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走り出したら  作者: 肉団子
2章
39/124

弱い者いじめ

 先輩の後ろを歩いていると、教室のほうから人が顔を出すのがざわめきでわかった。一度振り返って笑顔をつくり、手を振ってやる。たぶん、そういうのがいかしていると思うから。

 トイレは嫌だな、汚れるし。口には出さずに祈っていると、校舎裏へ案内された。

 そこにはすでに二人の仲間が待ち構えていた。

「てめェ調子乗ってんよなァ」

「調子には乗ってないですけど」

「そうやって口答えするのが調子に乗ってるって言うんだよ!」

 仲間の一人が脅すように声を荒げる。慣れてはいてもびっくりするものはびっくりしてしまい、その身体反応を見て、呼び出しにきた先輩は俺を軽く蹴って壁際に追い込む。

 見上げた彼の額には、にきびがたくさんあった。それを恥ずかしがって隠しているのだろう、前髪がかかっている。

「……校庭のアレですか?」

「だけじゃねえ。てめェら、好き勝手やりやがって」

「もう先生には叱られましたよ」

「んな話してねえんだよ。謝れっつってんの」

「高梨の野郎は、素直に謝ったぞ」

 謝れなんて言われていないし、道理もない。

 いやそれよりも、引っかかることがある。

「高梨、謝ったんですか? 素直に」

「おお」

「……じゃあなんでケガしてるんですか」

「身体に教えてやっただけだろうが。またやらかさねえように」

「呼び出したときからビビってたけど、殴ったら泣きそうになってたなあ」

 後ろの二人が言う。合わせるように、俺を呼び出した男が顔を近づけてきて睨みおろす。

「で、なんでおまえはそうやってふてこい顔してんのってこと。生意気なんだよ」

 そっと右足を下げて、左前に斜めになる。顔は正面を睨んだまま動かさない。

 それから、挑発のつもりで言う。

「でも俺、あんたには迷惑かけてないだろ」

 男の眉が吊りあがる。相手の右肩が後ろに引かれる。大振りで右の拳が飛んでくる。

 軽く踏み込んで身体を沈め、左腕で顔をかばう。身体を回転させながら、右腕を小さく斜めに振り上げる。

 左腕と右拳に衝撃が届くのはほとんど同時。

 よろめいた俺の前に、先輩は尻餅をついて倒れた。

「あ、あが……」

 呻き声とともに、口から白い塊がこぼれた。彼の仲間もそれを見ている。歯だ。奥歯にしては小さい。乳歯だろう。

 仲間が我に帰る前に俺は走って逃げた。後ろから「待て!」だの「殺すぞ!」だのと叫んでくるが、それで待つバカはいない。一番近くの階段を駆け上がり、二階の廊下を走って次の階段でもう一階上へ行き、引き返して別方向階段から下へおりる。上階の窓に一人の姿があった。

 さて、昼休みが終わるまで逃げ切れるか。その前に高梨に逃げろと言いに行かなければならない。

 体力と逃走ルートを頭の中でやりくりする。面白くなってきた。



 放課後まで、意外なほど何も起きなかった。クラスメイトに訊ねても、先輩が来たという話は聞かない。

 少々、いやかなり不気味だったが部活に出だ。昨日の今日でサボると、顧問がうるさいだろうからだ。

「おい黒沢」

 着替えを済ませて軽く身体を動かしていると、杉内先輩が近付いてきた。彼は二年生である。

 慎重に返事をする。

「なんですか」

「おまえ、ニッシーぶん殴ったんだって?」

 やはり昼のことだった。俺を呼び出したのはニッシーというらしい。

「えっと、成り行きっていうか……」

「成り行きねえ」

 先輩はにやにやとした表情で近付いてくる。不思議なもので、部活の上下関係があるだけで身は縮こまってしまう。彼の手がすっと上がってくる。痛みに耐えるために歯を食いしばって、身構える。

 ぽんと、肩を叩かれた。

「俺もあいつ嫌いだったからすっとしたぜ。よくやった」

「……え、あ、どうも」

 部活動関連ではたったの一度も褒めてくれたことのない先輩が、俺を褒めてくれた。すくなくとも仇討ちに来たわけではないらしい。

「そんなわけで、ご褒美をやろう。スタブロをセットしとけ」

 スタブロとは、スターティング・ブロックの略称である。左右のブロックを、中央のレール刻まれた溝にはめて、歩幅を調整して使う。レールの両端には穴があって、大きな釘を打ち込んで地面に固定するのである。

