後夜祭
まだ高校生だった当時から、島田龍一郎は堅物だった。信号は無視しない、廊下は走らない、言いつけは破らない。べからず教育の申し子だったと言って良い。
そんな島田にとって唯一軟派な趣味があった。大流行していたアイドルのファンだったのである。親にも友人にも話しはしない。こっそりとレコードを買い、鍵付きの引き出しにしまって、親のいない時間を見計らって聴いた。
学校で級友が、彼女のヌード写真の話をしていた。島田はたまたまそばにいて、耳に入った情報にまず耳を疑い、脳を疑い、最後に真偽を疑った。まさか、そんなまさか。
放課後走って家に帰り、私服に――それも一等大人びて見えるポロシャツに着替えて本屋へ向かった。成人向け雑誌コーナーをゆっくりと素通りする振りをしながら、血眼になって左右を見る。贔屓のアイドルが表紙を飾ったものがあった。だが、本人だろうか? そっくりな別人ではないか? 目元のあたりが少し違ったような……。
まだ十六だった島田は、それからしばらく悶々と、そのことばかりを考えた。気になる、しかし年齢が……。やがて「勉強に手がつかないのでは本末転倒だ」という言い訳を思いついて本屋に走ったが、すでにそのエロ本はどこにもなかった。別の本屋も、古本屋に足を運んだが、どこにもありはしなかった。
その本が今ここにある――
いつの間にか歩み寄って来ていた黒沢が、すっと横に立つ。
「先生、それが気になりますか?」
「い、いや、そんなことは……」
動揺が隠せない。追いかけっこに変な熱を上げたせいだ。不自然な咳ばらいをする。
「それよりこの本、いったいどうしたんだ。まさか盗んだんじゃ……」
「こんな大量のエロ本、盗んだら事件ですよ。入手ルートは、ちょっと言えない約束でして」
「……そうか」
「ところで……僕らは生物と保健の参考書を取引しているわけでして……」
黒沢が声をぐっとひそめる。「学校の教科書も、どこかで検定しているそうですね。考えてみたら僕ら、それを忘れていたんですよ。せっかくなので島田先生にお願いできませんか?」
「検定?」
「ええ。それ、参考に持って帰っていただいて」
「それはおまえ……いや、しかし……」
「先生のお気持ち、わかりますよ」
「そ、そうか……それじゃあ、ついでにあそこのも……」
「了解しました」
黒沢はすっと影のように消え、あっという間にエロ本二冊を新聞紙で包んで島田に手渡した。島田の同様も興奮も、まだ収まってはいない。黒沢に促されるまま出口に歩いていく自分を、不思議に思う自分がいた。
「まあ、あれだ。貴様ら、はやく解散しろよ」
「わかってますよ」
黒沢は返事をして、近くにいた二年生の男子に声をかける。「放送部に伝言頼んで良い?」
後輩は言伝を受け取ると、さっと駆け出した。
「何をする気だ?」
「在庫処分をするから引き取りたい奴は来いって伝えるんです。売れ残り、持って返れませんからね、一人じゃ」
○
『文化祭放送もこれが最後となりました。なんとか乗り切れましたね、部長』
『肩の荷が下りたなあ』
『今年の文化祭はどうでしたか?』
『どうもこうも、大変だったよ。もうこれほんと』
『えー、でも楽しかったーって顔してますよ』
『楽しいは楽しいけどね、でもさ、ほら、俺はここに篭りがちだったでしょ? で、クラスのほうであれやこれやあって、くっついただなんだって自慢してくる友達がね? もう鬱陶しいなあ! って』
『昨日もそんなこと言ってましたね。部長、本気でいやなんですね』
『実名出して大丈夫かな? 高橋がね……』
『おおっと、それは大丈夫なんですか?』
『大丈夫大丈夫。もう卒業した先輩だから。文化祭で彼女作って、それ自慢してきたの。もうそれが嫌で嫌でしょうがなくてね、どうして童貞卒業したって自慢を聞かなくちゃならんのかと』
