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走り出したら  作者: 肉団子
2章
34/124

あんたのせいだからね

「黒沢くん、何か変じゃないですか」

 と、内田は眉をひそめた。

 七月も中盤にさしかかると、夜になっても蒸し暑さが引いてはくれない。梅雨時のどんよりとした雲が蓋をして、地上をサウナのようにしている。湿度なのか汗なのか、腕がペタペタとする。気持ち良く汗が流れてくれない。

 誰かの忘れ物のサッカーボールでリフティングするのをやめた。

「変? 俺が?

「うん」

 懐かしい響きだ。かつては変だとか頭がおかしいとか言われて生きていた俺である。

「ちょこっと思い出作りしてるだけだよ」

「うーん……」

 内田はベンチに腰かけたまま、身体を大きく横に傾ける。ポニーテールが垂れた。「なんとなくなんだけどね。無理してない?」

「……してないってことは、ないとは思うけど」

 だからと言って、どうしたら良いのだろうか。

 返事に困って、足下のボールを内田にパスする。意図を察して、ボールを蹴り返してきた。戻ってきたボールを、再び内田へ送る。

「俺は元々こんなだったと思うんだけどな。最近がむしろ、大人しかっただけで」

「そういえば、大会のとき相撲取ってましたよね」

 ゆるいパスとは裏腹に、古傷を抉るような言葉が飛んできた。

「……なんで知ってんの?」

「同じ会場にいたんだもん。変な人がいるなって思って見てたの」

 陸上競技場の近くに相撲場があった。それを見ていた先輩が、のんきに座っていた俺を捕まえて相撲をやろうと言い出した。毎度のことだった。

「そりゃ見られてるよなあ」

「入口の近くですしね、あそこ」

「視線感じてたんだけど、勝負ってなると熱くなってさ……」

 まあそれにしても、今回のことにしても、基本的に俺は巻き込まれている立場だ。変だなどと言われるのは、結構傷つくものである。

 巻き込まれているから、心まで梅雨のようにじめっとしているのだろうか?

 体育祭のときは高梨が言い出したことだったが、それとはまったく別のところで自分の意志があった。そのために高梨を利用したと言ってもいい。それで気持ち良く走れたから、また昔みたいに高梨とバカをやるのも悪くはないと思ったけれど、ただただ付き合うだけだから気分が晴れないのだろうか。

「黒沢くん?」

 内田に名前を呼ばれて、慌ててボールを蹴る。変に力が入って、コントロールが乱れたそれを、内田は軽くトラップした。

「上手いなあ」

「そう? 昼休み、よくサッカーしてたからかも」

「そういや、なんで最近やらないの」

「……眠たいからねえ」

「あっそう」

「春眠暁を覚えずってね」

「もう夏だぞ」

 ということは、内田がナマケモノみたいな学校生活を送るようになったのは最近のことなのだろうか。成長期が遅れてやってきた、ということはまさかないだろうけれど。



 さて、その暁を覚えない内田ではあるが、ここ一ヶ月ほどで若干の改善がみられることに、いったいどれだけのクラスメイトが気付いているだろうか。

 相変わらず朝はほとんど眠っているが、覚醒が一時間から二時間ほど早くなっている。

 具体的に言える明らかな違いは、午後の授業で眠ることがなくなったこと。それから髪型のバリエーションが増えたことだ。

 高梨にその世紀の大発見を話すと、

「おまえ将来ストーカーになりそうな」と、一蹴された。

「研究熱心と言ってくれ、研究熱心と」

「内田とは付き合ってないんだろ? それを研究するってやばいだろ」

「でも付き合ってる相手研究するってのもおかしくないか? 付き合うために相手の好きなものとかを知ろうとするのはさておき」

「なに、内田と付き合いたいの?」

「例え話を当てはめるな」

 そんな中身のない会話をしていると、

「きゃあっ!」

 と、悲鳴が降り注ぐ。思わず声のした方――階段を見上げると、女生徒が俺たちを跳び越えていく姿がみえた。

 何がとは言わないが、黒だった。

 階段下に這いつくばっていた男二人に気付かず降りてきて、あっと思ってジャンプした、という流れだろうと推理する。

 なにもスカートの中を覗きたくて廊下に這いつくばっているのではない。殊勝にも期日を守って反省文を提出しに行くと、島田が「そうか反省してるのか。それなら校内掃除をしてもらおう」と、わけのわからないことを言い出した。

 掃除、というかガム取りである。

 扇形の箆を手渡され「一号館だけでいいぞ」と送り出されたのである。

 校内での飲食は禁止されていない。当然、ガムを噛むことも許されている。まさかとは思ったが、校内にガムを吐き捨てる奴は案外と多いらしく、よくよく注意して見れば黒い斑点が模様のように続いている。

