おまえらの足は死んでいる
垂れ幕は結局、その日の放課後まではそのままだった。ずるずると回収されていく紙を、高梨と見上げていた。即刻回収されることも頭にあったから、寛大な処置であろう。
「次は七夕だな」
校内をぶらぶらしながら、高梨が言った。
「なに唐突に。おまえは本当、退屈しないな」
「今年で高校も最後かって考えるとなあ。それに、一学期だけだろ、自由があるの」
「受験のこと言ってるんだったら、一学期から準備しろって話だけどな」
俺がさんざん姉に言われていることだ。一応、勉強はしているつもりなのだが、どうも姉に言わせると足りないらしい。
一号館と二号館の間にある中庭には、石に縁取られた丸い池があって、金魚やメダカが泳いでいる。南の一号館寄りの場所にはベンチが三つ並び、藤棚(生えているのは藤ではない)が木陰を作っている。入学前にもらったパンフレットには、生徒憩いの場とあったけれど、俺はここで生徒が憩っている姿を見たことがない。
「そういやオレ、入学したときから思ってんだけどさ。この池で釣りできねえかな」
「針刺さったらそのまま死にそうなのしかいないだろ」
「無理かー」
中庭を抜けて右手にグラウンドが見えてくる。どういう割り当てか知らないけれど、いくつかの運動部が上手に住み分けている。今は陸上部と野球部の姿があった。サッカー部はトレーニングルームでも使っているのだろう。
よくよく見ると、グラウンド端には女子ハンドボール部の姿があり、さらに近々ラグビー同好会が設立されるという噂である。
体育館は体育館で、バレー、バスケ、バドミントン、体操と過密状態だ。体育館は二階建てで、一階部分には男女更衣室、トレーニングルーム、柔道場と小体育館が存在する。
妙に充実した設備群は、生徒会で聞いたという高梨情報によると、かつて進学校だった我が校の落ちぶれるのを嘆いた時の校長が、部活動に力を入れようと方針転換をした名残だという。小体育館を一緒に使う卓球部と剣道部が、竹刀ピンポンなる新競技を編み出すあたり、校長の目論見は外れたわけだが。
「で、七夕なんだけど」
「その話終わってなかったの?」
「受験ってのもあってな。話がそれたようで実はそれてない。つまり神頼みってのをさ、やりたいわけだよ」
「ふうん。やれば?」
「だァらよ、オレ一人でやったって寂しいだろ」
「俺と二人だって虚しいだけだろ」
「ってことで、みんなでやろうってことよ」
「みんな……」
俺と高梨と誠と、あとは内田や鈴やんあたりのクラスメイト……。「まさかおまえ、全校生徒でやりたいの?」
「さっすが黒沢。冴えてるぜ」
「……あのさ、そういうのは生徒会でやればいいんじゃないの?」
口ではそう言いながら、俺の頭はあれこれと計画を練り始めていた。校内に校舎内に入らなくて良いだけ、今度のほうが簡単だった。しかし仮に全校生徒が参加すると、九百人だ。
「生徒会はダメ。もう文化祭の準備だって忙しいんだもん」
「二学期だろ、大変だな」
「ま、これが最後の仕事だしな。文化祭でもなんかやろうぜ」
「あのな、せめてもうちょっと具体的に話してくれよ」
「なんか、盛り上がること」
陸上部の中に、内田の姿を見つけた。短距離の彼女はすでに引退なのだが、運動がてら居残っているらしい。大会のプレッシャーから解放されたからか、楽しそうに走っている。
ダッシュを終えてスタート位置に引き返すとき、こちらに気付いて手を振ってくる。俺も手をあげて返事をする。
内田の向こうに、野球部たちが見えた。彼らはこれからが本番だ。三年生にとって最後の大会になるであろう、夏の予選。そこに向けて練習にも熱が入っている。
「おいおい考えるとして、だ」
「なに?」
「俺の中にコーチ魂が芽生えてみたいで、教えたい盛りなんだよ」
「……あえ?」
「とりあえず、ジャージ持ってきてる?」
高梨のジャージをズボンだけ借りてグラウンドを横断する。カッターシャツの下には体操服を着込むようになったのは中学時代の部活のせいだが、これが案外都合が良くていまだに体育がなくてもシャツの代わりにしていた。
ファーストを守っている男には見覚えがあった。体育祭の一〇〇メートルで俺と争った奴だ。名前は確か、山本だったか。
「おまえらの足は死んでいる!」
開口一番に指摘すると、内野の連中が怪訝そうな顔をして俺を見る。山本も眉間に皺を寄せている。
「えっ、なに」
「今って何練習?」
「守備と走塁」
「なるほどな……。さっきから見てたが、盗塁対策の練習もやってんだろうけど、その盗塁が甘いな」
「ど、どうしたんだ黒沢」
「まあ聞くな。ちょっと俺に走らせてくれよ。二塁、盗んでやる」
わけわからん、と言いながらも、山本は事情を説明してくれ、無事一塁ランナーとなる。さきほどまでバッターボックスでノックを打っていた野球部顧問も、すっかりどうなるのか見守る姿勢だった。
投手の背中を見ながら、そろそろとリードを取る。脚を開いて、軽く腰を落とす。投手が足をあげ――くるっと身体をこちらへ向ける。
牽制かよ!
走り出そうとした身体を反転させ、一塁側に倒れるように滑り込む。わずかに手が早く着く。
「反応良いな」
山本がいたずらっぽく賛辞をくれる。
「ちゃんと動いてから走るっての」
口に入った砂を吐き出して、再びリードを取る。一歩と飛び込んで一塁に戻れる距離。左右どちらにでもスタートを切れるように、軽い内股で身体を落とす。
投手が足を上げる。今度こそホームベースに踏み出すと確信してスタートを切った。
左足で地面を蹴りながら、体重を二塁側へと抜くようにして体を捻る。一歩ごとに速度を上げていき、合わせるように上体を起こしていって、二塁手前でスライディング。ちらりと本塁側を確認すると、ボールが飛んでくるのが見えたが、俺の足のほうが先に二塁に到達する。
ベースを踏んだ右脚で勢いを殺しつつ立ち上がる。
砂を叩き落としていると、山本が小走りでこちらへ来る。
「さすがに速いな」
「さっきのランナーとの違い、わかるか。短距離走で大切なのはスタートなんだよ」
「スタート切るのはおまえのほうが遅かったけどな」
「俺野球やったことないもん。いつ走りだしていいかわからないし。走り出す方法なんだよ、俺が言いたいのは。ろくなコーチがいないんだから」
バットで自分の肩を叩きながら、野球部の顧問がつかつかと歩み寄ってくるのが目に入る。社会科の伊藤だった。
「ほう、先生がろくでもないと黒沢は言いたいのか?」
「やだな、言葉のアヤじゃないっすか」
「で、その走り出し方ってのは?」
山本は顧問をちらりとも見ずに俺に質問してくる。周りにいた連中も呼び寄せて、スタートダッシュについて講釈をたれる。ほとんど思いつきだったが、案外と好評を得た。
変に熱が入ってしまい、部活動が終わるまで野球部に居座ってしまった。
「あれ、なにやってたの?」
と、夜の公園で内田に訊ねられて、遅まきながら何をしていたんだろうと恥ずかしくなった。




