あんぽんたん
牛乳をコップに注ぎ、流しの前で飲む。リビングと遠野家では呼称するが、いわゆるLDKである。妹の湯上りの湿った髪を見ながら、こいつも受験生だったな、と遠野は考える。
親は子供二人が受験だというのに、これっぽっちも心配をしていない。遠野自身ほとんど不安はなかったし、真理もどうせ大丈夫だろうと思う。「真実」か「真理」の二択だった妹は、どちらの名前になっていても、名前負けしない頭脳をしている。
ああ、そうだ。黒沢だけではない。中学始まって以来の天才と呼ばれた遠野を、この妹は「あんぽんたん」と評する。
事実、遠野が卒業した年には、開校以来の天才の称号は彼女の物になった。
「ねえ」
エンディングに入ったタイミングで真理が話しかけてきた。ソファの背もたれに腕をかけ、その上に頬をのせている。まだ幼さの見え隠れする顔つきだ。
「なに」
「修一さん、彼女に捨てられたの?」
体育祭を思い出す。しかしあれは芝居のようなものだった。
「なにそれ」
「友達に聞いたんだけど、学校で飛び降りしたんでしょ」
「それでなんで振られたってことになるわけ」
「バカなの。理由もなく飛び降りる人なんていないでしょ」
発想が飛躍している。が、この想像力というものが、閃く材料のようにも思えた。
「あ、お兄ちゃん。わたしも何か飲む」
図々しくも飲み物を要求する真理に、遠野はコーラを入れてやり、自分の分も手にソファに座った。
「飛び降りたっていうか、飛び込みだ」
「度胸試し?」
真理は眉をひそめて首をかしげる。そういう仕草が母親そっくりだった。容貌からして母親の少女時代にそっくりだった。遠野自身も母に似ていて、父はどんな気持ちなのだろうと時々思う。
「知らない。だいたいあいつが女と振られたらどうだっていうんだ」
「わたしが慰めてあげようと思って」
ああ、そうだ。遠野は頭をかく。
最後に黒沢が遠野家に遊びに来たのが一年も前だからすっかり忘れていたが、真理は彼のことをいたく気に入っていた。何が彼女の琴線に触れたのか、遠野はいまだ知らないが、やけに二人の話が盛り上がっていたのだけは覚えている。
「おまえ、まだ中学生だろ」
「来年には高校生だもん」
「そのころ俺たちは大学生」
黒沢が合格すれば、の話だが。
「三年後にはみんな大学生じゃない。誤差だよ、そんなの」
すぐに社会人だと反論しようと思ったが、そうすると、その先四十年近く同じ立場になる。誤差という真理の言葉を裏付けてしまう。
最初に三歳差を誤差と言わなかったのは、会話をここに誘導するためか。自分の負けを悟り遠野は黙った。しかしそもそも中学生だろうが高校生だろうが、大した問題ではない。それなのにどうして自分はむきになるのかと遠野は疑問に思う。
兄妹などそんなものだろうが、それだけではない。答えはすぐに記憶の中で見つかった。最初に黒沢を好きだなどと言い出したとき「お義兄ちゃん」と呼ばれることを想像したのだ。それが嫌だった。絶対に嫌だった。黒沢だって嫌だろうが、面白がって呼んでくるだろう。あれはそういう男だ。
だから妹には悪いが、失恋してもらう予定だった。
「そもそも、なんで修一が良いんだ」
「お兄ちゃんと違うから」
「ま、違うな」
「お兄ちゃんこそ、なんで修一さんと仲良くなったの」
「俺と違うからだ」
「はあ?」
真理が不快そうな顔をした。この賢しい妹に、理解できない表現をしてやったと虚しい勝利を得る。口の端をにいと吊り上げた。
それは元々、黒沢の癖だった。普段は覇気のない顔をして、クラゲみたいにぷかぷか漂う男が、何かに意欲をむけるとき、好戦的な笑みを浮かべた。
たぶんそれが本性だと、遠野は思っている。どういう経緯があるのかは知らないが、目立たない人格の殻で、自分を覆っているのが黒沢修一という男だ。
そもそもの遠野は正反対で、守備的な人間だ。妹との差を感じるようになってからは、技術で勝てる勉強に打ち込み自尊心を保つような男である。そういう自分を守るために、攻撃的な性格を装備したと言って良い。独力で大学受験を乗り切ろうと決めたのだって、そうすることで自分のことを信じたいがためだった。
けれども人は明かさない心のうちなど見はしない。遠野のことを天才と錯誤するように、挑戦的な男だと思われる。それがなお、頭の良い奴は違うのだという評価に繋がっていた。
