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走り出したら  作者: 肉団子
3章
43/124

四十にして惑わず

 すぐそばで響いた音に、びくりと肩が跳ね上がった。

 きょろきょろと周囲を見回すと、野球のボールが転がっている。赤い縫い目が踊るように蛇行する。拾いあげると、

「すみませーんッ!」

 イガグリが帽子を取って頭を下げている。投げ返してやった球は、ワンバウンドして彼のミットに収まった。

 おそらく良い当たりが俺の脇をすり抜けて、扉のに直撃したのだろう。まあ真実なんてどうでもいいのだ。俺が無事だったことと、ビビったことが見られていないことが大切だ。

 さて、出し物だ。

 ああいうふうに出てきてしまった以上、ナイスなアイデアを引っさげて帰ったほうが格好良い。

 来場者は正門、つまり一号館側から入校する。その先は自由であるが、金券を購入できるのが一号館から二号館への一階通路脇にある購買部のみであるから、おおむねここを経由して二号館へと入る。

 薄暗い廊下を進むと、左手に二階への階段があって長い廊下が続き、右手には美術室。二号館の東端は全部が特別教室であるから、基本的に毎年使う部活動が決まっている。

 二号館一階から四階までの教室群が、いわば体育祭のメインストリートと言える。十代特有の恥ずかしい青春と、日陰者の部活のあまり理解されない情熱がごちゃごちゃと入り混じる空間だ。

 野外ステージの設置される中庭(体育館前の広場)と、体育館へは二号館から直接向かえるため、三号館への客足はぐっと減る。

 たとえばOB会が毎年出店する定位置が二号館一階にあるわけだが、これを不当だと言ったところで、伝統という暗黙のルールには勝てないだろう。

 人が集まるような企画を考えるか、目につく宣伝をするか……。思わず足を伸ばしたくなるようなことって、あるのだろうか?

 他の学校にない物で言えば、弓道部は珍しかろう。毎年、体験で的当てをさせているので、それに相乗りすることは……できそうもない。

 いっそ人が集まるエントランスで……って、許可は下りないな。

 人通りの多い場所にポスターを出したって、他のものと紛れるだろうし、なにかこう、一目でわかるような……。

 いっそ人通りがないのをいいことに廊下ごと何かに使うというのもありだろうか。いや、茶道部がいたな。

「案外、難しいもんだなあ」

 すっかり袋小路である。教室で繰り広げられているような堂々巡りの会議が、頭の中だけで完結している気分だ。

 そういえば、それで何を思い出しそうな……そう、たぶん小学生のとき……。

 なんだったかな。思い出そうとすればするほど、記憶が混線する。たぶんまったく関係のないなぞなぞが、ふと頭に浮かぶ。五つの道があるけれど、どこにも出口がない洞窟ってなんだ? というものだったか。答えは手袋である。穴あき手袋があるじゃないかというのは野暮だろう。

