彼の夏は続いていく
新入生代表の挨拶は無難にこなせただろうと満足していた。
自分の頭脳を証明する――などと言えば少々傲慢だが、何にも頼らずに自分一人で大学受験に挑み、乗り越えられれば、きっとその後の人生も上手く行く。そんなふうに思っていた。それでこの学校にしたのに、さしたる理由があったわけではない。あえてあげれば、進学校ではないことと、かつて両親が通っていたこと、登下校で適度な運動ができそうだったことくらいのものだろう。
自分の席について、持って来ていた本を読んでいると、斜め前方の席がにわかに騒がしくなった。視線だけで確認する。どうやらこのクラスの女子に、因縁をつけにきたという様子。後ろに控えている男が目についたが、だからと言って助ける義理も、方策もない。ただ少し、人生ではじめて自分の選択を後悔しそうになった。静かに勉強のできない環境だと、非常に困るからだ。
しばらくそうして静観を決め込んでいると、男がひとり割って入った。上背でいえば、先の男よりもいくらか小さい。シルエットも細身に見えた。
それなのに彼は――黒沢修一は相手のことを挑発するようなことを言う。
「文句あんの?」
と、男が詰め寄るのを、黒沢は「どうどう」というふうに両手で距離を取ろうとする。離れて見ていた遠野には、同時に足を前後に開き、口元には攻撃的な笑みを浮かべているのがよく見えた。
黒沢の言葉に男が怒りを爆発させるのとほとんど同時、修一が床を蹴って身体を回転させて、左の拳をまっすぐ顔面に叩き込んだ。
仰向けに倒れた男を見て、黒沢はやってしまったとばかりに頭を抱えて天を仰いだ。
その仕草が印象的で、遠野は停学明け、周囲から浮いていた黒沢に声をかけた。
「なんであんなことしたんだ?」
「なんでって? そりゃ友達があんぽんたんに絡まれてんだから、助けるのは普通だろ」
「普通?」
すくなくとも、遠野の普通ではなかった。
「それで関係ない奴にまで避けられてるし、後悔とかはないの?」
「おまえ、新入生代表で挨拶してたろ。遠野って言ったか」
「ああ」
「どんな奴かと思ったけど、案外バカなんだな」
男を殴る直前と同じ、歯を剥くような笑みを浮かべる。面食らってかたまった遠野に、やれやれという感じで続けた。
「あの野郎を好きにさせるのと、高校三年間ぼっちでいることのどっちが嫌かで考えりゃ、答えは一つだよ。ま、やり直せるなら、もっと上手く殴ってみせるけど」
やっぱりこの高校を選んで良かった。遠野は自分もにやけているのがわかった。自分のことをバカだと言うのが、遠野にはたまらなく嬉しかった。ただの罵倒か? いや違う。今に彼は、遠野誠という人間の評価を、自分と同じ物にする。確信があった。
「それにさ、そのおかげで遠野は俺に話しかけたわけだろ? だったら悪いことばっかじゃない」
「俺が女だったら、今たぶん惚れてたな」
「キモいこと言うなよ」
決してそういう意味ではなく、遠野はたぶん、一目惚れだった。この学校に来なければ、おそらく生涯関わることの無かった人間。こいつと出会うためにこの学校に来たのだと言っても、過言ではない。
氷がとけて薄くなったシロップを、カップをひっくり返して飲みきった。中原から顔を隠して、恥ずかしい話をしたなと思う。カップをテーブルに置いて、遠野は質問した。
「恥ずかしいことをごまかすために、もっと恥ずかしいことで誤魔化すことをなんと言う?」
「えっ……と、ノーガード戦法?」
「なんでだよ」
鼻をならす。いやしかし、気分的にはノーガード戦法のほうが正しいのかもしれない。メイド服などという恥ずかしい格好を誤魔化すために、誰にも言ったことのない思い出を開示して、現状を誤魔化すのである。戦法、というにはあまりにも自傷的だが。蚊に噛まれて痒いのを、かきむしって傷みで忘れるようなものだろう。
「じゃあ正解は?」
「恥の上塗り」
「ああ、そっちね」
しれっと言うのがおかしくて、遠野はまた笑う。
たしかに恥じは上塗ったが、それでも最も恥ずかしい部分は隠しているのだから、人間とは器用な生き物だ。
遠野があの日に見た光景で、一番印象に残っているのは、絡まれていた女生徒――中原千佳だった。
黒沢が男を殴り倒すのを見て、彼とまったく同じタイミング、仕草で頭を抱えたことだった。
二人にはきっと、同じ景色が見えていたのだ。そういう関係を、羨ましいと思った。
人を羨んだの、初めてのことだった。
「じゃあそんな頭の良い遠野にお願い」
「なに?」
「修ちゃんと高梨に、バカなことしてないで勉強しなさいって言ってあげて。余裕があったら面倒も見てあげて欲しいな」
「死んでもごめんだな」
「どうして?」
「あいつらだって、そう思ってるからさ」
