都会の夜空はひどく寂しい
夕食を終えてもなんとなく甘いにおいが漂っている気がした。部屋に戻っても心はささくれ立ったままで落ち着かない。勉強なんて手につこうはずもなかった。
胃の中が落ち着くのを待ってランニングに出かけた。
アスファルトを蹴って夜の街を走り抜ける。人も車もまだちっとも減っていない。信号や街灯、自販機の光が辺りの空気をぼんやりと照らしている。ヘッドライトを背後に感じたと思えば、それは走る俺をあっさりと追い抜いて、テールランプを見せつけてくる。
悔しくて、少しずつペースが上がっていく。
だんだんと息が苦しくなってきた。ペースを落として流す。大通りから横道にそれてまっすぐ行くと、突き当たりには水色の鉄橋がある。軽い調子で階段を上って橋を渡ると、堤防に出る。
黒い河川が目の前に横たわっている。対岸のビルの明かりが、岸のそばの水面にだけ反射している。風はないらしく、像は比較的にはっきりと映る。
漂う大気が幽霊の手のように、不確かな感触で首筋を撫でる。
足を止めると汗がじわりと滲み出した。
いつものように西を向く。空には半分に欠け落ちた月が、ぽかんと浮かんでいた。
まったくの思いつきで反転して、東に走り出した。
まだ家に帰りたくなかった。
しばらく堤防を進んで閘門前を過ぎたところで、支流沿いに南下する。川沿いの遊歩道には、途切れることのない桜並木。街灯の光をやわらかく受け止めた、薄紅色のトンネルに意識がむかって、路面を覆い隠した花びらに足を取られながら、ひた走る。
橋を三本ほどくぐり抜けたころ、どうしてこんなに走っているのだろうと、ふと我に返った。徐々に勢いを殺してゆき歩いているのか走っているのかわからないほどゆっくりとした歩調になる。スロープをのぼって橋を渡り、いくつかある帰り道を脳内に思い描く。
商店街を横切ってすぐのところに、大きな公園がある。草野球には十分なグラウンドを中心に、市営プールや立体アスレチック、小さな丘まである。
ひさしぶりに寄ってみよう。
公園に入るための階段を筋トレのつもりで駆け上がり、スロープを下りていく。左手に並行する高速道路を、耳をつんざくようなエンジンを轟かせて、数台のバイクがかっ飛んでいく。
グラウンドを突っ切って、外周に出る。街灯がぽつぽつと並んでいて、間の暗い空間が、どことなく不気味な雰囲気だ。
正面に人影が見えた。
そうかと思えば闇に溶け、また街灯の下に現れた。明滅するたび、近付いてくる。
真っ黒のパーカーを着ているらしい。フードを被っているせいで顔まではわからない。
いくつめかの街灯の下に出てきたとき、その小ささに驚いた。中学生か、下手をすると小学生くらいである。
タッタッタッ――と、小気味よい足音。走る姿勢もぶれずに綺麗なものである。
イマドキの子供は不良だな、と爺臭いことを考えながらそいつとすれ違った。
頭は俺の胸くらいまでだ。百五十を下回るだろうか。一瞬遅れて感じた息遣いは女のものだった。
あぶないなあ、と背後に意識を向けていると、リズミカルだった足音が急に途絶え、そして、視線を感じた。
黒いフードの暗い陰から、ふたつの瞳が俺をとらえている映像が頭に浮かぶ。
答え合わせをするように、ゆっくりと振り返る。少女は思った通り、俺をまっすぐに見据えている。
「……黒沢くん?」
と、影は俺の名前を呼んだ。
「そうだけど、誰?」
「あ、そうか」
少女はフードを払うように頭から外した。現れた顔には、たしかに覚えがあった。
「内田?」
「はい。奇遇ですね」
「ランニング中?」
「そうです」
「そりゃまあ、奇遇だな。俺もさっきまで走ってた」
会話が途切れた。まるでスポットライトを浴びた役者のように、沈黙の暗闇を一つ隔てて俺たちは立ち尽くす。
同じ高校に通う以上、それなりに顔を見たことはあったが、会話をするのは初めてである。共通の話題も、親しげな冗談もない。「おっぱいの」という高梨の言葉が頭をよぎるが、まさか口にはできない。
