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走り出したら  作者: 肉団子
1章
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どうして触ったの!

 その一方で昼間、授業を聞き流しながら内田をなんとなく観察していた。

 内田の二面性が気になったからだったけれど、彼女の言葉通りだった。

 まず内田はおそろしく朝に弱い。狙い澄ましたように始業ギリギリに登校し、午前を寝て過ごす。正確にはたまに目を覚まして黒板をざっと写してまた眠る。一応は授業を受ける努力をしているところが涙ぐましい。この時間帯がもっとも目つきが悪く、正直に言えば怖い。

 時間が経つほどに瞼は上へとあがり、昼食を終え、昼休みにたっぷり睡眠をとると、ようやく意識がはっきりし始める。が、昼休みに眠れないと、午後もたいへん良く眠る。

 部活には元気いっぱいに出ている。もはや部活のために登校している感のある日常だったが、例外として体育のある日は、それから後の授業は元気に過ごしている。

 それなら早起きして朝のジョギングでもすればいいのに。

「授業はちゃんと受けたほうが良いぞ」

 週があけた月曜日、俺は自分のことは完全に棚に上げ、もっともらしい忠告をした。

「勉強はちゃんとしてます」

 勉強もちゃんとしていない俺は、もうそれ以上言えることがなかった。

 会話もそこそこに、内田はかるい柔軟をはじめた。やる気満々である。俺は若干気が重くなるのを感じながら、彼女に倣って身体をほぐす。

 今日はサッカーの練習もなく、グラウンドの端でダンスの練習をする集団があるばかり。時折どこからかカシャ――と、スケートボードが着地する音がする。

「それじゃあ、軽く一、二本走ってくれ」

 内田に言い残し、四十メートルほど距離を取る。俺を越えて走るよう腕で示して手を振った。

 内田は合図をうけて走り出す。スムーズな加速。身体のブレはほとんどない。身長のない分、ピッチ走法に寄っているだろうか。俺の前を駆け抜けてからリズム速度を落としていき、ジョギングで戻ってくる。

「どうでした?」

「どうもこうも、俺に言うことなんてなんにもないような」

 コーチの経験などない。中学時代の後輩にだって、たいしたことをしてやってはいなかった。第一、人にどうこう言えるほどの実力もなかったのだ。

「えー……」

 あからさまに不服そうだ。

「じゃあ黒沢くんも軽く走ってよ」

「なんでさ」

「見てみたいから」

 正直あまり乗り気ではなかったが、他に内田に応えてやれそうなこともないので、注文にしたがうことにする。さきほど内田の走り出したあたりで、横向きに構える。内田が手を振るのを見て、後ろの足で地面を蹴った。一歩ごとに速度が上がる。八割くらいの力で、リラックスしながら走る。内田の待つゴールを過ぎてから、スピードを緩めていく。

 思った以上に身体は動いたが、同時にぎこちなさも覚えた。神経が死んでいる。この数日、運動をしていたせいで、記憶と現実の細かいズレを感じる。

 けれども内田は、

「やっぱり綺麗」と、褒めてくれた。

 中学時代にもそういう指摘を受けたことはあるが、走っている自分の姿を知らないので、実感はわかない。

「そうか?」

「どうしたらそんなに綺麗に走れるの」

「綺麗に走る必要はあるか? 速く走るのが目的なんだから」

「そうかな。美しさは速さだと思うけど」

「……うーん」

 その綺麗だと言われる走り方で、一度も予選さえ突破できなかったのは、純粋な才能の不足だろう。

「黒沢くんはどういうふうに教えてもらったの?」

「走り方か?」

「うん」

「そうだなあ……」

 しばし考え、練習をひとつ思い出す。

「なあ内田。ちょっと前屈してくれないか」

「前屈?」

 顔に疑問符を浮かべながら、内田は前屈みになる。髪の束が前方に落ちる。

 内田はスパッツを履いていて、だから脚からお尻のラインがはっきりとでる。普段はそれほどくっきりと見えない筋肉が、すっと浮かび上がる。形の良いふくらはぎから締まった太もも、きゅっとしたお尻。下着のシルエットがうっすら浮かぶ。

