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走り出したら  作者: 肉団子
2章
35/124

人間の重さ



 人を出荷するかのように通勤ラッシュの電車が走る。

 高架下で聞く音には、超満員の特急も空っぽの回送も、まったく違いがない。

「これが人間の重さか……」

 などと、誰にも聞かれていないのを良いことに呟いてみたりする。

 朝の河川敷はどことなく清々しい空気に満ちている。目の前で半裸のホームレスが体操をしていなければ、であるが。

 身体をねじる運動をした拍子に目が合った。

「よう」

 手を上げて挨拶する。おっちゃんは渋い顔になる。むき出しになった彼の上半身は、結構立派だった。体脂肪が少ないと筋肉が浮いて見えるのだが、それだけではなく健康体という印象を受ける。景気が良ければ野良猫が太ると、何かで聞いたことがある。

「何しに来たんや、朝っぱらから。おっちゃんはこれからお仕事やぞ」

「仕事してるの?」

「街の清掃活動をな」

「ああ」

 朝の陽射しは人体に良い影響があるのだという。宣言こそまだだったが、すっかり梅雨が明けた夏の朝陽を背負っていると、肉体が噂は真実だと教えてくれる。

「制服着てサボりはいかんぞ。補導してくれ言うとるようなもんや」

「サボりじゃない。寄り道だ」

「ほおう……で、何用や。またリヤカーか?」

「いや、そういうんじゃないけどさ」

 そういえば、俺はどうしてこんなところに寄ったのだろう。特別理由は見当たらなかった。だからといって、このまま学校に行ってもなにか変だと思う。

 ニワトリ小屋を見物しながら話題を探す。ちらりと盗み見た勤勉なホームレスは、早く仕事に行かせろと言外に主張していた。

「あっ、俺の母親の話、したことあったよな」

「冬眠するいうのやな」

「そうそう。おっちゃん、よく覚えてるなあ」

「記憶力はな。昔からええ方なんや」

 と、珍しく得意気に言う。彼の言葉で思い出したが、母親が体調を崩すのは、冬場が多かったのである。

「それがどないしたんや」

「今ちょっと調子崩しててさ。姉ちゃんが言うんだよ、俺が心配かけてるせいだって」

 おっちゃんは骨張って彫りが深いせいで影の多い顔だが、さらに影が深くなる。

「なんでおっちゃんにそんな話するんや」

「さあ、なんでだろう」

 彼は視線を俺の後ろの遠く。太陽のほうへと移して、眩しそうに目を細めて手庇をつくった。

「自分はどう思うんや」

「……まあ、間違ってないとは思うけど」

「ほんならこんなとこで世間話してんと学校行かなあかんやろ。子供やないんやから、ええ年したのがホームレスと喋ってると通報されるで」

「それは違うよ。いまどきはその辺の大人が小学生と喋ってるだけで通報されることだってあるんだから」

「ほう、世知辛い世の中になったなあ」

「安全な世の中になったんだよ」

 しかし、である。

 他人を信用していた時代と信用しない時代の、いったいどちらが良いのであろうか。

 歳を食うほどに狡賢くなれる人間のように、人間のつくる社会というものも成熟するほどに純真さを失うということなのだろうか。

 かつて思い描いた大人や世界というものは、なんだかもっと格好良かった気がする。そんなどうでもいいことを考えて賢くなったつもりになれるくらいには、俺も大人になってしまったということだけれど。

 不機嫌というよりは、バツが悪そうなおっちゃんに追い返されるように登校した。

 夏休み前の学校のなにが嫌いかと言えば、一時間目の授業である。予鈴が鳴るまで入らないエアコンのせいで、腕にはじっとりかいた汗が残っていて、ぺたぺたと教科書やノートをひっつけてしまう。

 内田のように眠ると決めてしまえば楽なのだろうけれど、そうしようにもまだ暑くて眠れる気がしなかった。

 節電のためか、暑さ対策のためか、蛍光灯はすべて切られていた。南向きの窓から入ってくる陽光だけで、消化試合のような夏休み前の授業には事足りた。

 今週を終えれば夏休み。授業中にもかかわらず、教室のあちらこちらから期待感が膨れ上がる気配がしていた。感情であっても、熱気は膨張するんだなと、今日はどうでもよいことばかり考える。普段どうでもよくないことを考えているかと問われれば、悔しいが首を横に振らなければならない。

