甘えさせてもらいます
「陸上部って今日も練習あったろ」
「はい」
「それなのにランニングなんかして偉いな」
自分の中学時代を振り返ってみて、練習のあった日はおろか、休日にだって自主練をした記憶というものはなかった。日々の筋トレやストレッチくらいは習慣になっていたけれども。
「偉いなんてそんな……」
照れ隠しのように手をぱたぱたと振っていた内田が、ふと表情を暗くする。
「そんなこと、ないです。ちょっと家にいたくなくて……」
甘ったるい香水のにおいが、鼻によみがえった。
「ふうん。どこも一緒だな」
怪訝そうな顔をした内田が、「あっ」と声をあげた。
「あの、黒沢くん」
「うん?」
「どうして高校では陸上部に……」
「ああ、一年が始まったばっかりの頃にちょっと休んでさ、入部するのに遅いってことはなかったんだけど、なんか気まずくてな。結局そのまんま」
「……それだけですか?」
「それだけですよ」
中学で陸上部だったと、どうして知っているのだろう?
訊こうかと思い内田のほうに首を回すと、彼女はココアをぐいっと飲んで、俺のほうを見上げる。眉根を寄せて睨むようにするが、瞳が大きいせいか、むくれた子供のような可愛さがある。
「もったいないじゃないですか」
「べつにもったいなくは……」
「でも速かったって聞きました」
「誰に?」
「千佳ちゃんです」
「……その千佳ちゃんってのは」
「黒沢くんの幼馴染の」
「ああ、あいつか」
内田とは正反対の女だ。優しくはないし、いつも怒っているし。女のわりには硬い髪は、まっすぐで長い。しかし風になびいても、お嬢様のような印象はまったくなく、むしろスケ番のようである。
「それにあんなに綺麗に走れるじゃないですか」
「俺の走り方なんて、なんで知ってんの?」
「あ、えっと、卒業アルバムを見せてもらって」
「載ってたっけ?」
「はい。やっぱりもったいないですよ」
この話は平行線を辿るだろう。話題を変えて逃げることにした。
「千佳の奴、他になんか余計なこと言ってないだろうな」
「え、あっ……と、聞いてないですよ」
あからさまに動揺し、祈るように見つめてくる。
「あいつの言うことは話半分に聞いとけよ。すぐ話盛るからな」
「そんなことないですよ。いい子じゃないですか、千佳ちゃん」
くすくすと笑う。内田の笑顔を、素顔を俺ははじめて見た気がする。身長は小さいけれど、年相応には大人っぽい。やわらかい笑顔だった。
ひとしきり笑った内田が、はっとして、
「もしかして、寒いですか?」
言われて気がついたが、かいた汗が夜風に晒されてずいぶんと体が冷えていた。両手を太ももに挟んで、自然と背中が丸くなっていた。
「ちょっと寒くなってきたかも」
「すみません、引き止めちゃって」
「俺はいいんだけどさ」
立ち上がりかけた内田を制した。「話したいこと、何かあったんじゃないの?」
「え」
表情が凍りついた。緊張や警戒、不安が仮面のように内田の顔を覆う。
「……あ、いえ……ない、です」
「じゃあどうして俺を呼び止めたわけ」
「その、世間話を少々……」
あからさまに嘘だった。
「あったんだろ」
「ないわけじゃ……ないんですけど……」
彼女の勇気は俺を呼び止めたときに使い果たしたらしく、本題には至らなかったらしい。弱々しく息を吐いたきり、内田はうな垂れてしまった。目に涙こそ浮かんではいないが、今にも何かがあふれ出してきそうだった。まるで俺がいじめたみたいだという罪悪感を勘定しなくとも、取り繕うことさえできない少女を見捨てるのは寝覚めが悪い。
「内田っていつもここ通る?」
「え?」
よほど意外だったのか、声が変に高かった。
「ランニングコース」
「いちおうは」
「そう。それじゃ俺もこれからここを通るようにするよ。そしたらまた会うこともあるだろ」
