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走り出したら  作者: 肉団子
2章
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捨てては行けない



 捨てては行けない。

 自転車を漕ぎ漕ぎ、来た道をそのまま逆方向へとひた走る。ほとんど一本道で来られたのは良かった。疲労で注意力が散漫でも、うっかり道を間違えることはない。

 しかし行きよりもペースは遅い。肉体的よりもむしろ精神的な疲労のせいだろうと思う。なぜならこの道の先には家があるだけなのだから。楽しみがないのだ。ただただ自らの撒いた種を回収するような虚しさがある。

 自分のやったことなのだ。自分でケツを拭くしかない。

 あっという間に日が暮れていき、日陰を走る時間が増えてきた。もう長い坂を上る元気はわいてこなくて、俺たちは自転車を押して歩く時間も増えた。

 セミが鳴いていた。

 行きとは違う声。カナカナカナという声はヒグラシのものだ。

 初めて聞いたはずなのに、どこか懐かしい響きがある。本能的に家へ帰らねばならないという気にさせる、物悲しい声だった。

 小さな山の途中だった。左手のガードレールの向こうは林になっていて、光は枝葉に遮られてすでに夜のような雰囲気だ。ヒグラシの声はその向こうから、人を誘うように流れてくる。

 騒々しくはない。風鈴や鈴虫のような涼しさが、そよ風みたいにやってくる。

 ああ……疲れたな……。

 子供のときなんて、日が暮れるころにはくたくたになっていて当たり前だったのに、いつの間に明日のために力を残しておくようになったのだろうか。繰り越されることなどない余力を、どうして頑なに吐き出そうとしなくなったのだろう。

 それもたぶん、大人しく生きようと決めたときからだ。

 ああいう生き方は楽で、上手くやれば死ぬまで一本道で、悩まないから健康にだって良い。

 けれども俺は満たされなかった。何かが欠けているような空虚感。

 本当は――

 俺は最初から、きっと気がついていた。

 それを認めることができなかった。弱さを受け入れることを、俺の男としての意地が拒否していた。男の意地なんだ。父親を知らないから、俺が男であるためには、自分が思い描く男であるしかなかった。高梨に助けを求められた日、職員室へ逃げ込まずに駄菓子屋へ行ったのだって、そちらのほうが男らしいと思ったから意地をはっただけのことだ。

 意地を張らなくたって、俺が男だという事実は揺るがない。それに自分でそれを弱みだと思い続けるのは、いつか言われた「片親の子」だからという嫌味を、自分自身で卑屈に感じているということだろう。

 足が痛い。腿もふくらはぎも、だるくて重い。薄暗くなってきたせいか空腹を思い出した。水分が足りていないのか目がしょぼしょぼする。眠たいのかな。

 疲れているから、もう意地なんて張らない。一人相撲をする意味もない。

 俺は嬉しかったんだ。高梨と悪さをするたび、学校の先生がこれでもかと叱ってくれたこととか、大嫌いだった顧問が構ってくれるのが、俺は嬉しかった。

 父親がいたらこうなのだろうと、虚しい代入をして心の穴を埋めようとしていた。

 光を浴びない植物はもやし化するのだという。

 白くひょろひょろと伸び、一刻も早く日光を得ようとする。生命は自分に必要なのに不足しているものを補おうとするものだ。腹が減ったから飯を食うように、本能的に俺は父性を得ようと努めていた。

 自分が楽しくて、誰かが喜んでくれて、心を慰められて。

 代えを詰めた穴は、結局まだ穴のままだった。

 またしばらく自転車を漕ぎ、長い上り坂を登った先に、一軒のラーメン屋があった。腹に空いたほうの穴は、すぐにでも埋めねばならない。

 立地のせいか中国風の店内は、夕食時にもかかわらず空席が目立った。

 ラーメンと唐揚げを注文した。高梨は炒飯セットである。料理が届くまでの間に、いっぱいにあった水差しを、半分ほど飲んでしまった。心なしか、肌に張りが甦る。

 ふと袖をめくってみると、色が全然違っていた。

「いきなりなのに付き合ってくれてありがとう」

 ラーメンを啜ると、正気を疑うほど素直に言葉が出た。

「で? 満足……」

 高梨は炒飯をかきこみながらこちらを見る。「したみてえだな」

「ま、すっきりはしたかな」

「そりゃよかった」

「俺はこいつだったんだよ」

 と、ラーメンのモヤシを箸でつまんでみせる。

「もやしっ子って感じじゃねえけどな、おまえ。ま、死んだみてえなか顔してたけど」

「そこまでひどくはないだろ」

「いやいや、してたしてた。写真撮っときゃよかった」

 食べ物は掃除機に吸い込まれるように胃袋へと消えていく。とにかく美味しいのだ。何がということはないけれど、麺もスープも油も肉も、何もかもが舌から脳へと伝わるときには、美味さと幸福に変換されている。もしも毎日この気持ちを味わえるのなら、一日一食で生きても良いと思えた。

