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走り出したら  作者: 肉団子
3章
62/124

釣りの本分



 推理は間違っていたのか? 何が? どこから?

 頭を疑問符でいっぱいにしながら、島田は校内を歩きまわった。ふらりと迷路に足を運び、思考と同じく道にまよう。両側を壁にはさまれて、見通しは悪い。ぐるぐると同じ場所を回っているような錯覚。案外本当に、奴は真面目にやりたかっただけなのではないか?

 これほどのものを作るのだ。相当な熱量がなければできまい。それを放り出して、小遣い稼ぎに精を出すものだろうか?

 ほとんど放浪するように歩いていると、中庭の池のほとりに数学教師の湯浅がいた。数学にだけ向き合って生きているような男。まだ五十にもなっていないのにすでに老人のように老けていて、動きは亀よりも遅い。はっきりといえば、島田は彼が苦手だった。

 湯浅は黒沢がやっていたように糸を垂らしている。細い竹のような植物に釣り糸をつけているらしい。見ると釣竿は数本置きっぱなしになっていた。

「それ、面白いんですか」

 思わず声をかけた。メダカや金魚が見え隠れする池から湯浅は、空気さえも動かさない緩慢さで顔を動かす。ほんのすこし照れが浮かんでいた。

「いや……生徒がやっているのを見ましてね、なかなか哲学的で面白そうだなと思いまして。さすがに一緒にするのは恥ずかしくて、こっそりと。どうです、島田先生も」

「は、はあ……」

 うっかりと肯いてしまった以上逃げられない。高梨の言っていたように、針はついていなかったが、きちんと沈むように錘がつけてあった。

 アメンボが走るばかりの水面を、いい年をした大人が二人見つめている。島田は無言に耐えきれずに質問をする。

「哲学的とは、いったい」

「魚を取りたいなら、網を投げたほうがよほど効率的でしょう。罠を仕掛けても良い。それなのにどうして人は竿を選ぶのでしょうね」

「釣りが楽しいからでは?」

「なぜ楽しいのでしょう」

「釣れたり釣れなかったりというか、餌に食いついたけど逃げられた、みたいな駆け引き……ではないですか?」

「それならば自作の罠でも沈めても同じ楽しみを味わえる。その時間で他のこともできる。それなのに人は釣りを楽しむ。なぜでしょうね」

「さあ……」

「私はこの糸を垂らして水面を見つめている時間こそ、釣りの本分ではないかと思うんですよ。魚が釣れるかどうかは問題ではない。一種の禅ですよ。私も学生時代、たまに友人と釣りに行ったんですけどね、魚を釣りたい釣りたいと思っている奴ほど、一度のボウズで行かなくなるんです。だから釣りという行為に没頭するんですよ。魚の動きや、水辺のにおい、風の音。そういう自然と、そこにある自分と向き合うのが、釣りの面白さではないですか? だってかかれかかれと思って浮きを見つめているの、退屈でしょう?」

「わかるような、わからないような……」

 しかしはっきりとわかることがある。黒沢はそんなことは絶対に考えていない。

 これまで数字にしか興味がないと思っていた湯浅が、釣りを趣味としていたと知って、島田は途端に彼への嫌悪感がうすれた。それに生徒と並んでは恥ずかしいというのも、人間臭くて良い。そうだ、これまで彼を苦手としていたのは、人間味を感じられなかったからだと納得する。

「それで、先生はなにをお悩みですか」

 ゆったりとした老人のような声に、島田は促されるままこれまでの経緯を話した。相槌ひとつ打たずに聞いていた湯浅は、最後に一度だけ肯いて、

「視野が狭くなっているんでしょうなあ」と、呟いた。

「視野、ですか」

「黒沢君に注目するあまり、他のことが疎かになっているんですよ。おそらくね」

 何かを見落としている? 何だ……。

 視線をめぐらせる。体育館の前の野外ステージでは、クイズ大会の最中だった。結構な盛況ぶりで、一問ごとに拍手が聞こえてくる。二号館の窓には、人影が見え隠れしている。壁には銀のパイプが走り、陽光に輝いている。

 そのままぐるりと首を回すと、東側の渡り廊下三階で、男子生徒が中庭の様子を見物しているのが見えた。その手には新聞紙。

 そういえば、さきほども新聞紙を見た記憶がある。あれは、高梨といたときだったか。新聞紙を扱うような店はどこかにあったか?