 三時間目に体育があった。

 年間予定表に水泳とあったから、当然プールで遊べるものと考えていた。しかし現実は厳しく、夏休み明けからちょこっと泳いで水泳授業と言いはる魂胆らしいことが、最近になって発覚した。

 ではこの真夏日に行なう体育は何かが問題で、それがバレーボールだからなお問題である。体育館は蒸し風呂だ。せめて屋外授業が良かった……。

「そう思うだろ」

 俺の問いかけに、高梨は「まったくだ」と肯いた。

 柔道場の畳はひんやりとしていて、うつ伏せに寝そべっていると腹が心地良い。背中には俺たちとは別のカリキュラムを選択した連中の冷たい視線を感じる。

 三時間目前の休み時間は少し長めで、ご丁寧に予鈴も鳴らしてくれる。それまではシカトすると決めていた。

 脛ほどの高さの窓からは、ブロック塀と雑草ばかりが見えている。右手から女子の声がしてきた。そちらに目を向ける、切り取られた景色に入ってきたのは、タオルで体を隠した集団だった。

「誰も見てねえんだから隠すなってのな」

「俺たちが見てるけどな?」

 女子更衣室からプールへの最短かつ人目につかないルートは、体育館の裏側を回るこの道である。女子はもちろんそこを通るのだが、何を警戒しているのかみんなタオルを巻いている。

 次の一団がやって来た。女子の話し声はよく通る。

「この声、ギャル美か」

「あいつは絶対タオルだぞ、タオル」

 てるてる坊主のような集団が通り過ぎていく。顔は壁に隠れ、体型はタオルに覆われて誰が誰だかはわからない。

「あー、やっぱりだ」

 高梨が悔しそうに畳を叩いた。「水着は見せても問題ねえよなあ」

「まあ、外着だしなあ」

 普段スカートを詰めまくって、下着が見えても平気な顔をしているくせに、最初から見えることを前提としている水着を隠すのだ。女子の見せたくない基準が、男子にはイマイチわからない。基準は身体のラインだろうか。

 てるてる坊主がひとつ、ぴたりと足を止めて、半周弱回転して、こちらへ寄ってくる。にゅっと窓枠上部から現れたのは内田だった。まだ午前中で、体育を終えていないこともあって、瞼がとろんと閉じかけている。

「あ、やっぱり黒沢くんだ」

 声もどこか低く平坦である。「何してるの」

「……わかってて訊いてる?」

「見たいの?」

「わりと」

「本気で」

 俺の声に、高梨が讃する。

 内田は無言で数歩下がった。脳裏に、ゴキブリを踏み抜いた蹴りがよみがえる。面倒くさそうに、あるいは不器用な子供がシャツを脱ぐように、頭からタオルを取り払った。

「どう?」

 と、色気も何もなく立っている内田は、申し訳ないが大変男らしかった。考えてもみれば、陸上部のユニフォームはもっと布面積が少ない。

 それはそれとして、である。

 身長が一メートル半ばのくせに、胸はかなり大きい内田が、普段はそれとなくラインを隠している内田が、身体にピタリと張り付くような、競泳型スクール水着に身を包んでいる。

 バランスとしては長い脚は健康的に鍛えられていて、すらりと見える。脚の付け根から不思議と男子を興奮させる紺の水着が肌を隠すが、引き締まったお腹まわりや、対照的に柔らかそうな胸部を、むしろ目立たせている。鎖骨のあたりから日焼けのグラデーションがあって、ふと見れば、無表情の中にわずかな恥じらいを浮かべている。そうだと気がつけば、ただ立っているだけに思えた彼女が、肩をすぼめるようにして両腕で身体を守ろうとしていることや、わずかに内股になっていることにも気がついた。

「脚……案外長いんだな」

「……ありがと」

 止め時を見失った俺たちを救うかのように予鈴が鳴った。我に返った面々は、慌ててそれぞれの授業に向かった。夏場に柔道をさせられる同輩たちは、様子のおかしな二人を唖然として見送ってくれた。

 準備運動を終えると、それぞれのチームに分かれて軽い練習。その後、これまでの授業でやっていた試合の続きをする。これがまた妙に白熱するもので、試合の後は汗だくになる。

 別チームの試合を見学するような生真面目さはなく、俺たちはサウナから抜け出して外廊下に出た。

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