血は水よりも濃い
俺と中空との間で視線を行き来させ、ときどき眉根を寄せたり、頬がぴくりと動く。たっぷり数分も考えたあとで、おっちゃんはぽんと膝を打った。
「信じられへんかもしれんけど、おっちゃん妻子持ちなんや」
「……は?」
「いや、ほんんまに。なんなら家もあるんや、ほんまはな」
「じゃあなんで、ホームレスやってんの?」
家があるなら、ホームレスという単語も適当ではないだろうけど。
「うん、あのな、『こころ』って知ってるか、夏目漱石の」
「まあ一応は」
「それなら知ってるかもしれんけどな、まあ、要するにやな、あれの先生と同じようなことがあったんや、俺にもな」
先生……自殺? 友人を死なせた? 頭の中を掘り返していると、おっちゃんは付け加えた。
「家がな、それはもうお金持ちでな、親が死んだのは俺が中学、兄貴が大学のころやったんやけど……まあ、なんというか、それを使い込まれんやな」
「ああ、そっちか」
たしか語り部に、財産はきっちり管理しろとアドバイスを送るシーンがあった。そのことだろう。考えるうち、おかしな点に気がつく。
「待って、それが中学のときなら、どうして子供が?」
「そこなんや。俺もな兄貴と大喧嘩して、全部やないけど、取り返すもん取り返して縁切って、それで終りやと思ってたんや。まあちょっと人への警戒心が強くなって、それだけやとな。そやけど、かみさんと一緒になってやな……娘ができて、ちょっとした頃に、突然、何にも信じられへんようになったんや」
彼は目を伏せ、脚の間で組んだ手を見つめる。親指が、心許なげに動いている。
「それで?」
「それで……な。全部放り出して逃げたんや。ただ、かみさんとの約束で、週に一回の手紙と、半年に一度は子供にも会ってたんやけどな」
「えっと……奥さんとは今も?」
「離婚はしとらん。一応、いつそうなってもいいように、自分のは書いといたんやけどな、破ったんが封筒に入ってたわ」
「うーん……こんなの、俺が言うのもなんなんだけどさ……」
「なんや」
「そこまでしてくれる奥さんがいて、どうして人を信じられないの?」
「……ほんまやで。俺もずっと思っとったわ。そやけど、どうにもならんでな」
デリケートな問題だから、正論がそのまま正しいということにはならないだろう。
しかし、だ。
話すほど罰が悪そうに、指を動かし、視線を彷徨わせ、唇を舐める彼は、これまで喋ってきた中で一番人間らしかった。素の自分を見せてくれているようで嬉しい。
嬉しいと感じて、たぶんこれが自覚していた、そしてさっきも指摘された、いまだに抜けきらない代替物への執着心だろう。
「ほんまはな、おまえに家のこと相談されたとき、娘に負担かけとるなって、戻ろうかとも思ったんやけど、どうにもな」
「じゃあなんで今さら」
「もう一人、幼馴染で、まあ信頼しとる奴がおってな。なんかあったら頼むでって言ってたんやけど、そいつがこの前こっち来たんや。ほんでなんやスーツ着とるしな、ああいよいよそうなったか……って思ってたら、独立するから手ェ貸せって。そういう冒険はせん奴や思ってたから驚いて何があったんやって訊いたら、こうでもせんとおまえ帰って来んやろ……って」
「そうか」
と、呟いたものの、まだしっかりとは飲み込めていなかった。事情はわかった。状況も理解している。だとすれば、受け付けないのは心だろう。
「せやからな、おまえにはそのへん、ちゃんと話して出て行こうと思ってな。えらい寂しい思いしたみたいやからな」
「おっちゃんがいなくなって? そんなわけないだろ」
「ほうか。それならええんやけどな。なんや、都合つけては遊びに来よるし、どんな寂しがり屋や思ってたんやけど」
そういえば、春先内田にも言われた。過去にはなっていないと。もちろん俺自信の倒錯ではあるが、理解したうえでそこに依存しきるほど人間はバカではないはずだ。
だから、そう――こうしてちゃんと別れなかったことが消化不良だったのだ。そうだと信じたかった。
「一つ訊いて良い?」
「なんや?」
「娘さんは知ってんの? おっちゃんの今」
