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走り出したら  作者: 肉団子
2章
36/124

死ぬだけだ

 体育館の二階部分に「体育館」があって、南北を挟むように外廊下がめぐり、東側は体育館の入口と体育教官室があって、外廊下から続くデッキのような空間になっている。ここには木製の椅子とテーブルが備えられており、たまに女子が昼食会を開いているのを見る。それからなぜか物干し竿があった。

 俺と高梨はこのうち、南側外廊下で風に当たっていた。陽射しはすっかり真夏の厳しさで、熱線には圧さえ感じる。白っぽい外壁が眩しくて、蒸し風呂状態の体育館が相対的に暗くて、涼しそうに感じてしまう。

 しかし風がよく通る分、外のほうがいくらかマシだった。

「泳ぎてえなあ……」

 高梨が独りごちる。手摺によりかかって見下ろすそこには、プールがあった。女子たちが楽しそうに声をあげて水しぶきを上げている。

「気持ち良さそうだなあ」

 俺もため息まじりに呟いた。

 誠も誘ったのだが、あいつはトイレに行くと言って一階に下りた。トイレはなぜだか年中ひんやりしていて、要するにここにいるより涼しいのである。精神の涼をとるか、肉体の涼をとるか。きっと後者が正しい選択だ。

 体育館とプールの間には花壇がある。プールサイドはコンクリート製で、女子の足跡が一方通行に重なっている。ざっと五メートルか。

 その五メートル先をぼんやり眺めていると、小さな人影がこちらに気がついて足をとめるのが見えた。手を振っている。内田だった。俺も軽く手を振り返す。

「おまえら、仲良いよな」

「そうか?」

「手なんか振っちゃってさ、付き合ってんのかっての」

「付き合わなくたって、手ぐらい振るだろ」

「振るかぁ?」

 プールから上がった女子の中に、水泳帽から溢れた髪がやけに明るい奴を見つけた。あんな金髪、一人しかいない。

「見てろよ」

 高梨に言ってから、大きく手を振る。「おぉーい! ギャル美ぃ!」

 ギャル美はゴーグルをつけたままこちらを見上げて、口をあけて数秒固まり、無視してそのまま歩いていく。

「な?」

「なにがだ。な? じゃねえよ。手ェ振ってねえじゃんか」

「……ん、まあ、相手が悪かった」

 恥ずかしくて目を逸らす。学校前のビルから、入道雲が生えていた。空が深い青色で、くっきりとした雲がCGみたい。

 現実感がない。

 セミが鳴いていた。

「おまえら、次試合だぞー」

 体育館の中からチームメイトの声が飛んでくる。返事なのか抗議なのか自分でもわからない声を発しながら体育館に戻る。

 小学校のころはやっぱりアタックが一番好きだった。今だって嫌いではない。真っ直ぐに決まると気持ち良いし、ブロックをかわすように逆方向へ打ったりと工夫が楽しい。けれどいつからか、ボールを拾うのが楽しいと思うようになっていた。誰もが落ちると確信した球に追いついて、コートに戻すとき、底知れない達成感を味わえた。

 そんなわけで一試合ごとの走る量は、たぶんみんなの倍はあった。体育館シューズの中が熱い。

 体育は楽しかったけれど、何か満たされない。バレーボールに真剣に取り組んでみても、体育祭で味わったような、充足感が得られない。生きているという感触。自分の命の形がはっきりとわかったようなあの――

 暑さのせいだろうか。俺の内側が弛緩している。

「あー、授業終わってら」

 高梨がのんきに言った。外廊下へ顔を出すと、女子生徒は全員、西側のプールサイドにあがって整列していた。体育館も授業自体は終わり、バレーボールで遊んでいる連中が残り、あとはぞろぞろと更衣室へと引き上げていた。

 キラキラと光を反射させる水面に、俺は吸い込まれるような錯覚を覚える。水分、足りてないのかな。

「オレも泳ぎてえなあ」

 高梨を横顔が目に入った瞬間、体育祭の記憶がフラッシュバックした。

「俺も泳ぎたいな」

「おっ、水泳部に同情破りでもしかけるか」

「いや……今から行く」

「は?」

 高梨が困惑顔を浮かべる。「四時間目、サボるのか?」

「っていうか、飛び込もうかなって」

「はぁ? ここから?」

 肯いてみせると、高梨は暑さでとけた顔をさらにどろどろに歪めた。

「何メートルあると思ってんの。無理だって」

「高さのせいで遠く見えるけど、五メートルもないはずだから」

 外廊下の縁は壁になっていて、その上の手摺がちょうど鳩尾のあたりだった。

 体育館から助走をつけて、勢い良く飛び乗って蹴る。簡単なことだ。

「これ、どうやって飛び越えんだよ」

 手摺を撫でながら、高梨はすこし怒ったように眉をひそめる。

「体育祭のときの発射台、やってくれよ」

「いや、でもな……」

「大丈夫だ。運悪く足を滑らさない限り失敗しない」

「失敗したら?」

「死ぬだけだ」

 頼んだぞと言い残し、体育館に戻る。高梨は困ったように立ち尽くしていたが、そのうち諦めたように体勢を整える。

 すこし考えてから、体育館シューズと靴下を脱いだ。

 十分距離をとって走り出す。一瞬見えた高梨の顔は、嫌々覚悟を決めたという感じだった。悪いなという気持ちがぽっと生まれて、泡のように消えていく。背後から「おい!」という武内の声。振り切るようにスピードを上げて、高梨の背中に足を乗せる。

