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走り出したら  作者: 肉団子
2章
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手段と目的

 体中の水分が、汗になってしまった気がする。血液はどろどろに煮詰まっているのではないか。ペットボトルに入れてきたお茶はすっかりぬるくなっている。飲むべきか、飲まざるべきか。次の休憩まで我慢しようと決意する。

 背の高い建物はほとんどない。それどころかしばらくは歩道さえなく、自動車道の隅っこを走り続けるほかなかった。ようやく歩道と巡り会え、またいくらか進むとようやくビルが連なり始めた。

 奈良の地理になど詳しくないが、ざっと一三〇〇年ほど奈良に鎮座し続ける大仏は、奈良の中心街近くの東大寺のはずだ。ことの順序を考えれば、そこを中心に発展したと考えるべきだろうか? ともかく、ゴールが近いのだという安心感がどっと疲労を思い出させた。けれども同時に、身体を動かすエネルギーも与えてくれた。

 ゆるい上り坂をのぼっていくと、目に映る緑の量がぐっと増えた。やがて右手に芝生が広がる。右手から奥に延び、そこから左手へと広がっていくのは、奈良公園だ。どこかに鹿がいやしないかと目を凝らす。案外いないもんだなと思って正面に視線を戻すと、路上にいた。当たり前のようにいた。そっちにいるのかよ。

 適当な場所に自転車を停めて、観光客に混じる。幸いに今日は暑くて、俺たちだけが汗だくというわけではない。

 池のほとりに腰かけて、お茶休憩をとる。観光するにも体力を回復せる必要があった。靴を脱ぐと、拘束感と熱気が風にさらわれていく。こもった体温と湿気で靴の中は特別熱かった。

「……奈良だな、ここ」

 高梨が今さら実感したように言う。とはいえ、俺もようやく、ここが本当に奈良なのだと安心している。

「昔、遠足で来たよな?」

「あー、あったかもしんねえ。オレは大仏より鹿のが嬉しかったなー」

 と、両手を投げ出して寝転がる。俺はぼーっと水面を見つめた。

 高梨に巻き込まれて始まった愉快な日々は、あの応接室に終わったのだ。

 あんなに腹が立っていたはずなのに、すっかり記憶から抜け落ちていた。というよりは、あんまり腹が立ったから、結果だけを残して原因を忘れたのだろう。俺は翌日から、特に何かを始めたわけではない。ただ目立たず、騒がず、大人しく生きることに努めだした。

 学校に通ってさえいれば文句は言われない。問題を起こさなければ余計なことを言われない。手のかからない良い子に俺はなった。

 なろうなろうとしているうちに、どうしてそうなったのかを忘れ、自然体でそうできるようになった。

 気にするのはいつも人の目で、どう見られているかばかり考えた。誰の目にもつかない一番の方法は埋没することだった。木を隠すなら森である。目には入っても意識はされない透明人間。

 集団の中に埋もれて、流れに身を任せて生きるのは案外楽なものだった。

 どっちが良いということはない。どちらも俺なのだ。楽しいことをしたい部分と、他人から干渉されたくない部分。どちらが優勢だったかという話で、誰だってそうして大人になっていくのだろう。個性という突起が、他人とぶつかるうちに邪魔に思えてきて、削れて丸くなる。

 だから大人はみんなして同じことばかり言うんだなと、一人納得する。

 立ち上がって、尻を払う。

「それじゃ、そろそろ行こうぜ。干からびちゃう」

 高梨が座ったまま、池を指さした。

「水なら腐るほどあるぞぉ」

「冗談言ってないで行くぞ」

 と、つま先でつつく。

 さすがは観光地だけあって、奥へ進むほどに人が増えていく。同じくらいに鹿が増えていく。現代日本において人間と同程度のサイズを持つ野生動物が当たり前のように闊歩しているのはこの近辺だけなのではと思われる。

 人の流れに従っていけば、やがて南大門が見えてくる。

 門というにはあまりに荘厳な建築物だ。高さは二〇メートルを越えているだろう。戸は三つで、空間を三分割するように立派な柱がそびえている。来歴や詳細なことはまったくわからない。誠に電話でもかければ、教科書かという答えをくれそうだけれど、別に知りたくはない。

 門の中(という表現も不思議だが)の左右には、教科書で見たことのある巨人が立っている。金剛力士像だったか。彼らを見上げて視線を上へ向けると、天井の高さに、アホみたいな声が漏れる。

