人間は飛べない
花火が終わっても何か帰りがたいものがって、雑談や散歩に時間をとられ、帰りの車が走り出したのは、十一時を回ってからだった。
乗り込んだ途端に内田は眠りに落ち、彼女に気を遣ってか小声で話していた高梨と鈴やんも、やがて寝息を立て始めた。
助手席に乗り込んだ黒沢と雑談をしながら車を走らせた。真っ暗な田舎道を奔るのはこれが初めてである。ギャル美は手にじっとりと汗をかくのを感じた。
夜の高速道路は、なおさら未経験だった。
オレンジ色の街灯が果てもなく続いている。あまりに風景的な変化がなくて、ふとメーターを見ると時速は百キロを優に超えていた。
「今日はありがとう」
会話の切れ間に、黒沢がぼそりと言った。
「へ?」
「運転。あと、誘ってくれて」
「誘おうって言ったのは高梨だから」
「とにかく、ありがとう。夏らしいこと、ようやく一つした気分」
「どういたしまして」
返事をしてから、ギャル美は一日の様子が脳裏に巡った。
「ほんとに楽しかった? なんか、ずっとだらだらしてたでしょ」
昼食を終えてからも黒沢は、特に何をするでもなくぼんやりと過ごしていた。浮き輪にお尻を入れてぷかぷかと漂ったり、砂を掘って作った寝床に挟まって眠り、高梨に埋められたり。素潜りにチャレンジすると言ってギャル美をはらはらとさせた内田とは正反対だった。
「楽しかったよ。海ってのは波の音を聞ければ十分だから。泳ぎたいのならプールに行く」
「わからなくもない、かな」
なんにせよ、楽しんだと言うのならそれで良しとしよう。自分の心配することではない。ギャル美はそう判断し、記憶と共によみがえった疑問を口にする。
「黒沢ってさ、お姉ちゃんか妹、いる?」
「姉が一人。よくわかったな」
「でしょう?」
と、得意気に首を傾けた。横目で黒沢を見ると、彼の視線と交差する。
「ギャル美は兄弟いる?」
「私もお姉ちゃんが一人」
「どんな人?」
「どんな……ねえ」
あらためて問われると、これといった表現が見つからなかった。家族なんてそんなものだろう。当たり障りのない答えを探す。
「あえて言えば、お嬢様って感じ。別にうち、お金持ちじゃないけどね」
「中学のときのギャル美みたいな?」
「ああ、そう。そんな感じ」
掘り下げられたくもなくて、ギャル美は話題を変えた。取り留めのない会話は、ちょうど高速道路で速度の感覚が麻痺するように、だんだん間延びしていった。
沈黙は不快ではなく、むしろ心地良い。シフトレバーを挟んだ距離が、しっくりとくる。居心地の良さを覚えるほどに、景色は知らぬ間に背後へと流れていく。
大きな欠伸が出た。
「あ、次のサービスエリア寄ってくれない? ちょっとトイレに行きたい」
「ん、了解」
駐車は一発で決まった。本当はたまたまだったが、ギャル美は「どう?」と偉そうぶってみた。
ついでだからと、ギャル美もトイレに行くことにした。一瞬車をどうするか考えたが、冷房も効いているしそのままにした。日も暮れているし、まさか熱中症になることはないだろうけれど。
車外は熱を孕んだ湿気が漂っている。山間のサービスエリアは、海辺よりはずっと空気が重い。
客の有無に関係なく蛍光灯を点し続けるトイレは、疲れた目には刺激的だった。明順応は済んだはずなのに目がしょぼしょぼした。二度三度と欠伸が続く。
手を洗うついでに顔も洗い、軽く頬を叩く。なんの気なしに天井を見ると、大きな蜘蛛が巣を張っていた。逃げるようにトイレを出ると、すぐそこのベンチに黒沢が座っていた。
「車わからなかった?」
「いいや、おまえ待ち」
振り返りながら、何かをお手玉のようにぽんぽんと投げる。
「微糖と無糖、どっちが良い?」
「え?」
「コーヒー」
「えっと、じゃあ、微糖で」
お手玉をやめた手元を確認すると、左手のものを投げてよこす。
「あ、お金」
「いいよ。そういう約束だろ。それに運転中に寝られたら堪ったもんじゃないからな」
「そう」
ひんやりとしているスチール缶を弄びながら黒沢の隣に座る。お礼を言ってから蓋を開け、こくこくと飲む。
口を離して商品ロゴをなんとなく親指で撫でる。だだっ広い駐車場には何台かのトラックが休憩している。
「ひょっとして、そのために一日?」
「まさか。俺がそんな良い奴だと思うか?」
「思わなかった」
気の遣い方がおかしい気もするけれど。
「海でのんびりしたいってのは、本心だからな」
「そうだろうね」
しかしそれと同じだけ、帰りの道中を心配していたのだろう。わずかに向けられた背中が、何より雄弁な照れ隠しである。
「ありがとう」
「なにが? 海で遊ぶよりも、ギャル美とこうやって二人で缶コーヒー飲むほうが、ずっと貴重な体験だな」
