彼の背中を追っている
夏休みであろうと、登下校は学校指定の衣服であることが推奨されている。私服と制服は半々といったところだった。
出席率は案外良い。担任の武内は記録会に出ているのでいなかった。
生徒会の仕事を終えて高梨が戻ってくると、
「おせえぞ、このタコ!」
と、野次が飛んだ。
「あのな、オレだってあんな雑用よりこっちのほうが大事なの」
ダイジ、というよりはオオゴトである。
締切りをオーバーしてなお、三年七組の出し物は決まっていなかった。こんな会議に過半数が出席できるくらいなら、どこかで妥協案は出なかったのだろうか?
「それじゃあ、文化祭でなにやるかだけど……どこまで決まったっけ?」
「なんも決まってねえだろ」
そう、まったくの白紙なのである。
大きくわけると、舞台、映像、展示、模擬店の四種類があるが、どれをするかさえ未定だというから驚きだ。舞台は終業式の期限をもって自動的に除外される。文化部が飢えたピラニアのごとく空き時間を食い尽くしていくからだ。
映像はまだ空いているかもしれないが、朝一番や夕方などの、人の少ない時間ばかりだろう。模擬店、展示は、もっとも人の集まる二号館はすでに満席になている。
一号館は基本的に控え室扱いなので出店できず、残った三号館は食堂へ向かう人が寄ってくれるが、それにしたって一階だけの話で、空き教室はすでに三階だけだ。奥には茶道部があるので、ついでに寄ってくれることは期待できるかもしれないが。
つまりは、何をするにしても、パッとしないことが約束されたようものである。
お化け屋敷や喫茶店、縁日など、毎年あるような人気の出し物はすでによそのクラスがやることがわかっている。
「どっかと被るなんて絶対嫌だね」
というのが、加藤の主張であった。気持ちはわかる。
「本当にもうステージは空いてないの?」と、質問が飛ぶ。
「ええと、待ってくれよ」
高梨は胸ポケットから生徒手帳を出す。「体育館は全部ダメだな。小体育館と野外ステージなら、まだ取り合いの段階だから割り込めるけど」
「あんな小さなとこで何やれってんだよなあ」
「歌でもうたえば?」
「合唱コンクールじゃねえんだぞ」
「でもうちの学校、合唱コンクールないしいいじゃん」
「良くない良くないありえない。赤信号、みんなで渡れば怖くない、ってイベントを、たった一クラスでやって楽しいもんかよ」
「えー、わたし、歌うの好きだけど」
「カラオケだろ、それ」
めいめい好き好きに言葉を発する。加速度的に声が大きくなるのはこういう場合の常である。
「別にさあ、もう人が来ないってんなら、テキトーな展示物置いといて、それぞれが好きに文化祭楽しめばいいんじゃないの」と、誰かが提案すれば、
「今年で最後なんだよ? せっかくなんだから、思い出に残るようなことをしたいな」と、別の誰かが反論する。
「思い出ならみんな好きに作ればいいじゃん」
「でもそれって寂しくねえ?」
「同窓会したときに、みんなでわいわい話せたほうが良いよね」
「イマドキ、同窓会なんてそんなしないだろ」
「つうか、誰が幹事すんの」
高梨がたまりかねて、手を打ち鳴らした。
「はいっ! ちょっと黙れぇい!」
俺の視界には、苛立たしげに貧乏揺すりをする鈴やんの膝が見えていたので、内心ものすごくほっとする。いつあの上下する膝が机を蹴らないかとひやひやしていた。
「なんだっていいよって奴、いるか?」
ちらほらと手が挙がる。
「じゃあ、これがやりたい、ってのがある奴は?」
誰も手を挙げない。
「なんでも良いわけではないけど、誰かの提案は却下ってことか」
ため息をついて、俺に縋るような視線を送ってくる。「反抗期かね君たち」
つまるところ、便乗したいのだ。
無難に乗り切ることを考えている奴もいるようだけれど、高校三年生という子供と大人の瀬戸際にあって、なにか思い出作りがしたい、しかし音頭をとるような責任者にはなりたくない、というのがおおかたの意見らしい。
気持ちはわからなくはない。失敗したときに残念がる立場でいられることは、一種の保険だから、そのカードを捨ててまでやりたいことがないと、強い主張はできないのだろう。
俺はわざと大きな音をさせて立ち上がる。教室中の意識が俺に向かうのがわかった。
「ちょっと外の空気吸ってくる」
申し訳程度の展示物を放置して、それぞれが文化祭を満喫するという案も、悪くはないと思う。ただしそれを選んだ場合だ。時間切れでやむなく、河原で拾ってきた石に色をつけて、どこかの国ではこういう文化もあるかもしれないみたいな誤魔化しをして、他のことをすれば良かったな、と思いたくはなかった。