 箆で廊下の表面をこするように、ガムを引っぺがしていく。これが意外と楽しいので、ついつい熱中してしまっていた。

「そういやよー」

 気持ち良さより成果を優先するらしい高梨は、壁際を中心に目を光らせている。壁際に集中しているのは、彼らのせめてもの良心なのだろう。「文化祭、どうするよ」

「どうするったって、まだ何も決まってないだろ」

「そうなんだよなあ」

「いつだっけ?」

「締め切りは一応、終業式だな」

 高梨によると、終業式のあとに生徒議会による抽選会があり、三年生を優先させながらも可能な限り公平に、舞台の時間や教室の割り当てが行なわれるのだそうだ。

 先週のロングホームルームの際に、三年七組の出し物を決める会議が開かれた。

 情熱溢れる意見がぶつかり合って、妥協点が見つからなかった――なんて面白いことにはならなかった。誰かが提案すると、別の誰かが否と言う。ありきたりだ、準備が大変だ、誰がそれをするんだと、あれこれとケチがついた。

 ついに、出てきた案の中から多数決で決めようとギャル美が面倒臭そうに提案すると、多数決のせいで去年は大変な目にあったのだと信楽君が断固拒否した。結果、「多数決で出し物を決めるかどうか」の多数決をして、この案は却下された。

 いっそあの会議を撮っておけば「戦争がなくならない理由」とかテキトーな題をつけて映像展示にできただろう。

「高梨は何がしたいわけ」

「なんかこう、面白いこと」

「……わかりやすいなあ」

「来週はもう夏休みだろ。なんかいいアイデアないか?」

「ないな。まったくない」

 クラスメイトも別に、本気であれもこれも嫌だと言ってはいないだろう。ただなんとなく、それぞれの主張が絶妙に絡み合って、事態は混迷を極めているだけなのだ。

 このままでは何をするにしろ、人の集まらない時間帯や、場所を割り当てられてしまう。だからって困るわけではないけれど、不思議とそれは嫌だった。



 たぶん、決定的に何かを間違えたその日――その朝のことだった。

 母親が調子が悪いと言って布団から出てこなかった。珍しいことではない。小さいころには毎年のようにそうなっていた。特別体が弱いということではないし、風邪などはむしろ引いているとこを見たことがない。黙って眠っているのが一番なので、放っておくのが正しい対応だった。

 当たり障りのない会話をしてから食卓へ行くと、姉がキッチンに立っていた。

「簡単なものでいい?」

 と、珍しく食パンを焼きマーガリンまで塗って、目玉焼きにベーコンを乗せて出してくれた。

 ありきたりの合板のテーブルには、テーブルクロスなど敷かれておらず、気の利いた花瓶もない。毎年キャンペーンで増えていき、食器棚から溢れた皿を入れる籠と、母の薬入れになった笊だけが、いつも端に置かれている。

 せめてと思い、姉の分も牛乳を注いで出す。

 姉は自分の食事に手をつけずに俺をじっと見てくる。不審に思いながら、食パンをかじった。塩気が舌に広がる。その姿を見届けてから、姉は自分の食パンを手にした。

「お母さん、あんたのせいだからね」

「はあ?」

 いつもならもっと腹が立っただろうと、心の奥底で思うけれど、なにせ寝起きで頭が働いていなかった。

「うち、そんなに余裕ないんだからね」

「そんなの知ってるけど」

 牛乳を飲むと、冷たい液体が食道を流れる感覚が走った。

「勉強してるの?」

「ぼちぼち」

「千佳ちゃんに聞いたけど、あんたまた学校で馬鹿やってるんでしょう」

「会ったの?」

「そこのコンビニでね。いい年なんだから、やめたら? そういうこと」

「……姉ちゃんはさ、大人と子供の違いって、なんだと思う」

「年齢でしょ」

「あー……それもあるなあ。でも俺は、好奇心よりも恐怖心が勝ったら大人だと思うんだ。明日のこととか、世間体とかいろいろあるでしょ。昔は触れたはずのコオロギを気持ち悪いって思ったりさ。あれ、やわらかいのな……。そういう知りたいっていう、どうなってんだろうっていうのをおさえるのが大人なんだよ。この前河川敷にさ、川から水引いて田んぼ作ろうとしてる小学生がいてさ、ああ子供ってみんな天才的だなーって……あれ? なんの話だっけ」

 姉は肩をがっくりと落としてため息をつく。

「さっさとそれ食べて学校行けって話」

「あ、そう」

 冷める前に食べなくてはと、まだ醒めぬ頭で考えた。

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