「雑用だし……いつもやってるじゃないですか、それ」

「うるせえ、とっととやれ」

「これだもんなあ」

 いつも通りと考えれば、どうということはない。木槌でコンコンやっていると、

「黒沢ぁ!」

 と、俺を呼ぶ声。発生源を探すと、校舎の二階から、担任教師が手を振っていた。

 俺がそちらを見たことに気がつくと、

「ちょっと来ぉい!」

 呼び出しだ。サボりではない。手早くスタブロのセットだけ終わらせて、担任のいた辺りを目指す。

 そこは職員室近くの窓だった。嫌な予感を抱えて階段を上り、廊下をのぞくと予感通り、職員室前に担任がいた。

「今日は俺、悪いことはしてないっすよ」

「……普段悪いことをしている自覚はあるんだな?」

 これは失言だ。都合が悪くなって目を逸らして黙り込む。

「ん、まあそれはいいんだけど、今日ケンカした?」

「ケンカっていうか……先輩に囲まれて逃げる前に一発……」

 担任は片手で両方のこめかみを揉みながらため息を漏らした。

「それが何か?」

「まあ……入ればわかる」

 職員室の奥にドアがある。そこへ入るのは初めてだった。室内全体が、学校にしては重厚感のある木材で、壁には絵が飾られ、なぜかガラスケースに入ったスズメバチの巣があった。

 部屋の中央にはこれも学校では見かけないような、背の低いテーブルを、クッション性に優れていそうな黒いソファが囲んでいる。奥の席にニッシーとあだ名される先輩が座っていた。その隣に、中年女性が俺を睨むようにして腰かけている。ニッシー先輩の母親だろうことは、すぐにわかった。

 マジか。普通するか? 告げ口。

「この子ですか」

 女性の声は、明らかに憤っていた。

 対して、担任は落ち着かせるような声音と身振りで、

「ええ、まあ。しかしまだ詳しい話を聞いていませんので……」

「うちの子に暴力を振るったんですか?」

 疑問系ではあったが、断言しているような強い口調で俺に問う。担任が視線で、何事かを訴えてくるが、ツーカーではないので意思は読み取れない。

「……結果的に」

「まあ! そんな態度がありますか! 他人にケガをさせておいて!」

「黒沢、どうしてこういうことになったんだ?」

「昼休みに呼び出されて、校舎裏で囲まれたんですよ。それで、殴られそうだったから思わず手が出て……」

 嘘ではないが、真実でもない。途中から、反撃という形で殴る心積もりがあった。

「本当か?」

 担任の問いに、先輩は肯いた。

「と、言うことですので、えー……お互い様ということで……」

「お互い様ですか?」

 ヒステリックに声が裏返る。「うちの子は歯だって取れたんですよ!」

 これ見よがしに、ハンカチで包んだ歯を机に出す。たまらず俺は指摘する。

「乳歯じゃないですか」

 しかももうずいぶん根本が削れている。最初からぐらぐらしている歯が、たまたま殴られた衝撃で抜けただけのはずだ。

「乳歯だとか永久歯だとかの問題じゃありません! どうしてケガをさせておいて、そんなに不機嫌そうにしているんですか? まず頭を下げることぐらい――」

「じゃあ先輩は、高梨に謝ったんですか」

 話しかけるさいに真っ直ぐ見た彼は、決まりが悪そうにもじもじしていた。

 それでなんとなく察しがついた。

 たぶん彼は家に帰って、愚痴を漏らしたのだろう。それをこんな大事にしているのは、母親の独断である。突然、憎かった先輩が哀れになる。

「高梨?」

「俺の前に、先輩たちにケガさせられた」

「これはこの子とあなたの問題でしょう? 関係ない話をするんじゃありません」

 じゃあ親が出てくるなよ。聞こえないよう、口の中で言う。

「後輩いじめてた奴がたまたま反撃されてケガして、どっちが悪いんですか」

「そうやって屁理屈ばかり。ごめんなさいのひとつも言えないのね。これだから片親の子は――」

「お母さん、それは……」

「あ? それこそ関係ないだろ」

「いいえ、あります。まともじゃない環境だから、あなたみたいなまともじゃない子供が育つんです。悪さばっかりしてるらしいじゃない」

 心底意地悪そうな顔だった。口元は緩んでいるのに、目は対象を見下している。相手の弱点を見つけたとき、加害者はこういう顔をする。優越感に浸る人間の顔だ。

 頭に上った血が、爆発寸前で潮のように引いた。

 関係あろうがなかろうが、そういう目で見られることは、きっとこの先もあるのだろう。

 俺はわざと足音をさせて立ち上がる。成長期前の俺でも、ソファに座った人間なら見下ろせた。

 謝る理由を考える。殴ったこと、歯が抜けたこと……ケガをさせて逃げたこと。

 謝罪を口にできるとすれば、ひとつしかない。俺は親に気を遣うような先輩に心のなかで申し訳なく思う。

「弱い者いじめをして、すみませんでした」

 母親は口をぽかんと開けている。言葉の意味を飲み込んで、怒り出す前に逃げよう。出入り口に移動する視界を、頭を抱えた担任が横切った。担任にも申し訳ないと思うけれど、もう相手をしたくなかった。

 走ってすべてを汗にして流したかった。


           ○



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