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走り出したら  作者: 肉団子
1章
26/124

世界のすべては今ここに



「いやあ、それにしても惜しかったなァ!」

 高梨が俺の頭に肘を乗せ、わざとらしく言う。言い返す言葉もないので、俺は担任の武内がおごってくれた紙パックのコーヒー牛乳のストローを咥えて黙っていた。

「最後のリレーに勝ってれば優勝だったんだからなあ!」

 教室はざわついていた。応援団は打ち上げの予定を話し合っている。仲の良いグループで、焼肉に行く算段を立てている奴もいる。

 それぞれが高校最後の体育祭を締めくくりにかかっていた。

 席を立ったギャル美が歩いてきて、俺の写真を撮る。

「なんだよ」

「面白い顔してるから」

 写真の出来に満足しながら教室を出て行くギャル美が、ドアのところで立ち止まった。

「黒沢、今日はダサがっこ良かったよ」

「ダサ――」

「かっこいいは余計だぞ」

 ダサいは余計だという俺の言葉を遮って、高梨が口を開いた。「それもそうだね」と、ギャル美は消えた。

「いやー、それにしても本当に惜しかったな」

「もういいだろ! もう帰れよおまえ」

「言われなくたって帰るけどさ。おまえ帰らねえの」

「俺はまだちょっと体が動かないから」

「あっそ。んじゃ、またな」

「じゃあな」

 手を振って高梨を見送る。紙パックはすでに空になっていたけれど、息を吹き込んで膨らましたりして遊ぶ。

 クラスメイトたちは教室から出るとき、俺に一言声をかけてくれる。励ましであったりからかいであったり、様々ではあるけれど、みんな俺に気を遣ってくれているのが痛いほどよくわかった。だからこそ、余計に申し訳なくなった。

 最後のグループが帰ると、教室は俺一人になった。

 太陽は校舎の向こうに隠れ、教室は蛍光灯の明かりだけが頼りだった。窓の外は代々呂の陽光と影とがくっきりとしている。グラウンドのほうでは、片付けを終えた運動部が練習しているらしい。

 完敗だな。俺はしばらく痛みと戦うっていうのに。

 さて、と気合を入れて立ち上がる。

 掃除用具入れのロッカーを開けて、箒を一本取り出す。

 普段内履き用のスリッパを使うが、体育祭の日は外靴で教室に戻って良いことになっていて、つまり教室中に砂が落ちていた。みんな疲れているから、明日の朝にでも掃除をしようということになっていた。

 机を整列させながら床を掃く。面白いように砂がたまっていった。部屋の隅から隅まで掃いた頃には、こんもりと小さな山ができあがる。舞い上がらないよう丁寧にちりとりへ移した。持ち上げた左手に、ずしりと重さが伝わる。

 窓から砂を捨てる。一階だ。階下の迷惑にもならない。ほとんどは地面へ落ちていったけど、いくらかは風にさらわれて飛んでいく。さららと涼しげな音を聞いた気がした。

 掃除用具入れの扉の裏に、雑巾がかけられている。その中から比較的綺麗な雑巾を選んで机を拭いた。ひとつひとつ丁寧に拭いていき、最後に教卓を拭いて、俺はようやく息をついた。

 聞こえていた声はもうない。

 一抹の寂しさを覚えながら、ドアを開けると橙色の太陽があった。浅い角度で夕陽が射しこんでいる。

 光の中、正面に内田がいた。「あっ」と、小さくこぼして笑った。

「お疲れ様でした」

「あ……え、なんで?」

 ようやく絞り出したのがそれだった。

「待ってた。一緒に帰ろうかと思って」

「すまん。もうちょっとだけ待ってもらえるか? 雑巾、洗ってこなくちゃ」

「うん。待ってる」

 食堂前の水道で雑巾を洗う。絞ったそれをロッカーに戻して扉を閉める。誰かがぶつかったせいで歪んでいるらしく、閉めるのにはちょっとした裏技か、力技がいる。ギィと軋みをあげて扉は閉じた。

 通学鞄を肩にひっかけて教室を出る。

「おまたせ」

 内田は俺のすこし前を歩く。ポニーテールがぴょこぴょこと跳ねている。

 自転車置き場で、内田は俺の物よりいくらか小さい自転車にまたがった。

「チャリ通だっけ」

「そうだよ。日によって変わるけど」

 学校を出てからしばらく、俺たちはどうでもいいようなことを話した。学校のこととかテレビの話とか、受験のこととか。

 土手が見えてきたとき、内田が寄り道をしたいと言った。

 堤防を登るスロープを、自転車を左右に振りながら必死に漕いだ。すでに筋肉痛の予兆がある。明日の朝が怖かった。

 登りきったところで自転車を停めて、土手の斜面に座り込んだ。雑草もずいぶんと育っている。

 見下ろした川面は、東から夜が流れてくるようである。

「どうしてあんなところにいたんだ?」

 なんとなく気になって質問した。

「あんなところ?」

「リレーのとき、三〇〇メートルくらいのところに」

「ああ、あれか。そのくらいで一番しんどくなるかなって思ったから」

「正直、すっごく助かったよ。結局、転んじゃってさ。かっこ悪いよな、あんな大事な場面でなんて……」

「悔しい?」

「もちろん」

 くすりと内田が笑みを浮かべる。

「でも黒沢くん、楽しかったでしょう。なんだかすごく嬉しそう」

「まあ……悪い気分では、ない」

「素直じゃない言い方」

 大声を張り上げながら、小学生たちが河川敷を自転車で爆走していた。競争をしているのか、門限に追われているのか。とにかく彼らは楽しそうだった。世界のすべては今ここにあるのだろう。

 俺の世界は、どこにあるのだろう。走っているときは、それが見えた気がしていた。

「ねえ、黒沢くん」

 少年少女を見送りながら、内田がぽつりと言った。

「うん?」

「私ね、眞鍋くんに告白されたんだ。勝ったし、一応って」

「へえ」

「好きな人がいるからって断ったんです」

「そうか」

「それと眞鍋くんが『ありがとうって言っておいてくれ』って」

 俺は思わず、噴きだしてしまう。

「礼を言われるようなことはしてないけど、律儀って言うのかな」

「なにが?」

「うーん……あれで純情というか一途というか、可愛いところがあるなって」

「わかんない」

 と、内田はすこしだけ不機嫌になる。

 俺の挑発にわざわざ乗ってくれたことからしても、眞鍋も悪い奴ではないのだろう。

 飛行機が一機、空のずっと高いところを飛んでいた。すーっと伸びた飛行機雲が、夕景によく映えた。ぽかんと口を開けて、間抜けにそれを見つめていた。

「今日の黒沢くん、かっこ悪くなかったよ」

 だから俺は、彼女の言葉に反応できなかった。どんな顔だったかを見逃してしまった。顔を戻したとき、内田はもう立ち上がっていた。

「帰ろっか」

 二人の影が飛行機雲みたいに、すーっと伸びていた。

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