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走り出したら  作者: 肉団子
3章
54/124

はじける青春

 何気なく見上げた視界に、三号館の三階廊下の窓がうつった。

「なあ、あれ、歪んでない?」

「どれ?」

「茶道部のとこ」

 食堂側の窓に、おそらく紙で作ったのだろう花を貼り付け、「ようこそ茶道部へ」と書いてあるのだが、その「う」の文字が、どうにも歪んでいる。

「ああ、本当だ」

「おーい!」

 声を上げて手を振ると、茶道部員がこちらに気付いた。「う、が変になってる!」

「う?」

 と、窓から叫び返してくる。肯いてみせると、修正に入るのだが、やはりずれている。カタカナのラにしか見えない。何度かやり直したが上手くいかず、たまりかねて俺は三界にまで走った。

 誠の指示と自分の記憶を頼りに直していくと、誠が両手で大きくマルを作った。

「ありがとー!」

 こんがり日焼けして制服を着崩しているせいで、まったくそういうふうに見えない茶道部員が食堂の誠に叫ぶ。それからこちらに向き直った。「ありがとう」

「気になっただけだから」

「黒沢って遠野と仲良いの?」

「どうだろう。友達だけど。なんで?」

「私さあ、遠野があんなに楽しそうに話してるの、はじめて見たもん」

「楽しそう? あれが?」

 どちらかと言うと、つまらなそうな部類ではないか。

「子供っぽい? とにかくさ、普段はもっとクールなのよね」

「いや、わからん」

「そういうの、羨ましいなって。男の子同士だから?」

 彼女はサッシに腕を置いて倒れこむように、食堂の遠野を見る。恋する乙女という様子だ。そういえば、去年高梨が言っていた。文化祭前後には一クラスあたり平均三・四組のカップルが誕生するのだという。さらにそれがクリスマスまで継続するのは、一組を切るという。新聞部調べらしいので、信憑性は定かではない。

「黒沢ぁ! 俺、もう帰るぞー!」

 律儀に別れの挨拶をする誠に、俺は手を振って別れを告げる。

 見下ろす景色は秋の香る、夏の夕暮れだった。いつだったかの教師が、秋は戦争と恋の季節だと言っていたっけ。

「それじゃ、私も部室戻るわ。ありがとね」

「あ、なあ。感謝してくれるならさ」

「なに?」

「今度ちょっとお願い聞いてくれよ」

「……程度によるよぉ?」

「大したことじゃないから大丈夫だって」

 グラウンドに動く影は、いつの間にか長くなっている。


          ○


 二号館の四階からグラウンドを見下ろして、日が暮れるのが早くなったなと感じる。

 文化際前日の木曜日、午後の授業は中止となり、部活は全面的に休みである。陸上部顧問の武内も、受け持っている三年七組の準備を見物していた。

 何かあれば手を貸すつもりではいたが、案外生徒たちだけで、作業は進んでいくものだ。たぶん差配が良いのだろう。脚立に登った高梨が、周囲に目を配って指示を出している。これが上手なものである。

 縦横に線を引き、交点に柱を立てていくのが主な作業のようだ。

「本当にやるんですね、迷路」

 横からの声にそちらを見る。生徒指導の島田だった。

「ええ、私もびっくりしてます」

「何事も起こらないと良いんですけどねえ」

「まあ……あいつらだって真面目にやってるようですし」

 外周の段ボールは、柱と柱を繋ぐように、外側から板を打ち付けている。おそらく風で折れないようにだろう。子供は子供なりに考えるものだと感心する。

「武内先生は前夜祭、来られるんですか?」

「いや、どうでしょう。あれが何時までかかるかな……」

 どれだけ遅くとも八時を過ぎれば下校という決まりがある。グラウンドの照明を使えるかと確認されていたから、いっぱいまでと見たほうが良いだろう。「たぶん、間に合いませんね」

「そうですか。じゃ、終わった後にはぜひ」

 と、酒を呷るジェスチャーをして、自分の持ち場に帰っていった。

 酒は諦めるにしても、一服つけるぐらいは良かろう。しかし悲しいかな、校舎内はどこも禁煙である。教師によっては近くのビルにあるスタンド灰皿まで走るが、武内はそのあたり大人である。常に形態灰皿をポケットに忍ばせてある。

