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走り出したら  作者: 肉団子
3章
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社会復帰



 触れ合った腕の境界が、だんだんとわからなくなってきた。

「ただ、なに?」

 千佳は話を促した。

「もったいなかったかな、とは思うんだ。子供のころにあった身軽さを思い出すっていうか、ようやく身体ができたのが今なんじゃないか、って」

「ま、もったいなかったと思うよ。でもそれ、麻衣の前で言っちゃダメよ」

「どうして」

「あの子、それ聞いたらたぶん怒るから。じゃあ入部してろよって」

「ああ、言われそう」

 困ったような笑みを浮かべる表情は、彼女が知らない幼馴染の顔だった。ずっと子供だと思っていたのに。気がつけば身長だってあちらのほうが高い。

 それを悔しいと思っていたこともあったのに。

「修ちゃんの成長期、あと一年でも早かったら良かったのにね」

「一年じゃ間に合ってないだろ」

「……男女の機微ってものがあってね」

「何の話?」

「わからないならそれでよろしい」

「そんな奴に、仲取り持ってくれって頼むかね?」

「それはそれ、これはこれ」

 中原は立ち上がり、グレープジュースぐいっと飲み干した。「私は忙しいから」


          ○


 いそがしい、いそがしい。

 高梨の頭の中はその言葉が木霊していた。机の数を確認して、判子待ちのポスターを処理して、それからええと、クラスの手伝い。順番に並べる間にも、いそがしい、いそがしいと声がする。

 あれ? いそがしいってどう書くんだ?

 以前、遠野が覚え方として「心を亡くす」と教えてくれた。心を亡くす。あれ? それは「忘」では? ああ、違う。これは小学校のとき、黒沢に教えてもらったほうだ。そこまで思い出してようやく「忙」が頭に浮かんだ。

 忙しければ心を亡くし、心を亡くせば何かを忘れる。そういう感じなのだろうと納得し、高梨はまた忙しさにすべてを忘れた。

 たぶん自分史上最高に忙しい。見回り、雑用、文化祭の準備。身体がいくつあっても休めそうにない。

 折畳み式の長机は、嫌がらせかというほど校内のあちらこちらに収納されていた。空き教室、倉庫、体育館の舞台下。それから行方不明になっているもの。いちいちその数を確認し、故障がないか点検をし、なくなった物は捜索する。