 歴史も規模もスケールが圧倒的に大きい。小学校のころにも来たはずなのに、まるで初めて見るような感動を覚える。実際、きちんと見るのは初めてなのだろう。

 中門は門のくせに通れない。回廊が左右両方向に延びており、左手側が入口になっているらしい。

 そうしてようやく見えてくる大仏殿は、これまた大きい。もしかすると奈良時代の人間は恐竜みたいなサイズをしていたのではないかと疑ってしまう。

 建物の中に一歩足を踏み入れると寒気がゾッと身体を包む。千年に亘って人々を睥睨する大仏の威光かと思いかけるが、何のことはない、たぶん冷房が効いているのだ。

 大仏はどっしりと座っている。パンチパーマみたいな螺髪、左手を膝にのせて掌を天に向け、右手はそっとこちらに向け、両の中指をちょこんと曲げている。教科書やテレビで見た姿そのままだった。

「でっけえな……」

「校舎くらいあるな……」

 二〇メートルはあろうかという大仏をまるっと収める空間は広く、立派な柱がいくつも並び、天井を支えている。

「オレよお、不思議なんだけど、なんでこんなでっけえの?」

「大仏?」

「ほら、小学校んときかな、どうやって作ったか、みたいな図あったろ。アレ見たときから思ってたんだよ、なんでこんなことしたんだろって。大きさコンテストでもあったのか?」

「いや、たしか、大きいほど良いって風潮があったんだと」

「ちんこみたいなもんか?」

「あー、おまえ、罰あったって死ぬわー」

「……怖いこと言うなよぉ」

 見上げる大仏は、しかし当然ながら微動だにしない。表情ひとつ変えない。十数世紀言われ続けたのだろう。仏の顔も三度までだが、三千も三万も越えてしまうと、どうでもよくなってくるのかもしれない。

「それこそ教科書に載ってなかったか? 疫病か何かが大流行してさ、もう大変だから神様仏様って、これ作ったって」

「ほー」

 大仏の裏手にも、また別の仏像がある。価値のわからない人間ではあるが、どうせあれもこれも国宝だったりするのだ。

「だからそういう、大きくするのは信仰の手段であって、目的ではなかったわけだな。たぶん」

「なるほど、すっきりした。でもさ、だったら余計にこんな馬鹿でかい物作るくらいならやることあったんじゃないの?」

「おまえは本当、たまーにちょっとだけ頭良くなるな」

「え、そう?」

「ちょっとだけな? でもまあ、それは今の常識だからだろ。感覚が違うんだよ」

 当時の最善が、大仏の建立だったのだ。まさしく命がけで作り上げられたのだろう。のんきに大きいな、巨人だったのかなと言っている場合ではない。



 そうだ――手段と目的だ。

 若草山の中腹で、奈良の町並みを見下ろしたとき、まったく突然、腑に落ちた。

 大仏が大きいのは信仰の手段であり、大きくなることが目的ではなかった。俺だってそうだ。問題をし起こすことが目的だったわけではない。それは手段なのだ。誰かと、そしてなにより、自分が楽しいと思えることがしたくて、無意味なことにも全力だった。

 俺はただ、その行為だけを再現しようとしていたのではないか。

 いや、違う。もっと根本的な問題。かつてそうしていた自分、それになることが目的だった。

 いくら昔の自分をなぞろうとしても、それは決して上手くはいかない。なぜなら、そのときの俺は、そんな下らないことを考えていないからだ。スポーツでたまたま上手にできた後、それを追い求めて余計に下手くそになるような、あのもどかしさ。

 体育祭で味わった疾走感を追い求め、まったく見当違いの行動を起こしていた。そういう食い違い。

「なに。急に黙って」

 高梨が少し先で振り返る。

「いや……霊験あらたかだなって」

「レーケン? 何語?」

「……今度、辞書の引き方教えてやるからな」

 人間の記憶は不思議なものだ。一度はこの目で見たことがあるはずの、あんなにインパクトのある大仏を見ても、テレビで見た通りだなとしか思わなかった。それなのに、とりたてて特徴のない芝ばかりの山を登っていると、遠足でここを歩いた記憶がうっすらとよみがえってくる。

 子供にとってはありがたい大仏様よりも、草と糞ばかりの坂道のほうがよほど印象深かったのだろうか。

 高梨と当時の思い出話に花を咲かせるうちに、山頂の展望台に出た。とはいえ、開けた場所に、木でできた柵がめぐっているだけの、簡単なものだが。

 まだ太陽は高いけれど、ずいぶんと西に傾いた。

 ほんのり黄金色に彩られた平城の地は、一三〇〇年前もこれとそう変わらない景色が拝めたのではないかと、そんなふうに思う。アスファルトは敷かれたし、ビルだって立ち並んでいる。けれども、山頂から見下ろした景色には、邪魔になるような建物は一切ない。

 遠くの山並みを、ぼうっと眺める。

 今朝方、陽が昇るのを見て、あの山を越えようと思った。

 日出国と日没国ではないが、そうだった。俺はこれから日が沈みゆく山を越えねばならない。正確な時間は覚えていないが、三時間から四時間というところだろう。

 いっそ自転車を乗り捨てて電車に乗ろうか。そんな考えが頭をよぎった。

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