 タイミング良くせり上がる背中を蹴って、手摺に飛び乗り、さらにもう一度大きく跳躍。

 重力さえ振り切れる。

 そんな感覚。

 自由になる。

 一瞬の無重力。

 得体の知れない腕が、俺の全身を絡めとる。

 上昇が落下に転じる刹那、不意に熱が去っていく。唐突に虚しくなった。

 空だって飛べると思えた俺を、地球が引きずり落とす。衝撃と水しぶきが全身をつつむ。プールの底に着地して、俺は自分の無事を確信したが、泳ぐ気にも逃げる気にもなれず、空を見つめて浮かんでいた。瞳が真っ白な太陽に灼かれ、視力を失い始める。

 女子の悲鳴が聞こえる。プール授業を行なっていた教師が、心配と叱責の声をあげている。

 セミが、命がけで鳴いていた。



 いくつかの部屋を移動させられ、そのたびに説教を受け、行為の動機を詰問された。教師の言葉は脳みそで意味を解する前に霧散した。理由を説明しようにも、自分でも何を考えていたのかがわからない。「はあ」と「すみません」ばかりを繰り返していたように思う。

 いつの間にか家にいて、何事もなく夕飯を食べて、けれどランニングに出かける気にはなれずに、一人公園で待ちぼうけるかもしれない内田になんとなく申し訳なくなった。

 学校からは一足早い夏休みを言い渡された。高校生活二度目の謹慎だった。とんだ不良だ。

 そうこうしていると終業式の日に、千佳が俺を訪ねてきた。

 午後七時を回っても、まだ西の雲が赤々と燃えている。生ぬるい風が戸惑いがちに流れていた。

 千佳はプリントTシャツにジャージのズボンという、完全な部屋着だった。春頃よりはいくらか伸びた髪を、ちょんと束ねている。

 ぶらぶらと散歩をしてなんでもない会話をし、預かってきたという宿題を受け取った。うっすら汗をかくくらいに町内を練り歩いて、堤防にのぼった。その頃にはもう太陽の沈んだ方向で、藍色の夜が夕景を山陰に押し込もうとしていた。

 堤防からは比較的広い空が見えるけれど、ほとんど夜だった。

「何かあったの」

 千佳はなんでもないふりをして訊ねてきた。

「ちょっと飛び込みをな」

 だから俺もとぼけたら、尻を蹴られた。

「それは知ってる」

「何がって言われると、なんだろうな。自分でもよくわからない」

「修ちゃんがそんなに落ち込むの、久しぶりに見た」

「落ち込んでる?」

「落ち込んでる」

「……なんかな、さっぱりしないって言うか、しっくりこないって言うか、すっきりできないって言うか」

「よくわからないけど、もやもやしてるの?」

「そんな感じ。自分が自分でわからない」

「自分のことなんて、案外わからないものよ」

 と、千佳は意味もなく振り返る。俺も足を止め、彼女の後頭部を見た。じっと遠くの山を見つめている。

「千佳?」

「私も最近気がついたの。遠野のことが好きなんだって」

 それから「ああそうか」と呟いてこちらに向き直る。

「私、その話をしたくて修ちゃんを散歩に誘ったんだ。自分の気持ちって、案外わからないものね」

「……え?」

「だから協力してよ。遠野と友達でしょう?」

 一瞬、もやもやしたものが吹き飛ぶくらいに驚いた。千佳の言葉の意味を理解するために、脳が全部使われたからだろう。



 夏休みに入り、俺は珍しく机に向かっていた。三年生には卒業文集用の作文と、簡単なプリントしか宿題が出ておらず、つまり受験勉強をしろということで、素直に従っていたわけである。

 学校と同じような時間割で、一週間ほどを過ごした。

 そして今朝早くに目が覚めた。

 まだ辺りは薄暗い。街中は水色に沈んでいた。空には夜明けの気配が漂っていて、明け方の空気は穏やかだった。

 ふらりと散歩に出かけて土手にあがると、東の山稜に朝陽が昇っていた。ちょうどそんな歌詞だった中学時代の校歌を思い出して口笛を吹いた。

 朝食を終えてから支度を整えて、高梨の家を訪ねた。まだ寝起きの高梨が欠伸をしながら出てきた。

「山、越えようぜ」

 高梨はしばらく言葉の意味を理解できないのか、まばたきを繰り返して、

「ああ、山越えね」と、肯いた。


          ○


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