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走り出したら  作者: 肉団子
2章
28/124

教室は突如パニックに陥った

「なんや、黙って」

「……おっちゃんってさ、兄弟、いた?」

 彼は何を考えたのか一瞬、表情が強ばってうつむき加減になる。

「おったには、おったけどな」

「どうだった?」

「えらい曖昧な質問やけど……」

 言葉を区切り、にやりと口角を上げる。「まあ、上手いこといっとったら、こんなとこで暮らしてへんわな」

「そりゃそうだな」

 俺もつられて笑う。「そうだ、カップ麺買ってきたんだ。豚骨でいい?」

 おっちゃんは枝や木材の切れ端を重ね、ライターで火をつけた。オイルの残ったライターは、探せば結構落ちているのだという。

 何箇所か凹みのあるヤカンでお湯を沸かし、カップ麺に注いだ。水は公園で汲んだらしいことを言っていた。

 以前彼の家にお邪魔したときにも感じたが、どうにもホームレスらしい悲愴感がまったくない。内田の言っていた、汚くないというのもこういうところなのだろうか。

 カップ麺を食いながら、体育祭の話をした。これから何をしようとしているのかを話すと、おっちゃんは呆れ顔で、

「変わらんなぁ」と、ぼやいた。



 翌日、いつもより少しだけ早く登校した。

 校舎を練り歩きながら、ぼんやりと頭を働かせる。正面玄関付近の掲示板に、校舎見取り図が貼られていた。入学した当初こそこれを頼りに歩いたものだが、いつの間にか存在さえ忘れていた。

 南側の正門から少し離れて、一号館がある。ここだけ校舎が古く、階段の木製の手摺はすっかりすり減り、またひび割れている。職員室や保健室、生徒指導室、放送部、生徒会室などが一、二階を占め、三階には三年の一組から四組が入っている。部活動などで活躍があった場合、一号館の南側、正門にむけて垂れ幕が吊るされることなる。

 二号館と三号館はデザイン、劣化具合から見て、おそらく同時期に建てられた。二号館だけは四階まで教室がある。三号館はグラウンドとの兼ね合いか、一号館と二号館に比べて東西に短い。

 南北に並んだ校舎は、それぞれ渡り廊下で結ばれている。

 それから、二号館の外階段からは、体育館の外廊下へ通路が設けられている。体育館の南側、一号館からすこしはなれた西側に、プールがある。

 俺は頭の中に校舎の立体像を描きながら、一号館の西階段をのぼる。三階から五段目に仕切りがしてあって屋上へは上がれない。

 叩いた感じ、ベニヤか何かの薄い板だ。上部には隙間があって、ドアノブの取っ手を使えば登れそうではあるが強度に不安が残る。それに乗り越えたところで、屋上に出るにはもう一枚扉があって、こちらは鍵を手に入れない限り突破は不可能である。

 渡り廊下を通って、二号館四階へ上がる。ここは一年の教室が並んでおり、奥には図書室があった。

 一階分高いおかげで、図書室から見ると屋上の高さに視点がくる。ここからロープで渡る、というのもひとつの手だろうが、そんな危険な手段を取るほどのこともない。

 学校というのはその性質上、トイレがあちこちにある。一号館にも東西にひとつずつあるのだが東トイレはなぜか知らないが外付けだった。校舎に寄り添うように一棟、トイレだけの建物が建っている。出入り口は渡り廊下であり、屋外に出てしまう三階部分には雨除けの屋根が設置されていた。

 ぼやけた青写真を描いていく。問題は侵入経路だ。まさか校舎の合鍵は作れない。数箇所の候補を頭に浮かべ、あとは出たとこ勝負だろうと切り上げる。

 時計に目をやると、もうすぐ八時半になる。せっかく早く来ているのに遅刻扱いにされては、なんだかバカらしい。

 教室はすでにいつもの賑わいだった。

 自分の机に鞄をひっかけて、ドアのほうをじっと見ていた。予鈴が鳴って、一分、二分。三分に届こうというとき、すぐ後ろから

「きゃああああッ!」

 飛行機顔負けの声量の悲鳴が響いた。思わず耳を押さえ、身体をビクッとさせながら振り返る。

「ご、ゴキブリ!」

 彼女はこちらの机に跳び乗って、俺の頭を抱えながら叫んだ。「そこっ! そこに!」

「あの……いや、ちょっと……」

 あまりのことに誰だかわからなかった。声からして、おそらくはクラスメイトの吉川さんであるけれど、俺の頭を自分の盾にするせいで、逃げることも立ち向かうこともできない。

