遠野誠は閃かない
夜の公園は上層を流れる雑踏と、足元を這うように漂う虫の声に満ちていた。昼間にじっくりと熱せられた地表は日が暮れても蒸し暑い。
ベンチに腰かけているだけで肌には汗が滲んでくる。たまに風が吹いてもぬるくて、余計に暑く感じられた。
もう帰ろうかなと思って立ち上がると、狙っていたように小さな影が公園に入ってきた。
「久しぶりですね」
俺の手前で足を止め、内田はフードを取った。
「学校で会ったろ」
「そうだけど。なんか久しぶりだなって思ったから」
部活を途中で抜けたせいで消化不良だという内田に付き合って、軽く身体を動かすことになった。道具もなく二人きり。何ができるだろうと話し合った結果、公園内の丘を使って坂道ダッシュをする。
用意どんの合図で走り出す。不整地に足を取られそうになるが、ぐっとこらえて登っていく。隣を走る内田はグラウンドを走るみたいに滑らかだ。
丘を上まで登りきると、内田の横顔の向こうにはビル街の灯りが見えた。
「この前の記録会で、長居に行ったんですよ」
「第二?」
「うん」
坂を歩いて下りながら話をする。中学時代を思い出して、好きではなかったはずなのに楽しくなる。
「一回だけスタジアムのほう使ったことあるけど、さすがに雰囲気あったなあ」
「中学のとき、黒沢くん、体操服でリレーに出てたことあったでしょ」
「げっ、なんで知ってんの」
丘の下まで来て、また頂上に向けてダッシュする。
「スタンドから見てたから」
「ああ、なるほど」
「あのときから走り方、綺麗だったよね」
「そうかあ? 内田のほうが綺麗だと思うけど」
顔をそらすついでのように、腕を軽く叩かれた。
「もうっ、そんなことないです」
「いやいや。今だって、無駄がないなって思うし。たまに走り方綺麗だって言われるけど、やっぱりドタドタしてるんだよ、俺」
「そうかな」
「うん」
下りきって、また登る。そういえばこれ何本やるんだろう。すでに汗が軽快に流れている。息が荒かった。
「足からの衝撃が伝わってくるっていうか、音が大きいんだよ、わりと。だから疲れるんだろうけど」
音が大きいということは、それだけ無駄な力がかかっているということである。
「あ、たしかにちょっとダイナミックかも」
「物は言いようだなあ」
「そういえばそのころ、一度話したことあるんだけど、覚えてる?」
「え、中学のとき?」
そんなことあっただろうか。記憶をじっくりと探ってみるが、ちっとも思い当たらない。「あったか?」
「あったよ。あのときは黒沢くん、私より小さかったんですよ。それがなに? いつの間にそんなに大きくなったの」
「中二の夏休み明けに、茅野……ああ、部活の友達に『いつ伸びたんだ』って蹴りいれられたから、そのとき」
少し休んでから、また斜面を駆け上る。しんどいからやめようとは、恥ずかしくて口にできそうにない。
一通り俺の成長期への文句を述べると満足したのか、いきなり話題が飛んだ。
「文化祭、迷路やるんだね」
「え? ああ、内田が来れないときに決めて悪かったな」
「それはいいんですけど。子供のころに行ったことあるなって」
「迷路?」
「うん。牧場だったかな、遊園地だったかな。覚えてないけど、花火大会に行くついでに、そこで遊んだの」
「それ、俺も行ったことあるかもしれない」
さてどこだったか。記憶があまりにも曖昧としていて、正確なことが思い出せない。
また一本走って、いよいよ肩で息を始めてしまう。「どこだったかなあ」と、内田は余裕そうだった。俺の行ったものと、彼女の言うものが同じであるとは限らないので、さっさと話を促すことにした。
「それがどうしたの」
「どうってことはないんだけどね。ほら、文化祭のって……地味でしょう」
「まあ、パッとしないよなあ」
「あれは何が面白かったんだろうって。子供だったからかな」
それは大いにあるだろう。しかし、なんだろうな。さすが商売というだけあって、かなり大掛かりで、とても文化祭では真似できない。高低差が結構あったりして、机のトンネルを……机? なぜかブルーシートと、板張りの二つの映像が脳内に浮かぶ。一度ではない。小学校のとき、もっとチープな迷路があったはずで……そう、宿泊行事で……。