 島田は竿をその場に置いて、二号館の階段をのぼった。三階まで来て足を止める。壁際にもたれてじっとしていると、やがて新聞を手にした男子生徒が二号館の廊下からやってきた。

 彼をやりすごし、音楽室前でまた同じ行動をとる。今度は三号館との渡り廊下から、やはり新聞紙を手にした男子生徒が現れた。その形状をよく見ると、何かを包んでいるようである。

 三号館に入ってすぐの場所で、掲示板を見る振りをして立っていると、二人の男子生徒が廊下を教室の並びに折れ、そちらからまた男子が一人やって来た。

「わっ」

 目が合うと彼は小さく声をあげ、足早に去っていく。

 三号館三階は、教室が二つに茶道部の部室、あとは社会科教員室だけである。教室は雨だった場合、三年七組の迷路を入れるということで、空っぽのはずだ。

 その空き教室の前に、男子生徒が二人いた。

「おまえらそこで何をしている」

「待ち合わせです」

「こんな場所でか」

「こんな場所だからです。人気ないから、わかりやすいんですよ」

 一理ある。が、彼らはドァの前に立っている。渡り廊下から来るにせよ、階段を上ってくるにせよ、その階段に腰かけて待つほうが、よほど早いし楽なのに、だ。

「そうか。先生、ちょっとこの教室に用があるからどいてくれないか」

「えっ……いや、それは……」

「問題ないだろう?」

 彼らを押しのけてドアを開く。

 しかし教室は空っぽだった。誰一人としていない。

 また真っ白になりそうな頭で考える。こんなに頭を使うのは、大学受験以来かもしれない。

「空き教室に何の用なんですか」

 後ろからの声にも島田は反応しない。視野を広く、冷静に……。最初はあの存在感のおかげで、グラウンドに広がる迷路に気を取られ、次はゲリラ的にイベントを起こす黒沢を追った。それらは目くらましで、裏でこそこそとシャーペンの芯で賭けを行なっていた。黒沢はおそらく警戒されていることを見越して、わざと追跡を空振りに終わらせた。実際それは上手くいった。

 正解を確信した瞬間に足場を崩して諦めさせようという魂胆ならば……それが二重に仕掛けられているならば……。

 島田はゆっくりと後ずさりし、やおら駆け出した。空き教室は二つある!

「あっ!」

 背後からの慌てた声。走り込んだ勢いのまま、ドアを開け放つ。それだけでむわっとするような、男、男、男の群れ。皆一様に口を半開きにして島田を見ていた。

 勝利を確信し、室内に足を踏み入れて、島田は唖然とした。

 教室を埋め尽くしかねないエロ本の山!

 ジャンルごとにブースが分かれ、男子共は行儀良く物色していた。熟女、女子高生、ロリ、アイドル、北欧系、人妻、露出……およそ学校に似つかわしくない単語がずらりと並んでいる。教卓に座った黒沢の前には、現金とシャー芯の入った箱が、一つずつ置かれていた。

 なるほど、島田は黒沢修一の評価を改めねばならなかった。利口な愚か者だとばかり思っていたが、これは賢いバカだ。例えどれだけ頭が回ったとしても、こういう下らないことしかしないタイプの人間だ。

「誰が主催だ」

 念のために問いかけると、黒沢がゆっくりと手を上げた。

「やはり貴様か。色々言いたいことはあるが、まず現金のやりとり、無許可の営業、あとはこんなにエロ本を持ち込みくさって――」

 世界の終りかというほどに絶望を顔に貼り付けた生徒たちを威圧するように、島田はゆっくりと教室を歩いていたが、並んだエロ本の一冊に目が留まる。

 見覚えのある表紙に釘付けになった瞳は、ぴくりとも動いてはくれない。しかし頭の中にはその映像ではなく、思い出ばかりが溢れてくる。

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