『あー、去年文化祭でラジオやってらっしゃった方ですか?』
『そうそう。あ、よく知ってるね?』
『去年、友達と見学に来まして、そのとき拝聴しました』
『恥ずかしいなあ。俺、噛み噛みだったでしょ?』
『そりゃもうひどかったですねえ。でも私、高橋さんが部長にちょっとひどいこと言っても、我慢して話を進めようとしてるの、すごいなあって思ってましたよ』
『なに突然。褒めたって何にも出ないよ』
『いえいえ、だからこの学校をうけて、放送部に入ったんですよって話、したことないなと思いまして』
『されたことないなと思いますね』
『部長、もう引退しちゃいますしね。その前に言っておいたほうが良いかなと』
『いやいや、そりゃどうも。世古さんって口と性格の悪い子だなって思ってたけど、何か突然それが良く思えてくるね』
『そうですか? それじゃ、どうですか?』
『ん? なにがですか?』
『いえだから、なんと言いますか、部長も自慢する側に回ってみません?』
『何を?』
『彼女を』
『いやいや、相手もいないのにそんなことしてたらヤバい奴ですよ』
『部長がヤバいのは、今の流れで私の気持ちを汲み取れないことですよね』
『いやいや……え? なに、それって――』
『さあ、お送りしてきました文化祭放送、いかがだったでしょうか? 放送室前に意見箱があるので、感想ご要望を投じてくだされば、来年以降反映される可能性が無きにしもあらずです。文化祭終了はこの後、午後四時半、後夜祭は午後五時からの予定です。みなさま、最後まで楽しみましょう』
『え、あの……』
『部長、終わるので締めてください』
『あ、えっと、お相手は放送部部長林田と』
『一年世古でお送りしました。またいつか』
○
文化祭が終了すると、生徒はいったん仮ホームルーム教室に戻って点呼を取る。とりあえずはそれで解散となるのだが、希望者は講堂へ移動して後夜祭に参加する。なぜだか参加率が異様に高く、ほぼ全員が出席する。
俺と数名の男子は、迷路の後片付けがあるからと、後夜祭開会式だけを見て途中退席した。
「で、どうだったの、売り上げは」
加藤が自販機で買ってきたジュースを飲みながら訊ねてきた。校内で缶蹴りというのもありだったな、と惜しくなる。
ふいに俺は、もう来年の文化祭には参加しないのだと実感が湧いた。日が傾くのがはやくて、風が冷たいからだろうか。後夜祭の賑わいがかすかに漏れてくる体育館を見ていると、胸が苦しいような気がした。
寂しがっているのが恥ずかしくて、俺は誤魔化すように明るい声をつくろう。
「全額返済にも全然届かない。島田、思ったより早く来たから」
「そうかい。ま、期待してなかったからいいけどさ」
「っていうかおまえ、仕事しろよ」
「飲んだらな」
缶をぷらぷらさせる加藤を放っておき、食堂裏手に置かせてもらっていたリヤカーを取りに行く。不要になった段ボールをまとめてゴミ集積場まで運ぶ。木材は後日で良いだろう。
だらだらと雑談をしながら作業をしているうちに、太陽がビルの向こうに消えて、辺りは薄暗くなった。教師陣もそろって体育館にいるので、照明をつけられる人間がいないのだ。
「あっ、やばい。あと任せて大丈夫?」
「大丈夫だけど、どうしたの?」
「いや、結局内田に何の説明もしてやれなかったから、埋め合わせをさ」
「ふうん」
にやりと笑われる。
「なに」
「何もないけど」
「……まあいい。頼んだぞ」
体育館へと走り、三年七組の固まっている場所に戻って、その中にちょこんと座っていた内田を連れてまた外へ出る。
背後から囃し立てるような声が聞こえた気もしたが、ステージ上のダンス部への歓声との区別はつかない。




