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走り出したら  作者: 肉団子
3章
49/124

飲んだな?

「すみませーん」

 中原千佳はサービスカウンターの女性店員の背中に声をかけた。女性とわかるのは髪形と制服のおかげで、まるで関取みたいに横幅があった。

「はぁい」

 見た目からは想像もつかない可愛い声で振り返るので、中原は思わず笑い出しそうになるのを、唇の裏を噛んで我慢した。

「いつもそこにある段ボールって今日はないんですか?」

 地元スーパーの出入り口にはキャスターつきのラックがあって、ご自由にお持ち下さいと段ボールが置いてあるのだが、今日は、いや数日前に来たときも、それが見当たらない。

「ああそれねぇ、少し前に男の子が持って行ったのよ」

 近隣の高校はほとんど、夏休み明けに文化祭がある。それに加えて小中学生の夏休みの工作にも活躍するだろうが「男の子」と聞いたとき、直感が働いた。

「そうですか、ありがとうございます」

 中原は頭を下げてスーパーを後にする。

 この手の嫌な予感もずいぶん久しぶりな気がした。これといった確証はなかったが、中原は確信的に思う。

 修ちゃんたちの仕業だ。

 文化祭なのである。段ボールだって必要だろう。しかし付き合いの長さのせいか胸騒ぎがする。

 学校へ向かう前に黒沢家に寄ってみたが、すでに家を出た後だった。

 汗をかかないようにゆっくり自転車を漕いだが、学校に辿り着いた頃にはすっかり汗水漬く、炎天下にさらされるのも考え物だな、と額を拭う。

 中原の所属する五組は演劇をする予定だった。道具係の彼女にとっては夏休みが本番のようなもので、その夏休みもあと一週間ほどしかない。受験勉強は思ったよりもはかどらなかったが、それでも予定の範疇と言える。

 お盆を過ぎてから、学校がにわかに賑わいだしたように感じる。文化祭までの残り日数が減るほどに、これは顕著になるだろう。

「あっ、高梨!」

 階段を落ちるように降りてきて、廊下の向こうへ行こうとした友人の背中に声をかける。彼は滑るようにブレーキをかけて立ち止まる。

「おお、中原」

「そんなに走ったら危ないよ」

「先生かよ」

 高梨はうえっという顔をする。「オレってば今超大変だから」

「生徒会だっけ。意外よね、あんたがそういうの」

「ま、押し付けられたんだけどな」

「そういえばあんたのクラス、なにするの?」

「ん? ああ、まあ当日のお楽しみってことで」

 お楽しみときた。ますます嫌な予感が強くなる。

「あっそう、それならそれでいいけどさ。あいつは?」

「今日は……教室じゃない?」

「そう。ありがと」

 お礼を述べると、高梨はてってこ廊下を走っていく。



 三年七組を覗くと三つほどのグループに分かれて作業をしていた。黒板にチョークで線を引き、あれこれと話すグループ。大量の段ボールを開き、穴のあいた部分を切り取るグループ。それをさらに加工し着色するグループ。

 修一は最初のグループに属していた。

「修ちゃん」

 入口から声をかける。黒沢は中原のほうを見ると、手でクラスメイトに断って廊下へ出てきた。

「どうした」

「ちょっといい?」

「いいけど」

 二人は食堂のほうへと移動した。日陰であっても屋外は蒸し暑い。

 黒沢は自販機でグレープジュースとコーヒーを買い、グレープジュースを千佳に差し出してくる。好物を覚えてもらっていたことに、中原は笑みをこぼした。

 お礼を言って受け取る。財布を出そうとするのを、黒沢が手のひらを見せて制するので、並んでベンチに腰かけた。

 引いていた汗がまた出てくる。

 どうして外なのだろう、と千佳は首を傾げた。そういえばセミの声はじわじわと少なくなってきたな。暑さではわからない季節の移ろいを実感する。考えてもみれば八月はじめに立秋だ。セミは人間よりもよほど風情というものを理解している。

