飲んだな?
「すみませーん」
中原千佳はサービスカウンターの女性店員の背中に声をかけた。女性とわかるのは髪形と制服のおかげで、まるで関取みたいに横幅があった。
「はぁい」
見た目からは想像もつかない可愛い声で振り返るので、中原は思わず笑い出しそうになるのを、唇の裏を噛んで我慢した。
「いつもそこにある段ボールって今日はないんですか?」
地元スーパーの出入り口にはキャスターつきのラックがあって、ご自由にお持ち下さいと段ボールが置いてあるのだが、今日は、いや数日前に来たときも、それが見当たらない。
「ああそれねぇ、少し前に男の子が持って行ったのよ」
近隣の高校はほとんど、夏休み明けに文化祭がある。それに加えて小中学生の夏休みの工作にも活躍するだろうが「男の子」と聞いたとき、直感が働いた。
「そうですか、ありがとうございます」
中原は頭を下げてスーパーを後にする。
この手の嫌な予感もずいぶん久しぶりな気がした。これといった確証はなかったが、中原は確信的に思う。
修ちゃんたちの仕業だ。
文化祭なのである。段ボールだって必要だろう。しかし付き合いの長さのせいか胸騒ぎがする。
学校へ向かう前に黒沢家に寄ってみたが、すでに家を出た後だった。
汗をかかないようにゆっくり自転車を漕いだが、学校に辿り着いた頃にはすっかり汗水漬く、炎天下にさらされるのも考え物だな、と額を拭う。
中原の所属する五組は演劇をする予定だった。道具係の彼女にとっては夏休みが本番のようなもので、その夏休みもあと一週間ほどしかない。受験勉強は思ったよりもはかどらなかったが、それでも予定の範疇と言える。
お盆を過ぎてから、学校がにわかに賑わいだしたように感じる。文化祭までの残り日数が減るほどに、これは顕著になるだろう。
「あっ、高梨!」
階段を落ちるように降りてきて、廊下の向こうへ行こうとした友人の背中に声をかける。彼は滑るようにブレーキをかけて立ち止まる。
「おお、中原」
「そんなに走ったら危ないよ」
「先生かよ」
高梨はうえっという顔をする。「オレってば今超大変だから」
「生徒会だっけ。意外よね、あんたがそういうの」
「ま、押し付けられたんだけどな」
「そういえばあんたのクラス、なにするの?」
「ん? ああ、まあ当日のお楽しみってことで」
お楽しみときた。ますます嫌な予感が強くなる。
「あっそう、それならそれでいいけどさ。あいつは?」
「今日は……教室じゃない?」
「そう。ありがと」
お礼を述べると、高梨はてってこ廊下を走っていく。
三年七組を覗くと三つほどのグループに分かれて作業をしていた。黒板にチョークで線を引き、あれこれと話すグループ。大量の段ボールを開き、穴のあいた部分を切り取るグループ。それをさらに加工し着色するグループ。
修一は最初のグループに属していた。
「修ちゃん」
入口から声をかける。黒沢は中原のほうを見ると、手でクラスメイトに断って廊下へ出てきた。
「どうした」
「ちょっといい?」
「いいけど」
二人は食堂のほうへと移動した。日陰であっても屋外は蒸し暑い。
黒沢は自販機でグレープジュースとコーヒーを買い、グレープジュースを千佳に差し出してくる。好物を覚えてもらっていたことに、中原は笑みをこぼした。
お礼を言って受け取る。財布を出そうとするのを、黒沢が手のひらを見せて制するので、並んでベンチに腰かけた。
引いていた汗がまた出てくる。
どうして外なのだろう、と千佳は首を傾げた。そういえばセミの声はじわじわと少なくなってきたな。暑さではわからない季節の移ろいを実感する。考えてもみれば八月はじめに立秋だ。セミは人間よりもよほど風情というものを理解している。
グレープジュースを飲むと、ほのかな甘さが口に広がって、食道をひんやり冷やしながら滑り落ちていく。
「飲んだな?」
黒沢の言葉に、中原は思いきりは噎せた。噴き出したグレープジュースに一瞬、虹がかかる。
「はぁ? 修ちゃんがお金断ったんでしょ?」
「俺は手をかざしただけ」
「ずっるい! じゃあ今からだって払うわよ」
「まあ、さすがに冗談だけどさ」
黒沢は自分のコーヒーを飲む。「保険、くらいにはカウントしてる」
「保険?」
嫌な予感が、また増した。何か陰謀に巻き込まれそう。「七組って何やるの?」
先ほどの光景からして、相当数の段ボールを必要としていることはわかる。千佳のクラスでは背景と小道具に使うだけだ。
「迷路だよ」
高梨が気を持たせたわりに、黒沢はあっさりと答えた。
「迷路? ああ、だからあんなに使うんだ」
