伊能忠敬かおまえ
「ほい、お茶」
俺の差し出したペットボトルを、ホームレスのおっちゃんは疑わしげな目つきで見、同じような顔を俺に向けた。
「こんなに暑いのに差し入れがラーメンってのもアレかなって」
「まあ、貰えるもんはありがたくもらうけどな」
おっちゃんはペットボトルを受け取ると、飲もうとはせず、蓋のところ親指で撫でた。
元が色黒な彼の肌は夏の日に灼けて、炭化していた。
「ほんで、今度は何の用や?」
「すぐじゃないけど、リヤカーまた貸してくれないかなって」
「そうか……」
呟いたきり、ペットボトルに視線を落として止まってしまう。何かを言おうとこちらをうかがい、気力をそがれたようにまた視線を戻す。
以前にも内田がこういうふうにしていたことがあった。背丈の小さな女の子がやると、可愛いものだったがけど、いい大人がやるとなかなか不気味だった。
「おっちゃん?」
「ん……? ああ、ええよ。そんときまた来いや」
おっちゃんは最後まで乙女みたいもじもじしていた。
それはそれとして、である。迷路と決めたがこれでいいのかとか、おっちゃんの不気味な態度の理由とか、いろいろと考えたいことはあるのだけれど、である。
受験のことを考えなければならないのが、受験生の辛いところだ。
春先に学校で参加者を募っていたセンター模試があるということで、俺は朝から電車に揺られて大学へと足を運んだ。
キャンパス内はやけに緑化がすすんでおり、どことなくオシャレな建物が点々と配置されている。高校までとは根本的にあり方が違っていた。
来年、こういう場所に通っている自分が想像できなかった。俺は本当に大学生になるのだろうか?
割り当てられた席は窓際だった。ボーっと外を眺めていると、私服姿の人間が動き回っている。このうちの何割が高校生で、どれぐらいが明確に来年の自分を思い描いているのだろう。
不安とは少し違う。もっと漠然とした、それこそ雲を掴むような何かだ。
夏の朝陽をたっぷり吸い込んだ黒い頭の群れに、一つだけすべてを跳ね返すような金髪が混じっていた。しばらく入口のドアを見ていると、予想通りギャル美が現れた。
「げっ、なんでいるのよ」
「学校から応募したんだぞ、そりゃいるよ」
すでに席に着いた人間を見渡しながら、ギャル美は俺の後ろの席についた。
「遠野いないの? なんか意外」
「もっと難しい模試受けるんだと」
「ふうん。なんか嫌味になってないのがむかつく」
げえというふうに表情を崩す。そういうときのほど美人だなと思うのはなぜなのか。
「嫌味になってたら?」
「普通にむかつく」
「気持ちはわからなくもないけど……」
一日がっつりと試験を受けると、どうやら腹が減るらしいことを俺は知った。喉は不思議と渇かない。
自己採点をするまでもなく、散々な結果だった。手ごたえがなさすぎる。問題を解いているという実感さえ湧かない。これは本格的にまずいのは? と、八月になってようやく焦り始める。
しかしそもそも、受験勉強とはいったいなにをするものなのか。
使い切った頭でだらだらと考えながら教室を出る。先に出たらしいギャル美の金髪頭が見えた。
小走りに駆け寄って行き、適当な話をしながら大学を後にする。俺たち共通の話題といえば、学校の、それもクラスに限定されていた。
太陽はすでに建物の向こうに隠れ、辺りには夜の気配がおりていた。通りの先に見えるビルの頭や、雲にはまだ夕暮れが色づいている。そのおかげか、暗いというほどではない。
門を抜けて足を止める。示し合わせたようにギャル美も足を止めた。
「帰んないの?」
不思議そうに小首を傾げる。大人びた彼女にしては子供っぽい仕草だった。
「どうせ駅はいっぱいだしな。ここで時間潰してく。おまえこそ」
「父親が迎えに来てくれるから」