 グレープジュースを飲むと、ほのかな甘さが口に広がって、食道をひんやり冷やしながら滑り落ちていく。

「飲んだな?」

 黒沢の言葉に、中原は思いきりは噎せた。噴き出したグレープジュースに一瞬、虹がかかる。

「はぁ? 修ちゃんがお金断ったんでしょ?」

「俺は手をかざしただけ」

「ずっるい! じゃあ今からだって払うわよ」

「まあ、さすがに冗談だけどさ」

 黒沢は自分のコーヒーを飲む。「保険、くらいにはカウントしてる」

「保険?」

 嫌な予感が、また増した。何か陰謀に巻き込まれそう。「七組って何やるの?」

 先ほどの光景からして、相当数の段ボールを必要としていることはわかる。千佳のクラスでは背景と小道具に使うだけだ。

「迷路だよ」

 高梨が気を持たせたわりに、黒沢はあっさりと答えた。

「迷路? ああ、だからあんなに使うんだ」

「そう。あれだって、まだ足りない。最悪の場合、学校にあるものをちょこちょこっと拝借することになっちゃうな」

「……拝借ってね、ちゃんと許可取らなきゃダメよ?」

「わかってるよ、姉ちゃんかおまえは」

「で、保険って?」

「誠が逃げた場合?」

 遠野が逃げる場合を想定しているあたり、やっぱりただ迷路をするだけではないな、とこめかみが痛くなった。

「遠野が修ちゃんたちを手伝うの? 想像できない」

「あれで案外バカなところあるから」

 バカという単語と遠野が結びつかなかった。かわりに、もっと重大なことと遠野を結びつける。

「あ、そうだ。遠野だ」

「この前訊いたら、好きな人はいないって言ってた」

「えー……」

 嬉しいような、悲しいような。中原は唐突に突きつけられた事実に気持ちが攪拌される。

「いたら良かったのか?」

「それはそれで、なんか怖いけど」

「けっ、面倒な女」

「あのね、人は恋をすると面倒な生き物になるの。そうならないのはバカだけよ」

「そのバカってのはまさか俺か?」

「よくわかってるじゃない」

 黒沢はオーバーな動きでそっぽを向いた。汗ばんだ腕が触れる。いやではない。ほんの少しだけ、胸が高鳴る。

 彼はそのままぼんやりと、グラウンドを見つめている。大会が近いらしいサッカー部が練習に励んでいた。

 中原は前傾するように、黒沢の横顔を盗み見た。郷愁をたたえた彼の瞳が、陽炎のように揺れている。

「ごめんね」

 中原もグラウンドに視線を移した。

「なにが」

「修ちゃん、陸上続けたかったでしょ」

「別に千佳のせいじゃないだろ。それに千佳だって」

「そうだけど、きっかけではあるでしょ」

「まあ……いや、どっちにしたって、走るだけの部活に青春かけるなんて馬鹿げてる。ただ――」

 しばらく待った。次の言葉はない。生き残ったセミが唐突に声を上げた。自然とそちらに視線が動いた。木漏れ日がキラキラと飛び込んでくる。



 高校生活の第一日目。入学式の翌日の登校中、中原は満開の桜をすかして見る太陽に、そういうキラキラした三年間を想像した。

 けれど、予感はほんの数時間で裏切られることになった。

「あなた中原でしょ」

 意地悪そうな目をした女に声をかけられた。後ろには無駄に体格の良い男が控えている。こういう場合、大体まともな用件ではない。

「そうだけど、どちら様?」

 彼女の表情がきっと険しくなる。

「覚えてないわけ?」

 話を聞くと、どうやら中学時代のバスケ部で対戦したことのある子だった。負けたけど卑怯だったの、そのせいで友達とケンカしただの、要するに逆恨みである。心底面倒になる。

 半年も前のことを持ち出して、しかも虎の威を借る狐ということわざの具体例のような状況で、何を言いたいのだろう。

「それは――」

「それは逆恨みだろ」

 言葉を奪うように黒沢の声がした。三人ともがそちらを見る。「試合に負けたのはおまえらが弱かったからだし、友達とケンカになったのはおまえの性格が悪いからだろ」

 そこまでは思っていないぞ、と中原は黒沢を睨んだ。

「なに、あんた」

「このクラスの者です。そっちこそ何組だよ」

 挑発するような声音に、後ろに控えていた男が黒沢との距離を詰める。

「関係ねえ奴はすっこんでろよ」

「じゃあおまえは関係者なの?」

「ちょっと……」

 黒沢を止めようと立ち上がり、笑顔とも威嚇ともつかない、にやついた口元が目に入った。諦めて一、二歩距離をとる。

「良子の彼氏だけど。文句あんの?」

 また一歩、男が距離を詰めた。もう踏み込めば肘だって当たるだろう。黒沢は相手を落ち着かせるように両手の平を相手にむける。

「文句はないけどさ。男だって言うんなら、こういうのやめさせたら?」

「あ?」

「ガキっぽいって言ってんの。いや、女々しいかな。ケンカのやりかた、知らないのか?」

「ンだとッ!」

 男が叫んで右拳を振りかぶる。教室の隅で上がりかけた悲鳴が、たぶん最初から狙っていた黒沢の左ストレートで途絶えた。

 駆けつけた教師に連れて行かれた黒沢は、そのまま二週間の停学を命じられた。入学初日という間の悪さと、相手の鼻が折れていたせいだろうと中原は思っている。

 見せしめの停学明けには仮入部期間が終わっていて、黒沢は陸上部に足を運ぼうとはしなかった。

「俺、足速くないし。負けるために走るなんてまっぴらだよ」

 そうは言っていたが、時折グラウンドを寂しげに眺めていたのを中原はよく覚えている。彼女もまた、バスケ部には入らなかった。ああいう女と一緒に部活をして、楽しめる気がしなかったからだ。

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