ドアを閉めるために振り返って、生暖かい視線が集まっていることに気がついた。
そりゃそうだ。クラスメイトにしてみれば、夏休み前に自殺未遂の疑惑をかけられた男が、また衝動的に外に出て行くのだから。
廊下はひんやりとした空気が漂っている。人気がない分、余計にそう感じるのかもしれない。テニス部が炎天下でプレーをしているのが、窓から見えた。
校舎北側の扉を開けると、むっとした熱気が襲い掛かってくる。
「うわ、あっつう……」
グラウンドには野球部が広がっている。先日、甲子園の府代表が決まった。もちろん我が校ではない。しかも一回戦負けだった。しかし彼らは誇りある一階戦負けだと堂々としたものだった。
どうやら甲子園に出ることになった学校と、九回まで戦い抜いたかららしい。
校舎の陰から一歩踏み出すと、ぎらつく太陽光に目が眩んだ。
○
手庇越しの太陽をながめ、内田麻衣は夏だなと実感する。
夏は好きだ。エアコンの効いた部屋で布団にくるまって眠ると幸せいっぱいになれるから。
ただし秋は涼しくて良く眠れるから好きだし、冬の布団が体温でぽかぽかしてくるのも好きだし、春は心地良く眠れるから好きだ。
「先輩、お待たせしました」
後から後輩が出てくる。身長が高くて、すらっとしている。羨ましいと思うけど、それを口にすると、「ちっちゃくて可愛くておっぱいまで大きいなんて、こっちこそ羨ましいんですけど」と、半ギレで言われてから、思っても言わないことにした。ない物ねだりをするのが、人間というものなのだ。
しかしスポーツをする上では彼女のほうがずっと有利だろう。
公園では子供とセミが声の大きさ比べをしている。身長のせいか、ちょこちょこ子供扱いされるけど、私だって大人になりつつある、と彼らの元気を懐かしむ。
「でもいいんですか? 買い出しなんて」
「うん。本当は引退してるわけだしね。お手伝いくらいしないと」
通りには陸上部だとわかる人間が溢れかえっている。さきほどのスーパーマーケットの中も、ユニフォームやジャージの集団がちらほらといた。
陸上競技場正門前には、一段高い植え込みのような広場がある。内田は通りかかるたび、そこを眺めて思い出に浸る癖があった。
「先輩?」
声をかけられて我に帰る。ちょこちょこと走って、上体だけで振り返る後輩に追いついた。
「何見てたんですか?」
階段をのぼりながら質問された。足元に丸っこく落ちた自分の影を見つめながら返事を考える。照り返しさえ眩しい。
「あそこを定位置にして、相撲をとってる困った人たちがいたんだよ。中学のころの話だけどね」
「見たことあるような、ないような……」
「ちょっとそれを思い出してただけ」
暗い廊下を通ってスタンドに出る。立派な四〇〇メートルトラックがある。やっぱり校庭にも欲しいところだ。
第二コーナーの辺りへと、自然と視線が動いてしまう。
中学生になったばかりのころ、友達に誘われて入った陸上部を内田はいつやめようか、どうやめよう、そればかり考えていた。
運動自体それほど好きでもない。それなのに陸上部ときたら、来る日も来る日も走るだけ。距離を変え、道具を変え、筋トレを交えながら毎日走って、何が楽しいのだろうか。
そのリレーを見たのはいったい、どういう理由だったのか思い出せない。
第二走者のところに一人、体操服の選手がいた。身体が小さくて、下手をすると自分と変わらないのではないかと思うほど。周囲は上級生ばかりなのだろう、一人だけ目立ってしまっていた。
第一走者から受け取ったバトンを持って走る彼は、周囲と比べると、とても遅かった。みるみる後方へと下がる。それでも彼は下を向かず、綺麗なフォームで走っていた。
内田は声にこそ出なかったが、頑張れ、と心の中で声援を送っていた。
せめてあれくらいしっかりと走れるようになってからやめようと思ったのである。
それからずっと、彼の背中を追っている。走るのが楽しくなった。
「黒沢先輩のこと、考えてます?」
いたずらっぽい後輩の声に心臓が止まりそうになる。
「な、なんでそんなこと」
「合宿で寝ぼけてるとき話振ったら黒沢さんの話、してくれたじゃないですかぁ」
記憶にない。何を訊ねられたんだろう。何を言ってしまったんだろう。顔が熱くなるのを太陽のせいにして、思い出せない失態を思い出そうとする。
号砲が鳴り響いた。
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