 直感、だと思う。

 これでいいやという気持ちがぽんと生まれた。けれどもなんと言うべきか、こう……

「捻りがないよなあ」

 完全な独り言を呟いて、扉を開ける。今度は足元をひんやりとした風が這い出て行った。

 教室では相変わらず、にっちもさっちもいかない話し合いが続いている。

「プラネタリウムなんてどうやって作るんだよ」

「ネットがあるだろ」

「調べたってできるとは限らんぞう」

 席には戻らず、教卓で困ったような笑みを貼り付けた高梨のところへ行く。

「なんか、決まった?」

「ん」

 と、黒板を指差す。

 チョークで書かれた文字は「めんどうくさくない」「楽しい」「かぶらない」「あまり時間のかからないもの」とある。

「あのさあ」

 みんなの方に向き直り、教室を見渡す。「外でちょっと考えてたんだけど、迷路ってどう?」

「迷路?」

「どっかやる予定?」

 高梨に確認すると、首を振る。

「覚えてる限りじゃ、オレらが入学してからは一度もねえな」

「どう?」

「迷路か」「迷路ねえ」「うーむ……」「高梨の進路が迷路だよなあ」「てめえもだろ」と、口々に感想が出る。

「迷路って面倒臭くない? 俺、受験勉強とかしたいんだけど」

 と、信楽君が律儀に手を上げて言う。首を傾げた姿は、もうまったくもって信楽焼きの狸そのものだった。

 完全に思いつきで動いていた俺は、はてと考える。迷路を作るとは言っても、何をどうするのだろう。

「えー……まずサイズを決めて、紙に迷路を書くだろ? で、段ボールか何かで仕切っていけば、それで大体作れるとは思うんだけど」

「ああ、なるほど」

 そういえば段ボールを立てる方法はどうしよう? まあ、段ボールの柱を立てれば良いか。

「でもなんか迷路ってパッとしなくない? 人来てくれるかなぁ?」

 こんがり日焼けした清水という女子がダルそうに言う。

 高梨が何かを決意したように、教卓に音を立てて手を置いた。

「じゃあ他にやりたいことあるか? ないんだったら、とりあえずオレらに任せてくれないか。なあに、すぐにナイスな解決策が見つかるって」

 と、俺のほうを見る。

 結果的に、意見を強く主張した俺たちを責任者として、出し物は迷路で進めることになった。俺はそういうつもりでもなかったのに、高梨に巻き込まれたようなものである。

 上手いことアシストしただろ? みたいな顔をして俺に視線をくれる。

 いつまでも少年の面影を残す笑顔に、俺はため息をついた。


           ○


 ため息はそのまま、うめき声に変わった。

 歳を食うと感覚が鈍感になると親父が言っていたのに。陸上部顧問の武内は夏空を見上げた。

 年々暑さにも寒さにも弱くなっている気がする。これが衰えというものか。老化にはまだ早いのだと思えば慰めにもなるが、しかし若い頃の元気がなくなっているのもまた事実である。

 高気圧が列島を占拠しているらしいが、そんなことは知ったことではない。こちとらは近頃、高血圧に悩んでいる。まだ四十代だというのに。

 陸上部の子達はみんな良い子である。素直だし、問題を起こさないし、真面目だし。

 今一番の気がかりは、学校で文化祭の出し物を決めている連中だ……というより、そこに出席しているかもしれない、黒沢修一のことだった。ほんの二週間ほど前に体育館から飛び降りたばかりだった。

 問い詰めても動機を吐かず「はあ」と肯くばかりだった。あれも決して悪い子ではないだろう。担任になってまだ四ヶ月ほどではあるが、教師人生でも指折りに理解できていない相手だった。

 真面目に学校には来るが、これといって熱心にすることもない。時々わけのわからないことをする以外には大きな問題行動は見られない。普通の生徒といえばそうなのだが、それだけとも思えない。

 あとは、そう。去年度の終わり頃から元気のなかった内田麻衣が、このごろは元気を取り戻しつつあるのに、おそらく関係があるだろう。男女の機微に敏いつもりはないが、しかし付き合っているというわけでもなさそうだった。

「先生、お疲れ様です」

 と、一年生の男子が差し入れの飲み物を持ってきた。水とお茶とスポーツ飲料。

 黒沢も中学時代は陸上部だったようだ。うちの部に入っていたら、もう少しはどういう奴か理解してやれたんだろうか。いやしかし、期間がどうのと言っていては、そもそも三年間の付き合いで、人生を左右しかねない教育はできない。吾十有五にして……なんだったかな、四十にして惑わずという部分だけはよく覚えている。

 偉人はすごいのだな、と四十を越えて思うようになった。

 差し出された飲料に伸ばしかけた手を止める。スポーツ飲料は生徒たちに残しておいたほうが良いか。お茶、いや水か? しかし若い頃には考えられなかったが、近頃の子は喜んで水を飲むらしい。

 まったくもって惑ってばかりの四十である。


           ○


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