みがいくつもついていた。小さな頃、フォークで俺が突いた跡だ。あの頃から、いったい俺はなにが変わったのだろう。将来など考えなかった幼児と、将来さえ考えられない十七歳。
ペン立てから鉛筆を引き抜いて、キャップを机の上にのせる。慎重な速度で転がりだす。目に見えない傾斜があるのだ。俺もこうして、ゆるやかに間違ってきたのだろう。
水も空気も鉛筆キャップも、そして人も、すべては上方から下方へと落ちていく。それを克服するものは、意志をおいて他にない。
俺の意志とはなんだろうか。
「その、物を考えるとき左下を見る癖、お父さんにそっくり」
母の声に、俺はカチンとくる。
「あ?」
「その不機嫌そうな声の出し方も。一緒に暮らしてないのにねえ」
「知るか」
話は終わりだろう。言い捨てて立ち上がった。
俺には家族としての父親の記憶がない。
かつては年に数回会っていたものが、気付けば半年に一度である。計算してみれば、年に二度泊まりに来ていた従兄弟の両親と、記憶のあるうちに過ごした日数でいえば同じくらいしかない。
昨今は離婚なんて珍しい話でもない。死に別れたという友人もいる。なにも自分が世界一不幸な人間だなんて考えてはいないが、それでも幸福だったとは思えない。
まったく無警戒に友人に話して家庭環境を心配された程度のエピソードならいくつもあるが、今でも尾を引く出来事といえば、病床の母が漏らした愚痴だった。
小学四年生か、五年生の冬のことだ。まだ普通かそうでないかの区別が曖昧で、どこの家庭でも母親は冬になると長期間眠るものだと思っていた。
病床に臥せっているのはむしろ平和なもので、治り始めたころにはヒステリックな顔を覗かせるせいで、子供ながらにそれとなく顔色をうかがい、気力と機嫌のバランスを測っていたものである。
だから不用意な一言を、俺が言ったのだろう。母は金切り声をあげあれやこれやと喚き散らした。いつものことだったので、しゅんとして時が過ぎるのを待っていたのだが、そのときの母の怨嗟が耳にこびりついている。
「私が悪いんじゃないッ! 文句ならお父さんに言って! 病気のお母さんとあんたらを捨てて出てったのはあいつなんだからッ!」
毎年のように寝込んで、そうしてキーキーと叫んでいた母がこんなことを言ったのは、たった一度きりだった。だからこそ、偽らざる本心なのだろうと思う。
そんな男でさえ、父親なのである。
洗面所の鏡の自分を見ても、俺は父親を想起しない。しかし母に言わせると、若い頃の彼にそっくりなのだそうだ。ふいに母の部屋に行くと、そのことで驚かれてしまうことがある。
母親が厄介な病気であることも、それから逃げた男が父親だということも、たしかな不運ではあろう。それを不幸にまでしてしまったのは他でもない自分自身だ。病気が言わせた一言だと切り捨てられず、そんな二人の息子なのだと、自分を縛めている。
血は水よりも濃い。そして何よりも重かった。