内田はしきりに視線をさまよわせ、もじもじと指先をいじっている。こちらを警戒しているのか、ときおりじっと見られる。
こちらとしても気まずさを覚えていた。相手は女の子なのだからなおさらだろう。
「あー……それじゃ、頑張って」
気を利かせて、適当に別れを切り出して去ろうとすると、
「待って!」
呼び止められた。それから自分の声の大きさに驚いたように言い直した。「あの……待って下さい」
「なに?」
「えっと、その……」
それきり内田は言葉が出なくなって、口を開いては閉じ、閉じては開き、たまに「あ」とか「う」とか声をもらすばかり。
改めて帰ったほうが良いのか、待つほうが良いのか、あるいは声をかけてやるべきか。考えていると、ようやく意を決したように俺の目をまっすぐに見上げてきた。陸上部のわりには白い肌に、くっきりとした二重の大きくて綺麗な瞳がはまっている。
「ちょっとお話、できませんか……」
最初は大きく、だんだんと尻すぼみにく声は震えていた。
「……いいけど」
都会の夜空はひどく寂しい。月をのぞけば惑星と、一等星、暗いところに移動しても二等星がなんとか見えるだけ。果てのない宇宙ばかりが目に入る。
宇宙はどこから暗いのだろう。遮るものがないから暗いのか。昼日向が明るいのは光が散乱するからだろうが、だとすれば散乱しない宇宙空間の彼方にある星は、もう少し明るくても良いのではないだろうか? だって――と、それ以上は頭が働かなくなる。壮大なことを考え始めると、脳が白旗を振り「人間は小さいなあ」と結論を出す。
諦めて見上げた夜空に、小さく幽かに輝く星があった。名前も知らない星だ。何もない空間にぽつんと浮かんでいる。
俺もまた暗い公園に一人きりだった。内田は「すこし待っていてください」と言い残し、どこかへと消えていった。
陸上部に所属する内田麻衣は学校でもそれなりに有名人である。小学生のような身長にそぐわないサイズの胸を持っている。いわゆるトランジスタグラマーだ。
それが陸上部なのである。毎日放課後に走っているのである。一年生のころ高梨に良いものが見られると誘われて見にいったが、たしかに物凄い迫力だった。ゴールテープが切りやすそうだなあ、と漫然と考える。
学業面での噂は聞かないが、運動神経はすこぶる良いらしく、体育祭や球技大会のたびに名前を聞く。
俺をあの弱々しい星だとすれば、内田は夕暮れでもはっきりと見える金星のような人間だろう。たしか今年は同じクラスになっていたはずだが、接点など特にはない。
しかし、先ほどの様子からすると、むしろ彼女が弱々しい星のように頼りなかった。
噂と実物のギャップについてぼんやりと考えていると、内田が走ってくるのが見えた。フードに隠されていた髪は、ポニーテールのように後ろでひとつに束ねられている。少し癖のある髪が走るのに合わせて揺れる様は、馬というより犬を想像させた。
両手に持った缶を俺に見せた。
「コーヒーとココア、どっちが良いですか?」
「えっと、コーヒーで」
受け取った缶の熱さを手のひらに感じる。
「あ、俺いま金持ってないや。明日学校で渡すよ」
「いえそんな……私が引きとめたんですから」
「そう? そんなこと言うと遠慮しないよ、俺は」
「はい、構いませんよ」
内田は俺の隣にちょこんと座った。背筋を伸ばすが、トレンドマークともいえる大きな胸はそれほど自己主張をしていない。ゆったりしたパーカーが体のラインを隠しているのだ。太ももにココアの缶を持った手をのせている。姿勢の良さほど行儀が良いとは感じないのは、体を硬くさせているからだろう。
「今年は同じクラスですね」
「みたいだな。ま、一年だけだけど、よろしく頼むよ」
「そう、ですね」
主に学校のこと、新しいクラスメイトや、離れた友達のことを中心に、とりとめのない雑談をした。わざわざ俺を引き止めてまでしたいのはこういう話ではないだろうと思いながらも、それを引き出すほどの話術はなかった。