弱い者いじめ
先輩の後ろを歩いていると、教室のほうから人が顔を出すのがざわめきでわかった。一度振り返って笑顔をつくり、手を振ってやる。たぶん、そういうのがいかしていると思うから。
トイレは嫌だな、汚れるし。口には出さずに祈っていると、校舎裏へ案内された。
そこにはすでに二人の仲間が待ち構えていた。
「てめェ調子乗ってんよなァ」
「調子には乗ってないですけど」
「そうやって口答えするのが調子に乗ってるって言うんだよ!」
仲間の一人が脅すように声を荒げる。慣れてはいてもびっくりするものはびっくりしてしまい、その身体反応を見て、呼び出しにきた先輩は俺を軽く蹴って壁際に追い込む。
見上げた彼の額には、にきびがたくさんあった。それを恥ずかしがって隠しているのだろう、前髪がかかっている。
「……校庭のアレですか?」
「だけじゃねえ。てめェら、好き勝手やりやがって」
「もう先生には叱られましたよ」
「んな話してねえんだよ。謝れっつってんの」
「高梨の野郎は、素直に謝ったぞ」
謝れなんて言われていないし、道理もない。
いやそれよりも、引っかかることがある。
「高梨、謝ったんですか? 素直に」
「おお」
「……じゃあなんでケガしてるんですか」
「身体に教えてやっただけだろうが。またやらかさねえように」
「呼び出したときからビビってたけど、殴ったら泣きそうになってたなあ」
後ろの二人が言う。合わせるように、俺を呼び出した男が顔を近づけてきて睨みおろす。
「で、なんでおまえはそうやってふてこい顔してんのってこと。生意気なんだよ」
そっと右足を下げて、左前に斜めになる。顔は正面を睨んだまま動かさない。
それから、挑発のつもりで言う。
「でも俺、あんたには迷惑かけてないだろ」
男の眉が吊りあがる。相手の右肩が後ろに引かれる。大振りで右の拳が飛んでくる。
軽く踏み込んで身体を沈め、左腕で顔をかばう。身体を回転させながら、右腕を小さく斜めに振り上げる。
左腕と右拳に衝撃が届くのはほとんど同時。
よろめいた俺の前に、先輩は尻餅をついて倒れた。
「あ、あが……」
呻き声とともに、口から白い塊がこぼれた。彼の仲間もそれを見ている。歯だ。奥歯にしては小さい。乳歯だろう。
仲間が我に帰る前に俺は走って逃げた。後ろから「待て!」だの「殺すぞ!」だのと叫んでくるが、それで待つバカはいない。一番近くの階段を駆け上がり、二階の廊下を走って次の階段でもう一階上へ行き、引き返して別方向階段から下へおりる。上階の窓に一人の姿があった。
さて、昼休みが終わるまで逃げ切れるか。その前に高梨に逃げろと言いに行かなければならない。
体力と逃走ルートを頭の中でやりくりする。面白くなってきた。
放課後まで、意外なほど何も起きなかった。クラスメイトに訊ねても、先輩が来たという話は聞かない。
少々、いやかなり不気味だったが部活に出だ。昨日の今日でサボると、顧問がうるさいだろうからだ。
「おい黒沢」
着替えを済ませて軽く身体を動かしていると、杉内先輩が近付いてきた。彼は二年生である。
慎重に返事をする。
「なんですか」
「おまえ、ニッシーぶん殴ったんだって?」
やはり昼のことだった。俺を呼び出したのはニッシーというらしい。
「えっと、成り行きっていうか……」
「成り行きねえ」
先輩はにやにやとした表情で近付いてくる。不思議なもので、部活の上下関係があるだけで身は縮こまってしまう。彼の手がすっと上がってくる。痛みに耐えるために歯を食いしばって、身構える。
ぽんと、肩を叩かれた。
「俺もあいつ嫌いだったからすっとしたぜ。よくやった」
「……え、あ、どうも」
部活動関連ではたったの一度も褒めてくれたことのない先輩が、俺を褒めてくれた。すくなくとも仇討ちに来たわけではないらしい。
「そんなわけで、ご褒美をやろう。スタブロをセットしとけ」
スタブロとは、スターティング・ブロックの略称である。左右のブロックを、中央のレール刻まれた溝にはめて、歩幅を調整して使う。レールの両端には穴があって、大きな釘を打ち込んで地面に固定するのである。
「雑用だし……いつもやってるじゃないですか、それ」
「うるせえ、とっととやれ」
「これだもんなあ」
いつも通りと考えれば、どうということはない。木槌でコンコンやっていると、
「黒沢ぁ!」
と、俺を呼ぶ声。発生源を探すと、校舎の二階から、担任教師が手を振っていた。
俺がそちらを見たことに気がつくと、
「ちょっと来ぉい!」
呼び出しだ。サボりではない。手早くスタブロのセットだけ終わらせて、担任のいた辺りを目指す。