内田がきょとんとしていて、なぜだか恥ずかしくなってくるけれど構わず続けた。
「そしたらまたこうやって雑談でもして、ああこいつに話しても大丈夫だなって思えたら、そのときに話、聞かせてよ」
「……いいんですか?」
「良いも悪いも。家にいたってすることないし」
「それじゃあ、甘えさせてもらいます」
安心したのか、くしゅんと内田がくしゃみをした。すんと鼻をすするが、下品という感じはまったくなく、むしろ愛らしさを覚える。
男とはまったく違う生き物のようだ。
「寒くなってきたし、そろそろ帰るか」
「そうですね」
二人そろって腰をあげる。「ついでに捨てておきます」と差し出された手に、お礼を言って空き缶を渡した。
内田は華奢な手首をくるくる回し、腰を捻り、アキレス腱を伸ばす。冷えて固まった筋肉をほぐすように、簡単な柔軟をすませると、またフードをかぶった。それがランニングをするときのスタイルなのだろうか。怪しいことこの上ない。
「それからさ」
走り出そうとした内田に声をかけた。上体をひねるようにこちらを振り返る。
「はい?」
「敬語、やめてくれよ。同い年なんだから。むず痒い」
「明日からそうします」
少し考えてから、内田はそう言って、うすく笑みを浮かべた。暗がりにフードを被っていたけれど、それは不思議とわかった。
翌朝の教室で、俺は探すともなく内田を探していた。予鈴が鳴ったというのに、内田はまだ姿を見せていない。
彼女と別れたあと、妙に気になって触れなかった本題について考えた。
自主練中に(本人曰く、家にいたくなかっただけらしいが)偶然出会った、特に親しくもないクラスメイトと話をしたい理由。考えに考え、内田は新しいクラスに馴染めるか不安だったのではないかという結論に達した。
部活では上手くやっているようだけど、あれで環境の変化に戸惑うタイプなのかもしれない。俺との会話からして、初対面の人間とすぐに打ち解けるふうでもない。そこで初日の放課後に、たまたま遭遇したクラスメイトに声をかけ、それを足がかりにと目論んだのかもしれない。
そうと思えば合点がいく。
と、一人納得していたのだが、そうだとすると一向に姿を見せない理由はなんだろう。まだ関係が固まる前のこの時期が、もっとも大切なのではないだろうか。それとも女子は男子と違って、初日のうちが勝負なのだろうか。そうと思えば、教室内の女子グループは一目でそれとわかるカテゴライズがされている。派手な女は派手な女同士、地味な女はやっぱりそういう連中と輪になっている。
内田はいったいどこに属するのだろうと教室を見渡す。運動部の集団にいるのが自然だし、綺麗どころに混じっていてもおかしくはない。大人しいグループにいてもそんなものかと思えるだろう。ギャル美のところだけは、ちょっと浮くかな。
始業のベルが鳴った。
待ち構えていたように一限目の教師が、前のドアから現れた。思い思いの場所にいたクラスメイト達がぞろぞろと自分の席へむかっていく。
そのざわめきにまぎれて、後ろのドアが開く音がした。そちらを見ると、わずかに開いた隙間に身体を無理やり通すように内田が入ってきた。
ゆったりとした動きでドアを閉めると、ふらふらと自分の席を目指して歩いていく。
猫背気味に歩いていて、肩に届くほどの髪は結ばれていない。やはりすこし癖がある。
窓際の三番目の彼女の席に向かう途中、俺の隣を通りすぎるときに、
「おはよう。遅かったな」
と、軽い調子で挨拶をした。そして背筋が凍った。
座った俺を見下ろす内田の両目は、ほとんど閉じていて、薄目から無感情に濁った瞳が、じとっとこちらを睨んだ。剣呑な空気をまとっている。無言のうちに脅されているようだった。
「……ん」
おそらく返事であろう声を喉から漏らし、内田は席についた。頬杖をついた頭が窓の外に向いていることは、後ろからでもよくわかる。