「……かみさんは俺が単身赴任してる、ってことにしてるらしい。年頃やし、薄々おかしいとは思ってるみたいやけど」
「半年に一回会うだけだった年頃の娘? 絶対あんたばっちい物扱いだからな」
「覚悟はしとる」
「それから俺が言うことじゃないけど、奥さん大事にしろよ」
「わかっとる」
「そういうのから逃げるなよ」
俺の父親みたいに、という言葉は、胸のところにつかえて出てこなかった。
「わかっとる」
おっちゃんは、自分に言い聞かせるように呟いた。
俺と彼の間には共通の話題なんて一つもなかった。ホームレスでなくなるというのなら、俺たちは、まったく赤の他人になるのだろう。血を分けた父とは物心ついたころから別々に暮らしているのにいまだに、そして生涯会う機会があるのだろう。父のように感じていた男とは、たぶんもう二度と会うことはない。
血は水よりも濃いのである。
「じゃあさ、おっちゃん。全部ひっくるめてお礼にさ、見せたいものがあるんだ。文化祭、来てくれよ。ちょっと覗くだけでいいから。場所は――」
○
「荷物の置き場所もねえな、これ……」
鈴やんこと鈴木は午前練のあと、教室に足を運んだ。大会の初戦までは一週間。試合に向けての調整が始まった。
時間があるのに手伝わないのはどうなのだろうと自問自答し、これまでほとんど手を貸さなかったことを心苦しく感じながら、久しぶりに教室のドアを開けると、その変わりようにしばし戸惑うことになった。
机はすべて後ろに押しやられ、段ボール置き場になっている。ひらけた床では、段ボールへの塗装などの作業が行なわれている。なによりわからないのは、教室前方窓際に山と詰まれた木材である。
足の置き場はさすがにあるが、手荷物を置けそうな場所はすでにない。たっぷりと考えたあと、脇を通った信楽君を捕まえて問う。
「これどうすんの」
「どうすんのって?」
「いや、明日から学校あるし」
「ああ」
信楽君は口を半開きに肯いた。本当に信楽焼の狸みたいだ。
「黒沢ぁ、授業のときこれってどうすんの?」
「え?」
段ボールを筆で撫でていた集団の中からぴょこんと頭が上がる。「考えてなかったわ」
「おいおい、どうするのこれ」
鈴木が呆れていると、黒沢は塗料缶や絵筆、他人の脚を簡単に跳び越えながら入口までやって来た。
「おいおい、鈴やん。ヤンキーって言われてるくらいなら授業なんてボイコット提案するぐらいできないわけ?」
「まずヤンキーじゃないし」
「ま、空き教室かなんかがあるだろ」
黒沢は軽く言う。「もし断られたら、外に置いとくよ。ブルーシートもあるし」
言われて気がついたが、カーテンのそばに青いシートが畳んで置いてあった。
「それで、俺は何をしたらいい?」
「えっとな――」
黒沢の説明によるとこうである。
段ボールを切り貼りして縦一・八メートル、横一・五メートルに整える。それらに絵の具で薄めの茶色に塗り、焦げ茶色で適当に木目を描いていく。ポイントは所々滲ませたり歪ませたりすることだという。これらに黒で線を引くと、板張り風の壁になるという。遊び心で虫食いのような跡をつけたり楽しそうだった。
しかしどうにも鈴木には馴染めそうにない。話の続きを聞くと、今度は迷路の図面に従って、ある程度まで組み立てていく。AからNと一から一四の印で柱が決まっており、置いておける(つまり直線)状態でパーツを作っていく。教室に積んである木材はその柱らしい。まだ増えるらしいが、しかしそれでも二〇〇本には届かないので、数本分続く直線の中抜き、現在校舎のどこかで行なっている板を棒状に切り出すことで、どうにか補えないかということらしい。
「板の切ってるのがどこ行ったかは知らない。加藤の野郎、部屋の中でやりだしたんだぞ。どれだけゴミを出す気だあいつ」
「じゃあ、それやる。校内だろ?」
「うん、頼んだ」
教室を出て行こうとする黒沢が、ドアの端を掴んでくるっとターンする。
「あ、言うまでもないけど、迷路の図面だけはよそのクラスに――」
鈴木は肯く。
「わかってる。秘密だろ」
○