黒沢と、それから高梨となんとなく仲良くなり、学校にピザの宅配を頼むような下らないことばかりだったが、自分では考えもしないようなことをすることが楽しかった。
憧れではない。参考にしようとした。とりわけ自分と対とに思えた黒沢のことを。
笑い方を真似たの、その一環だった。
しかしやはり性格の違いは如実で、彼の笑みが本性の漏洩だとすれば、遠野は心のうちを悟られないための盾である。
一号館のエントランス近くでばったり黒沢に会ったとき、彼は例の笑みを浮かべた。
「夏休みに学校で何してるの」
「進路指導室」
「誠にそんなの必要なのか?」
「ま、大した用事じゃない」
運動不足の解消と、気分転換がてらだった。
「あっそう」
「修一はもう良いのか」
「なにが」
「学校に来て」
「いいんじゃない? 止められてないし」
しれっと言う。「っていうか夏休みなのに大変だな、受験」
「いや受験はみんなだ」
今の言葉を聞く限り、受験生としての自覚が足りていない。友人の進路に一抹の不安を覚える。
「生徒会室行くんだけど、付き合ってくれよ」
黒沢は顎で方角を示す。
「いいぞ」
並んで歩き出す。
「あっ、そういえばさ、誠って好きな奴いる?」
「なんだ突然。気持ち悪い」
「うん、俺もいきなりだったなって反省してるけど。どうなんだ?」
「いない」
「マジで?」
「嘘なんて言うかよ」
階段を登っていると、上からどたどたと足音が聞こえてきた。踊り場でそれを正面にとらえる。見上げると威圧感の増す分厚い体格は、生徒指導の島田先生だ。
黒沢に気がついた途端、仁王像のように目を剥いた。
「黒沢ぁ、おまえ何ぬけぬけと学校に来とるんだ」
「文化祭の準備ですよ。真面目にやってんだからいいでしょ」
「反省したのか?」
「ええ、まあ。自分の脚で奈良まで行って、大仏に頭下げてきましたから」
「……ふむ」
島田はじっと黒沢の顔を観察する。以前近所で通り魔事件があったとき、刑事が大人たちにむけていた顔とまるで同じだった。
「だいたい先生こそいいんですか? パチンコ通い、生徒にバレてますよ」
「うっ」
決まりが悪そうに顔を歪める。「あくまでも趣味の範囲だ。問題ないだろう」
「そういえば、なんでパチンコって許されるんですか? あれ、賭博じゃないんですか?」
黒沢がごく自然に話をそらした。
「ふむ……いいか? まずパチンコはただの遊びだ。金で玉を借りて、増やしたり減らしたりして遊ぶ。その結果によって景品を貰える。その中の一部の景品は、高く買い取ってくれる店が、たまたま近所にある……ということだな。換金ではなく買取だということが重要なんだ」
「へー、限りなく黒いグレーですね」
「おまえらは、くれぐれも下手な遊びを覚えるなよ。煙草もだ。やめられんぞ」
島田の言葉は実に実感がこもっていた。指導というよりは、経験者の後悔だ。
そのままやり過ごして三階の廊下を歩く。ようやく修一は全身の力を抜いた。
「怒られ慣れてる」
「まあな。本気で怒ってるなら、俺だって殊勝な態度をとるけどさ」
教師としての立場上、小言を述べるならば話をそらしたほうが早い、ということらしい。
遠野にはおよそ叱られたという経験がない。もちろんほんの小さな頃にはあったはずだが、はっきりと自分の意思で行動するようになってからは、道を踏み違えることはなかった。
真理はその様子を「遊びがないの。車にだってあるのに」と見下すように言う。本当に生意気な妹である。
「そういえば、なんで俺を誘ったの」
生徒会室のドアに手をかけた修一はぴたりと止まる。ゆっくりと遠野のほうを向き、
「なんでだと思う?」
疑問系だが答えを待たずにドアを開けた。生徒会室の面々が、夏休みにもかかわらず雑用に追われていた。
室内はひどく散らかっていて、塗料のにおいが充満していた。木材の破片や、布切れがゴミ袋から零れ落ちている。唯一清潔に保たれているのは、入口わきの電話だけだった。内線電話で、番号一覧が貼り付けてある。校内放送までできるらしい。
来客にも気がつかず、彼らは仕事に没頭していた。文化祭まで一ヶ月という段階になると大忙しのようだ。
「高梨よーう。ちょっとツラ貸せぇ」
助かったとばかりに高梨はさっさと作業を中断して、こちらへ歩いてくる。
場所を移すということは知られたくはない話だろう。そして先ほどの笑みを思い出す。
巻き込まれたことに気付くのが遅すぎた。倦怠感と期待感がない交ぜになって胸中に渦巻いた。
○