そこは職員室近くの窓だった。嫌な予感を抱えて階段を上り、廊下をのぞくと予感通り、職員室前に担任がいた。
「今日は俺、悪いことはしてないっすよ」
「……普段悪いことをしている自覚はあるんだな?」
これは失言だ。都合が悪くなって目を逸らして黙り込む。
「ん、まあそれはいいんだけど、今日ケンカした?」
「ケンカっていうか……先輩に囲まれて逃げる前に一発……」
担任は片手で両方のこめかみを揉みながらため息を漏らした。
「それが何か?」
「まあ……入ればわかる」
職員室の奥にドアがある。そこへ入るのは初めてだった。室内全体が、学校にしては重厚感のある木材で、壁には絵が飾られ、なぜかガラスケースに入ったスズメバチの巣があった。
部屋の中央にはこれも学校では見かけないような、背の低いテーブルを、クッション性に優れていそうな黒いソファが囲んでいる。奥の席にニッシーとあだ名される先輩が座っていた。その隣に、中年女性が俺を睨むようにして腰かけている。ニッシー先輩の母親だろうことは、すぐにわかった。
マジか。普通するか? 告げ口。
「この子ですか」
女性の声は、明らかに憤っていた。
対して、担任は落ち着かせるような声音と身振りで、
「ええ、まあ。しかしまだ詳しい話を聞いていませんので……」
「うちの子に暴力を振るったんですか?」
疑問系ではあったが、断言しているような強い口調で俺に問う。担任が視線で、何事かを訴えてくるが、ツーカーではないので意思は読み取れない。
「……結果的に」
「まあ! そんな態度がありますか! 他人にケガをさせておいて!」
「黒沢、どうしてこういうことになったんだ?」
「昼休みに呼び出されて、校舎裏で囲まれたんですよ。それで、殴られそうだったから思わず手が出て……」
嘘ではないが、真実でもない。途中から、反撃という形で殴る心積もりがあった。
「本当か?」
担任の問いに、先輩は肯いた。
「と、言うことですので、えー……お互い様ということで……」
「お互い様ですか?」
ヒステリックに声が裏返る。「うちの子は歯だって取れたんですよ!」
これ見よがしに、ハンカチで包んだ歯を机に出す。たまらず俺は指摘する。
「乳歯じゃないですか」
しかももうずいぶん根本が削れている。最初からぐらぐらしている歯が、たまたま殴られた衝撃で抜けただけのはずだ。
「乳歯だとか永久歯だとかの問題じゃありません! どうしてケガをさせておいて、そんなに不機嫌そうにしているんですか? まず頭を下げることぐらい――」
「じゃあ先輩は、高梨に謝ったんですか」
話しかけるさいに真っ直ぐ見た彼は、決まりが悪そうにもじもじしていた。
それでなんとなく察しがついた。
たぶん彼は家に帰って、愚痴を漏らしたのだろう。それをこんな大事にしているのは、母親の独断である。突然、憎かった先輩が哀れになる。
「高梨?」
「俺の前に、先輩たちにケガさせられた」
「これはこの子とあなたの問題でしょう? 関係ない話をするんじゃありません」
じゃあ親が出てくるなよ。聞こえないよう、口の中で言う。
「後輩いじめてた奴がたまたま反撃されてケガして、どっちが悪いんですか」
「そうやって屁理屈ばかり。ごめんなさいのひとつも言えないのね。これだから片親の子は――」
「お母さん、それは……」
「あ? それこそ関係ないだろ」
「いいえ、あります。まともじゃない環境だから、あなたみたいなまともじゃない子供が育つんです。悪さばっかりしてるらしいじゃない」
心底意地悪そうな顔だった。口元は緩んでいるのに、目は対象を見下している。相手の弱点を見つけたとき、加害者はこういう顔をする。優越感に浸る人間の顔だ。
頭に上った血が、爆発寸前で潮のように引いた。
関係あろうがなかろうが、そういう目で見られることは、きっとこの先もあるのだろう。
俺はわざと足音をさせて立ち上がる。成長期前の俺でも、ソファに座った人間なら見下ろせた。
謝る理由を考える。殴ったこと、歯が抜けたこと……ケガをさせて逃げたこと。
謝罪を口にできるとすれば、ひとつしかない。俺は親に気を遣うような先輩に心のなかで申し訳なく思う。
「弱い者いじめをして、すみませんでした」
母親は口をぽかんと開けている。言葉の意味を飲み込んで、怒り出す前に逃げよう。出入り口に移動する視界を、頭を抱えた担任が横切った。担任にも申し訳ないと思うけれど、もう相手をしたくなかった。
走ってすべてを汗にして流したかった。
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