「じゃ、元気になったところで、文化祭の話をしよう」

「あー、忘れてた」

 唐揚げの油取り紙代わりだろうキャベツまで食べてしまう。「っていうか、俺が行ってない間に決まったんじゃないの」

「いいや。結局決まんなかった」

「決まんなかったって…・・・もう期限切れなんじゃ……」

「そうなんだよ。どうする?」

「……どうもこうも」

 舞台関係は部活動の兼ね合いもあって、期限を過ぎればあまってはいないだろうし、人が一番集まる二号館の教室も、おそらくはすべて埋まっているだろう。

「決まってないってことは、また学校に集まるんだろ?」

「何日だか忘れたけど」

「おい」

「確認したら連絡するって」

 夏休みだというのに、面倒なことになったなあ。俺はコップに入っていた氷を噛み砕きながら考える。しかしまあ、選択肢が減った後のほうが、わがまま共を説得するのは簡単だろう。

 受験勉強のことが頭を掠めるけれども、考えないことにした。だいたい、受験勉強というのは漠然としすぎていて好きではない。何をすれば良いというのか。

 まあ……明確であったとしても、好きではない。言い訳なんだろうな。

 だったら文化祭という学校行事を大義名分として掲げるのは、悪くない。

 たっぷりと休憩をとって店を出る。日はとっぷり暮れていた。

 もうセミの声も絶え、草むらから名前も知らない虫たちの重奏が流れてくる。

 気合を入れなおして坂道を登る。体力を削り取るような熱線も今はなく、熱帯夜を予感させる蒸し暑さだけが淀む空気に漂っていた。

 ラーメン屋から山頂までは案外と距離がなかった。なんとなく見覚えがあるなという看板が目に入った。まさしく、峠は越えたという心持ちで、おそらく最後の休憩をとった。

 自転車をその辺に停めてぶらぶらと歩くと、駐車場らしき広場に出た。

 空を見上げると、満天にはほど遠い、しかしいつもよりずっと多い星空が広がっていた。「山に登ってもこんなもんなんだなあ」

 高梨が俺に倣い顎を上げて、変な声を出す。

「まあ、その分夜景は綺麗だ」

 眼下には大阪の夜景が、光の絨毯が地平まで続いている。夜景をありがたがるくらいなら、星空に感動したいと常々思っているようなひねくれ者だが、苦労してここにいるせいか、今日はこれも悪くないと思えた。

 その中に、ひときわ綺麗な光が瞬いた。

 見間違いだろうかと思って目を凝らしていると、二度三度と光ったそれは花火だと気がついた。そうか、今日は祭りがあったんだ。早めに夏休みをもらったせいか、すっかりカレンダーが頭から抜け落ちていた。

 祭りに花火。実に夏らしい。

「帰るか」

 声をかけると、高梨が「おう」と肯いた。

 自転車のスタンドを蹴り、前輪についたライトをオンにする。電池式もあるそうだが、こちとらはダイナモ式である。

 見える限りでは車がいないことを確認して、自転車を漕ぎ出した。ぐんぐんと加速していく。

 街灯が少ない。道の先がよくわからない。光の街を背負って、木々のシルエットが美しい。複雑な町並みがゆったりと流れている。赤い光がまたひとつ花開く。

 よそ見をしている場合ではないと、正面を向きなおる。カーブがあるのはわかったが、暗くて距離感がつかめない。

 不思議な高揚感が俺を支配する。自然と笑顔になる。

 速度による興奮。風を切り裂く快感。けれどもそれが目的ではない。家に帰りつくという目的のために、ちょっとばかりの危険を伴う方法を選んでいる。それがなぜだか楽しいのである。

 発電機がうなりを上げて、見たことのないような明るさで道を照らしている。

 身を低くして備える。

 カーブはすぐそこだった。

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