坂道を駆け上がる。一瞬、頭が真っ白になる。反復が無意識に身体を動かして、登りきったところで、内田を見る。街灯りを背にした内田が、いつもより大人っぽく見えるのはなぜだろう。彼女の前髪の先から汗の雫が一滴、宙にきらめいた。
まったく突然に、全景が浮かんでくる。泡のようなそれを壊さないように、俺は頭を回転させる。
「黒沢くん?」
心配そうな内田の声にも俺は反応できない。理屈は、言葉は、すべて後からついてくる。脳内のイメージに具体性を持たせる作業。にやけるのが自分でもわかった。
「悪い内田。ちょっと考えることができたから、今日は帰るよ」
「どうしたの?」
自分でも説明できない。まとまる前に口に出すと、そのそばから消えてしまう気がして話す気になれなかった。
インスピレーションは流星のようなきらめきだ。
○
遠野誠は閃かない。
したがって天才ではない。すくなくとも本人はそう認識している。
遠野の図抜けた成績だけを知る同級生には天才だのなんだのと持て囃されるが、遠野にしてみればそれは嫌味と僻みと妬みである。
例えば数学。遠野はこれをダンスのようだと考える。計算という基礎があり、公式や定理という基本の動きがあって、それらを組み合わせることで実際の行為となる。そして問題をスムーズに解くとき、不思議と頭の中にリズムが生まれる。ダンスなど盆踊り以来したことがないが、一度踊っただけでは身につかず、反復することで身体が覚えるという点でも一致するだろう。
例えば英語。母国語と同じだけの単語を覚えれば、自然と文章は理解できるはずだと考える。文型はどれだけ長くなろうともすべて同じ規則があり、基本さえおさえておけばあとは読むだけ。
例えば歴史。理解することが最短である。教科書は最低でも章ごとに通して読み、物語として頭に入れる。そうすれば自然と時系列は把握できるので、年号や名詞はすんなりと頭に入る。遠野にしてみれば、まったく無意味な単語として暗記している人間のほうがよほど頭が良く思えた。
誰かに教えられたわけではない。聞いたことを素直に試し、あるいは自ら考え、もっとも自分にあった勉強方法を身につけて、目標を定めて着実に前進する。それだけのことだった。
人はこの過程を見ない。現状だけを認識して評価する。自分と同じはずの人間が、自分とそう違わない努力で、しかしまったく違う成果をあげる。あれは天才だからと自分を正当化するのだ。あるいは本気でそう思っているのかもしれないが。
遠野は万事がこのように、理屈によってできている。閃くということは、思考の過程を省略して結論を得るようなもので、それこそ天才的な発想だ。
それを一番正しく評価しているのは黒沢だろう、と遠野は思う。彼の言う「秀才」が自分にはもっとも馴染んだ。
集中力が切れてきた。余計なことを考え始めている。
椅子の上でぐっと伸びをして肩周りの筋肉をほぐす。正しい姿勢を取ることで、脳への血流が良くなると聞いてから、意識して姿勢を良くしている。慣れると疲れないものだ。
手慰みに消しゴムを左手に取り、右手に持ち替えるふりをして左手に握りこむ。黒沢に教えてもらった手品だが、これだって間の工程を抜いて見せることで手品になるわけだ。
たぶん閃く人間にだって、本人の気付かない道筋があるわけで、彼らは自分さえ騙す手品師なのだ。
時計を見る。十一時を回っていた。勉強法は数あるが、遠野の信条は「腹八分目」である。
小説を読むときもそうだが、キリ良く終わったりせずに、わざと章の途中まで読む。そうすることで、早く読みたいという欲求が生まれる。勉強にしても同じで、少しやり残したなと思っているほうが、翌日さっと机に向かえる。
今日はこれで終わりと決めると喉が乾いてきた。何か飲もうと思い部屋を出る。暗い廊下に、磨りガラスから漏れる、リビングの光が落ちている。
「真理か」
ソファに座ってアニメを見ていた。横目でちらっと兄を確認しただけで返事も挨拶もない。