「ああ、なるほど。いいな」
俺たちの脇を通り過ぎて行く連中のうち、三割ほどがどぎつい金髪の主を確認し、そのうち八割方は、ギャル美の目を引く顔立ちを二度見する。
「目立つなあ、ギャル美」
「黒沢ほどじゃ……あ」
ギャル美は口に手を当てて、唇の端を歪ませた。それから俺の顔を横目にして考えこむ。
「大丈夫なの?」
「あ、飛び込みのこと? あれはほら、暑かったから」
「……暑いと飛び込むの?」
「そういうことにしておいて」
「そういうことにしておいてあげる……けど、その後内田には会った?」
「どうして」
「あの子、心配してたよ、あんたのこと」
「マジか」
それは悪いことをしたな。「謝っておかなくちゃなあ」
人の列が途切れがちになったころ、ヘッドライトに照らされて、辺りが暗くなっていることに気がついた。
「あ、お父さんだ」
「ちょうどいいや。俺もそろそろ帰る」
「それじゃ、また学校で」
「おう」
助手席越しに見えたギャル美の父は、短髪でがっしりした体格だが、どことなく優しそうな雰囲気の人だった。ギャル美は母親似なのだ、おそらく。
高梨と共に回収した段ボールは、リヤカーで運搬した。生徒会で忙しく、クラスに貢献できないことを悔やんでいる高梨が、これでもかというほど段ボールを集めてくれた。
作業初日の出席者は会議よりはすくない。高校三年の夏休みに暇を持て余している奴は本来そういないはずだから、どちらかと言えばこうして律儀に来ている連中が間違っているともいえるのだけれど。
高梨の姿は教室にはない。学校には来ているはずで、どこかで生徒会副会長として奔走していることだろう。
「で、どうすんの」
何度言われてもピアスを取らない加藤が訊ねてくる。彼の顔は目から下が、扇形に開いたトランプに隠れている。
「まずはどういう迷路を作るかだな。通路幅と……あ、そもそも箱の大きさ考えないと」
引いたカードはダイヤのKだ。ペア出来ず。
「教室の大きさって、ここと一緒なの?」
「そのはず」
「それじゃあ、測るか」
カードのやり取りに不利を感じたのか、加藤はトランプをその場に伏せて立ち上がる。「おーい、仕事だぞ」
別の場所で盛り上がっていた連中に声をかける。トランプをしまう流れで確認すると、やはり加藤の手にババがあった。
「教室の大きさって誰か知ってる?」
「知るわけないだろ」
「じゃあ測らないといけないのか」
信楽君がそう言いながら、真面目な顔をして筆箱から定規を出してくる。その長さ十五センチと少しである。
「嘘だろ、おまえ」「バカなのか」と非難轟々だった。
「俺にいい考えがある」
体育委員を務める長谷部が、どんと自分の胸を叩いた。「大股に歩いて俺の一歩はだいたい一メートルだ」
「だいたいってなんだ」
「伊能忠敬かおまえ」
「長谷部裕樹だけど」
「知ってるよ」
と、元野球部だとわかる坊主頭がはたかれた。
「そんなんだったら目測でいいじゃねえか」
「道具取ってくる」
俺はため息をついて教室を出た。二号館の廊下を通って体育館の方へと向かう。
屋外に出ると、それだけで汗が出る。校舎関係は白っぽい色が多くて、一歩外へ出た瞬間、反射光で目を開けていられなくなる。逃げるように視線をグラウンドに向けた。
土埃を巻き上げながら、サッカー部が練習をしていた。鈴やんはまだ引退しておらず、あそこにいるはずだった。
真似できないよなあ、と思いながら彼らを眺めつつ、体育用具室へ入った。
室内は薄暗い。入口付近で光がくっきりと線になっている。バットやグローブ、サッカーボール、マット、なぜか畳まである。
背中で汗が玉になるのを感じながら雑多な用具を物色し、目当ての巻尺を見つけて手を伸ばすと、
「こらっ!」
入口からの声に、俺はびくりと手が止まる。