「あっそう」
素っ気無く返事をしながら、ギャル美は鼓動が速くなるのを感じた。貴重の意味はどちらなのだろう。珍しいこと? それとも……。
暗い夜空を黒く染める山並みは、眠っているようでいて、何かが蠢いているようでもある。
おごってくれた缶コーヒーを額に当てる。幸いに辺りは暗い。きっと今夜も熱帯夜。なにもおかしなことはない。
おかしなことはないけれど、おかしなことにはなる。だって、見知ったものと、まるで違うものばかりだから。景色も、同級生の一面も。
「遠足のときにさ、黒沢に話したでしょ?」
「うん?」
「私が髪を染めている理由」
「ああ」
黒沢は思い出し笑いをする。「聞いた。えらく可愛い理由だった」
「かっこいいと思うから……ってね、別に嘘じゃないんだけど、本当はそれだけじゃないっていうか」
「ふうん」
喉からそんな声を漏らして、缶コーヒーをぐびっと飲んで、自然に視線を外した。それが彼なりの優しさなのだろうと、ギャル美はくすりと笑う。
「中学校までの私って、たぶんすごく優等生だった。あんまり怒られたこともないし、親を困らせるようなこともしてないと思う」
「俺とは正反対だな」
「そうかもね。それで、ふと思ったのよね。このままで良いのかなって。親の言う通り……とはすこし違うかな。それが私の自然体だったし。本当にふとね、思ったんだ。たぶん私はずっと優等生なんだろうな、人が羨むような普通の人生なんだろうなって」
「すごい自信だ」
「だね。まあ、中学生だったし。とにかく自分を変えようって、髪を染めて、ピアスをつけて。煙草を吸おうかなとも思ったけど、臭いが苦手だったからやめた。だからきっと、これが私の精一杯だったんだろうなって。良くも悪くも、バランス感覚が良いのよ」
黒沢は笑わなかった。とてもニュートラルな、しかし決して無意識ではない顔つきで、二人の影を見つめている。
引き伸ばされた影法師は、まるで背伸びをしているみたいだ。
「そう、背伸びがしたかった」
ゆっくりとギャル美へと向けられた瞳は、大人びて見えた。
「で、どうだった?」
ギャル美は視線をそらす。
影は自分から遠ざかるほど、闇に溶けてゆく。
「……良い思い出になった」
「そう」
黒沢は微笑んだ。精一杯気の利いた答えを考えたつもりだったけれど、その甲斐むなしくあっさりと受け取られたことが、ギャル美は悔しかった。
人には向き不向きがあるらしい。背伸びをしなければ知れなかったことだ。
「あ、ねえ。黒沢が飛び降りたのも背伸びなの?」
「えっ?」
驚いた顔はいつもの同級生のものだった。けれどもギャル美は知っている。その裏には、優しくて照れ屋な彼がいることを。
「プール」
「ああ……そうだな、背伸びかな。生き急ぎとも言うけども」
「どうだった?」
「わかったよ」
「え?」
「人間は飛べないって」
しばらく考えて、ギャル美は大きな声で笑った。ほんの子供の頃のように、なんの衒いもない、それこそニュートラルな自分が笑っていた。
缶コーヒーを飲み干すと、黒沢は「よっこらしょ」と立ち上がり、ギャル身を指差した。
「見てろ。ギャル美が秘密を喋ってくれたから、俺も特技を見せてやろう」
宣言して、自販機横に置かれたカン・ビン用の穴が開いたゴミ箱に正対する。距離は一〇メートルほどだ。
黒沢は呼吸を整えると、ゆっくりと投球モーションに入る。右手から放たれた空き缶はラグビーボールのように夜空を駆けて、ゴミ箱へと一直線に飛び込んだ。カラカランと音をさせて消えていく。
「すっごい……」
「だろ?」
得意満面に口元を吊り上げる。「ちなみに足でもできる」
と、黒沢は手を広げた。中身が空であることを確認してから投げる。
受け取ったそれを、黒沢は足の位置と落としどころと、ゴミ箱の位置を確認するように、視線を行き来させて、やおら歩き出し、普通にゴミを捨てた。
「ええっ!」
落胆の声に黒沢は振り返る。悪びれもせず、真面目な声音をつくって言った。
「足でもできる。でもこっちのほうが早いから」
下らない嘘と下手くそな気遣いに、ギャル美はまた笑った。
冷房の効いた車内に戻って、外が蒸し暑いのだと思い出す。三人はよく眠っていた。一日はしゃぎ回っていたのだから当然だろう。
本線へと合流し地元へと帰る一本道をひた走る。
「寝てくれるなよ」
「大丈夫。もう眠くない。それに――」
ギャル美はちらりとルームミラーを見る。
「それに?」
「コーヒーも飲んだしね」
ギャル美の返答にうっすら微笑んだ黒沢は、また雑談を始めた。応じながら、ギャル美は頭のどこかで、言い淀んだ言葉を反芻する。
それに――眠れそうにないから。