 ゴキブリ、という単語は魔力を秘めているらしい。教室は突如パニックに陥った。

 毒があるわけでも人間を襲うわけでもない昆虫に対し、連鎖的な悲鳴と避難が起こり、いたずら心を忘れない少年たちがあらぬ方向を指さして「そっち!」とか言うものだから、収まる気配がない。

 勇者になろうとする者、あるいはさっさと退治したい冷静な奴が、手近な紙を丸めているのが、揺れる視界に映っていた。

 しかし教室というのは、案外ゴキブリの味方をする。机や椅子が死角、障害物になって、逃げやすいのだ。

 経験上、こういう事態は原因が排除できない限り続く。いい加減酔ってきたので早くなんとかしてくれ……。

「出た!」

 と、何度目かの声。「壁んとこ!」

 数人が離れていく気配。俺の頭を揺らしていた吉川さんも、転げ落ちるように逃げた。まさかと思って、教室後方の壁を見ると、黒い塊が目線の高さにいる。

 さすがにこの距離は想像していなかった。床を蹴って椅子ごと一歩離れると、その振動を感じたゴキブリは俺から逃げるように動く。

 それを目で追った先に、小さな人影があった。

 内田だ、と思うのと同時、鈍い爆発のような音が教室中に轟いた。空気と壁が震えた。騒動がぴたりと止んで、よそのクラスのざわめきが聞こえてくる。

 内田がスリッパの底でゴキブリを蹴り潰したのである。

 壁に足をつけたまま、内田が固まっている。我が校の内履きは学校指定のスリッパである。つま先の開いたサンダル型スリッパであるが、よくよく見ると、内田のつま先が、もぞもぞと動いていた。

 しばらくそうしていたかと思うと、ゆっくりと周囲を見渡し、俺と目があった。

 不機嫌そうに細められた目。眉は困ったように垂れている。

「これ、どうしたらいいんだろう……」

「……後先考えろよ」

 内田のスリッパを手で押さえて、足を抜くように言う。

「誰か、紙取って、紙」

 信楽君が差し出してくれた何かのプリントをスリッパの下にして、スリッパをどけると、半ば潰れたゴキブリが、ぼとりと落ちてきた。しぶとく脚をピクピクさせている。呆れた生命力だ。

 壁には体液らしき汁がついている。

「内田、雑巾でこれ拭いといて」

「ん」

 ゴキブリを乗せた紙を畳んで、中身が漏れないようにしてゴミ箱に捨て、廊下へ出ると、一時間目の教師とばったり出くわした。

「お、なんだ黒沢。またサボりか」

「こんな堂々とサボりませんって。ちょっとこれ洗ってくるだけですから」

「洗うのか、スリッパを」

 困惑した教師の声を背中に受けながら、外へ出る。食堂の前に、運動部が多目的に使う水道がある。最初から汚いところなのだから、ゴキブリ汁が流れても問題なかろうという判断だ。

 スリッパの底を指で擦りながら水を流す。自分の手も洗い、蛇口を閉め、立ち上がったところへ内田がやって来た。俺の隣で雑巾を洗う。

 眠たいのか目はほとんど開いていない。頭をふらっとさせたかと思えば、はっと一瞬だけ目をぱっちりと開き、またとろんと閉じていく。

 ふらふらする彼女の頭は、いつか二人で出かけたときのようにハーフアップになっていた。

「あ、スリッパ濡れちゃったんだけど」

「干しといて。適当に」

 興味なさそうに言う。たぶん、とりあえずさっさと寝たいのだろう。

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