「そう。あれだって、まだ足りない。最悪の場合、学校にあるものをちょこちょこっと拝借することになっちゃうな」
「……拝借ってね、ちゃんと許可取らなきゃダメよ?」
「わかってるよ、姉ちゃんかおまえは」
「で、保険って?」
「誠が逃げた場合?」
遠野が逃げる場合を想定しているあたり、やっぱりただ迷路をするだけではないな、とこめかみが痛くなった。
「遠野が修ちゃんたちを手伝うの? 想像できない」
「あれで案外バカなところあるから」
バカという単語と遠野が結びつかなかった。かわりに、もっと重大なことと遠野を結びつける。
「あ、そうだ。遠野だ」
「この前訊いたら、好きな人はいないって言ってた」
「えー……」
嬉しいような、悲しいような。中原は唐突に突きつけられた事実に気持ちが攪拌される。
「いたら良かったのか?」
「それはそれで、なんか怖いけど」
「けっ、面倒な女」
「あのね、人は恋をすると面倒な生き物になるの。そうならないのはバカだけよ」
「そのバカってのはまさか俺か?」
「よくわかってるじゃない」
黒沢はオーバーな動きでそっぽを向いた。汗ばんだ腕が触れる。いやではない。ほんの少しだけ、胸が高鳴る。
彼はそのままぼんやりと、グラウンドを見つめている。大会が近いらしいサッカー部が練習に励んでいた。
中原は前傾するように、黒沢の横顔を盗み見た。郷愁をたたえた彼の瞳が、陽炎のように揺れている。
「ごめんね」
中原もグラウンドに視線を移した。
「なにが」
「修ちゃん、陸上続けたかったでしょ」
「別に千佳のせいじゃないだろ。それに千佳だって」
「そうだけど、きっかけではあるでしょ」
「まあ……いや、どっちにしたって、走るだけの部活に青春かけるなんて馬鹿げてる。ただ――」
しばらく待った。次の言葉はない。生き残ったセミが唐突に声を上げた。自然とそちらに視線が動いた。木漏れ日がキラキラと飛び込んでくる。
高校生活の第一日目。入学式の翌日の登校中、中原は満開の桜をすかして見る太陽に、そういうキラキラした三年間を想像した。
けれど、予感はほんの数時間で裏切られることになった。
「あなた中原でしょ」
意地悪そうな目をした女に声をかけられた。後ろには無駄に体格の良い男が控えている。こういう場合、大体まともな用件ではない。
「そうだけど、どちら様?」
彼女の表情がきっと険しくなる。
「覚えてないわけ?」
話を聞くと、どうやら中学時代のバスケ部で対戦したことのある子だった。負けたけど卑怯だったの、そのせいで友達とケンカしただの、要するに逆恨みである。心底面倒になる。
半年も前のことを持ち出して、しかも虎の威を借る狐ということわざの具体例のような状況で、何を言いたいのだろう。
「それは――」
「それは逆恨みだろ」
言葉を奪うように黒沢の声がした。三人ともがそちらを見る。「試合に負けたのはおまえらが弱かったからだし、友達とケンカになったのはおまえの性格が悪いからだろ」
そこまでは思っていないぞ、と中原は黒沢を睨んだ。
「なに、あんた」
「このクラスの者です。そっちこそ何組だよ」
挑発するような声音に、後ろに控えていた男が黒沢との距離を詰める。
「関係ねえ奴はすっこんでろよ」
「じゃあおまえは関係者なの?」
「ちょっと……」
黒沢を止めようと立ち上がり、笑顔とも威嚇ともつかない、にやついた口元が目に入った。諦めて一、二歩距離をとる。
「良子の彼氏だけど。文句あんの?」
また一歩、男が距離を詰めた。もう踏み込めば肘だって当たるだろう。黒沢は相手を落ち着かせるように両手の平を相手にむける。
「文句はないけどさ。男だって言うんなら、こういうのやめさせたら?」
「あ?」
「ガキっぽいって言ってんの。いや、女々しいかな。ケンカのやりかた、知らないのか?」
「ンだとッ!」
男が叫んで右拳を振りかぶる。教室の隅で上がりかけた悲鳴が、たぶん最初から狙っていた黒沢の左ストレートで途絶えた。
駆けつけた教師に連れて行かれた黒沢は、そのまま二週間の停学を命じられた。入学初日という間の悪さと、相手の鼻が折れていたせいだろうと中原は思っている。
見せしめの停学明けには仮入部期間が終わっていて、黒沢は陸上部に足を運ぼうとはしなかった。
「俺、足速くないし。負けるために走るなんてまっぴらだよ」
そうは言っていたが、時折グラウンドを寂しげに眺めていたのを中原はよく覚えている。彼女もまた、バスケ部には入らなかった。ああいう女と一緒に部活をして、楽しめる気がしなかったからだ。