「それで限界まで前に体重をかけて」

 内田の身体が前のめりになる。

「先に謝るけど、ごめんな」

「え、なにが?」

 内田の疑問には、行動で答えてやる。

 内田の突き出したお尻を、手で軽く押した。

「ひゃ――っ!」

 甲高い驚きの声とともに、内田は倒れた勢いのまま数歩、走って逃げた。

「な、なにするんですか!」

 自分のお尻を押さえて俺のほうをキッと睨んだ。

「いや、だから謝ったろ」

「謝ればいいってもんじゃないよ! どうして触ったの!」

「触ったっていうか、押したんだけど……まあ落ち着けって。俺だって蹴るかどうか迷ったんだから」

「蹴る?」

「うちの爺……中学のときの顧問がスタートの感覚だか走る感覚だかって言ってやってたんだよ。前屈してるところを押すの」

 男子は全員蹴られ、女子は全員手で押されていた。当時セクハラだなんだとみんなして文句を言っていたけれど、いざ女子がお尻をこちらへ向けていると、そこを蹴る勇気は案外湧かないものだ。顧問の心中を察する。

「走るってのは常に落下してると思えってのが、爺の言い分でさ」

「落下?」

「そ、歩くのと違って、両足とも地面から離れる時間があるわけだろ? いちいちそれに逆らわず、地球に引っぱられるイメージでってことらしい。特にスタートは、内田もすぐに上体を起こすな、とか言われたことあるだろ?」

「あー、中学のころにね」

「クラウチングの構えで手だけ離すと倒れるだろ。そうならないために脚を出す。ブロックを蹴るから加速する。二歩目、三歩目と同じ要領でスピードを上げていって、徐々に身体を起こしていくってのがスタートなわけだ。それで、前屈でケツを押されると、咄嗟のことで思わず足を出すだろ? その無意識の感覚を覚えろ……みたいなことを言っていた」

 ような気がする。半分くらいは、今のいま考えた。

 おおむねそのようなことを言っていたのは、間違いではない。

「なるほど……いい先生だね」

「いい先生かな?」

「白髪のお爺ちゃんだったよね?」

「え、知ってるの?」

「中学校のときの顧問の先生が挨拶してるの見たことあるから。爺、なんていうからあの人かなって」

 そういえば、大会や記録会があるとそういう風景を目にした気がする。陸上一筋で生きてきたような男だから、その世界ではそれなりなのだろう。

「黒沢くん、もう一回頼んでいい?」

「いいけど、どっちで?」

 内田はしばらく悩んでから「手」と恥ずかしそうに言った。



 計測係が手をあげた。俺も手をあげて返事をする。

 体重を後ろにかけて、振り子のようにスタートを切る。リズム良く助走。踏み切りラインが迫る。一歩前の足を大きく、踏み切り足を小さく。ラインのすこし手前で踏み切った。膝を抱えるように引き上げ、落下に合わせて砂場におろす。転ばないように前方へ抜けていく。

「……っと、四メートル一〇だな」

「マジかぁ」

 中学時代の自己ベストと同じだった。成長がないことを嘆くべきなのか、三年も帰宅部をしていて衰えていないことを喜ぶべきなのか難しい問題だ。

 靴に入り込んだ砂を砂場に戻し、トンボを受け取った。これは慣れたものだ。足跡、手形、尻餅の穴を、すばやく均していく。

 今日の体育は走幅跳の測定だった。

 我が校の体育は、四クラス合同で行なわれる。男女別に二通りずつのカリキュラムが組まれ、好きなほうを選べた。

 したがって男ばかりの肉体が、次々に砂場に落下する。俺はそのたびにトンボをかけた。

 すこし視線を移せば、女子たちがきゃっきゃとはしゃいでいる姿が見える。

 ああ、内田との夜の交流を思えばなんとむさ苦しいことだろう。

 あれから二週間ほど、夜に公園で会うたびに、俺たちは短距離の練習をしていた。やっぱり内田は十分にできていて、俺なんかがどうこうアドバイスすることもなかったが、思い出話のような練習の話や、何を意識しているかなどの説明をした。

 内田が俺に話しかけた、最初の理由はこれだったのかもしれない。

 よくわからなかったけれど、悔いの残る陸上生活は嫌だろうと思い、できる限りの協力をした。

 俺は中学最後の夏、悔しくなかったことを、今さら悔やんでいた。

 どうして今さらなんだろう。

 俺は無意識に空を見上げる。もちろんそこに答えはない。あの夏の眩しい青さもない。鉛色の雲がどこまでも広がっているばかりだ。

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