冗談のつもりだったが、それが伝わるまでには、若干のタイムラグがある。
『こちら放送室』
と、落し物の放送がかかるのと、「あ」と口が開くのは、同時だった。
○
『部長、部長。どうでした、一日目は』
『どうもこうも、ほとんど部活動だよ。明日のラジオドラマの原稿だろ、落し物の案内だろ、この放送だろ』
『えー、最後のは楽しくないですか?』
『あ、でもあれだ。辻麻雀は誘いに来てくれたな』
『ああ、あちこちで麻雀勝負をしかける人たちですか? うちの学校、麻雀部なんてありましたっけ?』
『いいや、あれは、奴らの趣味みたいなもんだな。お仕事ご苦労ってな、俺も半荘打ったよ。まあ良い気分転換になったかな』
『っていうかー、そもそもの疑問なんですけどぉ、どうして文化祭当日に原稿を?』
『あれ、なにその棒読み? 文化祭で起こったことなんかを取り入れた、ラジオドラマを、二日目の舞台でやるんだよ。昼の三時過ぎ』
『おっとー、隙あらば宣伝ですね。放送の私的利用なんて部長、悪人ですね』
『ものすごい棒読みで水向けておいてそういうこと言うんだね。俺は世古さんという人間がよくわからないよ』
『うふふ、ミステリアスな女性は魅力的だって、占い研の出し物で言われたんですよ。ぐっときました? きました?』
『ぐっときたね。握り拳がね』
『ガッツポーズですか?』
『ぐっのあとは、ガッだからな?』
『ぐの後は、げ、ですよ』
○
三年三組所属、元野球部員の山本慎也は両手を握り、バットを持つように重ねる。感触はまだ手に残っていた。
文化祭二日目の朝、山本は廊下の窓辺に並んだロッカーの上に座って、自分かすこし前まで白球を追いかけていたグラウンドを見下ろしていた。もう朝と夜とはずいぶんと涼しくて、夏が終わったことを嫌でも実感させられる。
いいや、まだ終わってなどいない。昼は暑い。手にはまだ、感触が残っている。
七組の連中も、迫り来る受験から目をそらすかのように祭りに熱中していた。昨日も午後の四時頃に一日目が終わると、総出でコース変更の作業をしていた。山本はその様子も、なんとなく見下ろしていた。
外見で違っては見えなかったが、作業はずいぶんと大掛かりだった。わらわらと集団が蠢いていたし、リヤカーが校外にまで予備パーツを取りに行っていたようで、山本が飽きるまで同じような作業を続けていた。
彼らの青春は、きっと美しい。
山本は目を閉じる。風の音、土のにおいに感覚を澄ますと、暑さを思い出す。グラウンドの外から蝉の声。炎天からのしかかる熱気、むわっとのぼってくる湿気。
甲子園優勝候補と一回戦でやれるとわかった瞬間から、ずっと待ち望んでいた瞬間。二年からエースをやっている相手投手の澤田は、きっとプロになるような人間だ。
喜んでいたのは自分だけだ。
志願した一番バッター。ほとんど妄想に近い確信があった。将来有望な彼が、生涯草野球を楽しむだろう弱小校相手に、ボールだの変化球だのを初球から投げてはこない。
ストレートを確実に入れてくる。
世界が逆立ちしても彼に及ばないだろうが、それでもまだ届く場所にいる。
不思議な感覚だった。興奮しているはずなのに、心は妙に穏やかで、何もかもがよく見えた。
一礼してからバッターボックスに入って、左手にバットを持ち、身体を揺らすように歩幅を定め、最後にバットを右肩にのせる。バットの先にまで神経が通っているかのように感じられた。
インコース――
澤田が肯いたとき、不思議とそう思った。あとはタイミングを合わせてバットを振るだけだ。
感触はなかった。打球音が遠くから聞こえ、チームメイトの歓声が耳に届く。走り出していた山本は、ボールの行方を追って、スタンドへ飛び込むのを見た。
もしもあれが外角にきていても、山本は同じ結果になったという自信があった。それほどまでに集中できたのは初めてだったし、今後二度とないと思う。
試合には負けたが、これは生涯自慢しよう。無事に甲子園優勝投手となった澤田には、プロで活躍してもらわねばならない。彼が大物になればなるほど、あのホームランに価値がつくのだから。
彼の夏は続いていく。青春は終わらない。
「こら山本、降りんか」
背後から島田の声がした。山本は素直に従う。
「そういえばおまえ、黒沢たちが何をしようとしているか知っているか」
「黒沢?」
山本はグラウンドを振り返る。「迷路じゃないんですか」
「他にも色々やってるだろ」
「ああ……俺みたいな野球バカにはわからないっすね」
「そうか」
納得したのか不満があるのかわからない声を出して、島田は去っていく。その無駄に大きな背中が見えなくなるまで、ずっと警戒していた。
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