 絶対にこれは教師の仕事だろう。

 生徒会に入って知ったが、職員室付き雑用係、というのが役員の正式な役職だろう。

 それも会長ともなれば、校内新聞のインタビューを受けたり、OB会の相手をしたりであるから、副会長がもっとも雑用を押し付けられると言って良い。

 生徒会室からゴミ捨て場なら目を瞑っても歩けるほど往復しただろう。

「失礼しまーす」

 体育館はあいかわらずサウナのようだった。こんな真夏に地獄で青春の汗を流す物好きな連中がこちらに視線をくれる。律儀な後輩はぺこりと頭を下げてきた。

 練習の邪魔にならないよう、壁際を歩く。入口側と舞台側は中央のネットで仕切られ、手前が女バス、奥が男バスと使い分けていた。バレーボール部は休みなのだろうか。

「何用?」

 二年のとき高梨とクラスが一緒だった内村がドリブルしながら訊ねる。

「あれ、まだ引退しねえの?」

「大会残ってるし」

「へえ、大変。ちょっと舞台下引っ張り出すから、邪魔するぞ」

「聞いてねえぞ」

「そりゃ、俺だってさっき聞いたから」

「こっちにも練習計画ってモンがですねぇ」

 わざとらしい物言いに、高梨は苦笑する。

「練習したけりゃ手伝え」

「なんだよ、偉そうに」

 内村は目にかかりそうな前髪をかきあげる。汗が光を反射させて宙に舞う。「軽く休憩! 暇なら手伝え!」

 部員たちが野太い返事をする。



 生徒会室に戻った高梨は、まっすぐに一番奥に置いてある冷蔵庫に向かった。冷凍庫からカップアイスを取り出して、自分の席に座る。

 原稿を書きあぐねていた会計の多賀千里が、シャーペンを構えたまま高梨を睨んだ。

「先輩、仕事してくださいよ」

「ええっ! 今仕事からやっと帰ってきた先輩にそんなこと言う?」

 高梨は備え付けのスプーンでアイスを食べて身体を冷やす。

「あ、もしかしてアイス欲しかった?」

 アイスをのせたスプーンを伸ばすと、目が丸っこく、口がちょこんと小さい、幼い印象の顔をこれでもかと顰めた。まるでサメみたいにアイスを食べた。

「いりませんよ、アイスなんて」

「いらないって……食べてるじゃん……」

「さっき先輩のお客さんが来てましたよ」

「え、誰?」

「新聞部の人と軽音楽部の人。それから美術部の人」

「あー……また後で連絡しとく。そういえば中津くんは?」

「中津?」

 多賀ははっとして時計を見る。「逃げやがった……!」

 床に転がった空き段ボールを蹴飛ばして、千賀は内線電話に歩み寄る。

「あー、えー、こちら生徒会室。会計中津。さっさと戻って来い」

 受話器を戻すと、ずんずんと足音をさせて自分の席に戻る。

「怒られない? あれ」

「仕事の一環です」

 千賀は悪びれない。大物になるなと、高梨は感心した。

「たしか先輩のクラスですよね、グラウンド使うの」

 仕事に戻った千賀が、高梨の顔も見ずに言う。

「そうだぞ。ちさちゃんもぜひおいで。おじさん、サービスしてあげよう」

「……なんか変態チックですよ、それ」

「ほんと、厳しいな君は」

「っていうか、雨降ったらどうするんですか?」

「その場合は屋内。ま、晴れるけど」

「どうして?」

 千賀は顔を上げて首を傾げた。

「経験上、黒沢と何かをやろうってときに雨は降らない」

「黒沢……ああ、飛び降りの……。っていうか、それって根拠ないですよね」

「じゃあ賭けるか?」

「いえ結構です」

「連れないなあ」

 なんとなくドアを見る。中津は帰って来ない。どこで何をしているんだ。

 そういえば、とそのまま視線は天井へと移動する。黒沢はいまどこで何をしているのだろう。今日は学校に行かないという連絡があった。


          ○


 ホームレスの住処を訪れて、俺はまっさきにその異変に気がついた。養鶏場がなくなっている。おっちゃんは何もなくなったその空間を、ただじっと見つめていた。

「なんで鶏小屋がないの?」

 声をかけると緩慢な仕草で振り向く。

「おお、よう来たな。今度は何の用事や」

 彼はやわらかく微笑んだ。そんな表情筋の使い方ができたのかと驚いた。

 瓶ケースの椅子に座って向かい合う。異変は彼の身にも起こっている。ハーフパンツにTシャツという格好ではあるが、比較的新しいというか、まるで買ってきたような印象だった。

 そういえばここしばらく、いつ訪ねてきても邪険にされていたのに、今日は歓迎された気がする。それも異変といえば異変である。

「あのさ」

 どちらの話をするべきか、少しの間迷った。「あそこに積んである木材、貸してもらえないかな」

「木材? ええけど、何に使うんや」

「文化祭で、ちょっとな」

「ほう。まあ、使い終わったらここに戻すんなら、ええで」

「本当か、ありがとう」

「リヤカーもここに置いといてくれればええわ。あとはまあ、誰かが持っていくやろう」

「誰かが?」

「あのな……」

 おっちゃんは俺の目を見て、開きかけた口を一度閉ざしてそっぽを向いた。それからまた意を決したように、視線を戻す。

「俺、引っ越すことになったから」

「引っ越す?」

「まあ……もっと言うなら、社会復帰いうヤツやな。黙って消えるか、話して消えるかって、ずっと考えとったんやけどな……」

 俺は思考はまったく停止していた。もちろん彼がまともな道に戻るというのならそれは素晴らしいことなのだけど、そうではなく、理解が追いつかない。

 けたたましく電車が通り過ぎ、だんだん静寂が返ってくると、どこかからツクツクボウシの声がしてきた。

「……なんで」

 ようやく出てきたのはその一言だけだった。

「おまえ、俺のこと、ただのホームレスやと思ってないやろ」

「だから社会復帰するの?」

「ん? ああ、話して消えようと思ったほうの理由や。あのな……」

 と、おっちゃんは今度こそ言葉を途切れさせた。

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