 はやばやと作業を終えて帰宅する生徒たちに挨拶をされながら校門を一歩出る。校外だ。

 武内は煙草に火をつけ、最初の一口を味わって吸う。このしばらくぶりの一口目が、煙草にしても食べ物にしても美味い。もしも教師などではなく、収入に余裕があったなら、煙草は一口だけで揉み消すだろうな。

 惜しむ気持ちと一緒に、その上等な煙を吐き出して、校舎を振り返る。

 各クラスの出し物の宣伝と、文化際テーマのイラストの入った垂れ幕が、ずらりと並んでいる。今年は「はじける青春」だった。まるで部活動紹介のようなデザインだったが、躍動感に溢れる良い絵だ。

 はじけるような若さは、もう自分にはないのだな……と、武内は哀愁を覚えた。

 秋はいけない。意味もなく寂しくなる。

 だけど冬は良い。駅伝にマラソンに、長距離の季節だから。

 武内は学生時代、長距離ランナーだった。文化際が終われば高校駅伝に向けてまた気合を入れねばならない。部長は後任に託したが、いまだ現役の眞鍋にも気合が入っている。自然と指導にも熱が入る。

 はじけるような若さはもう失ったが、情熱はまだまだ滾っている。


          ○


 石橋校長は垂れ幕を見上げて、今年も文化祭がきたのだなと実感する。今年は校内新聞に載せるため、正門を飾るアーチと垂れ幕をバックに記念撮影を頼まれていた。

 足を運んでみると、正門にはなんと自分の銅像が置かれていた。板で作ったらしき台に鎮座した胸像は、ちょうど同じ背丈であった。まさか本当の銅ではあるまい。触ってみた感触からして、おそらく粘土か何かだろと思われた。

「せっかくなんで、これとのツーショットでお願いします」

 そう言いながら、新聞部の生徒が銅像の角度を調整し、立ち位置も指定する。校長はネクタイを締め直す。

「あ、糸くず着いてますよ」

 と、首もとを触られ、一瞬ひやりとした。

 何か違和感を覚えて振り返ろうとするのを、車の通りを確認して車道に出た生徒が「目線ください」と、制する。

 危ないと言ったのだが、その角度が一番良いのだという。

 はやく済ませてもらったほうが良いだろうと判断し、一枚で終われるように、きりりと表情をつくる。齢五十も下り坂だが、中年太りとは無縁だった。剣道で鍛え上げた肉体は矍鑠としている。背筋を伸ばした自分がスーツ映えする自信もあった。

「撮りまーす。三、二、一」

 背後で妙な音がしたと思った直後、ふと頭が涼しくなった。降ってくる水飛沫に、顔を上げると、カツラが空を目指して飛んでいた。

 永遠とも思える飛行の後、地面に転がったカツラは、ペットボトルロケットに繋がっていた。よくよく見てみると、銅像の台座部分が開閉式になっていて、中に物が入るようになっていた。

 なるほど……そういう仕組みか……。

 道路上にいたカメラマンはもういない。ゆっくりと視線をめぐらすと、そろそろと校内に引き上げようとしている背中が見えた。

 実はもう何年も、カツラの存在に悩み続けていた。

 直接教鞭を執ることのなくなった身とは言え、教育者たる自分が嘘をつくというのは如何なものか、と。いやそれ以前に、気付かれないかとかびくびくしたり、明らかに知らん顔をされることが悩みの種になっていた。頭頂部の悩みひとつを誤魔化すために、より多くの心労を抱え、薄毛はますます進行した。

 良い機会だったかもしれない。

 しかしそれはそれとして、やはり腹は立つ。背後からの不意打ちなど、人間の風上にも置けない。間違いを糾すのが彼らジャーナリストの仕事であるならば、間違いを正すのが教育者の仕事である。

「こらッ! 貴様等ァ――っ! 逃げるんじゃない!」

 生徒を追って校内に入る。スピーカーからの放送が始まったのは同時だった。


          ○


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