世界のすべては今ここに
「いやあ、それにしても惜しかったなァ!」
高梨が俺の頭に肘を乗せ、わざとらしく言う。言い返す言葉もないので、俺は担任の武内がおごってくれた紙パックのコーヒー牛乳のストローを咥えて黙っていた。
「最後のリレーに勝ってれば優勝だったんだからなあ!」
教室はざわついていた。応援団は打ち上げの予定を話し合っている。仲の良いグループで、焼肉に行く算段を立てている奴もいる。
それぞれが高校最後の体育祭を締めくくりにかかっていた。
席を立ったギャル美が歩いてきて、俺の写真を撮る。
「なんだよ」
「面白い顔してるから」
写真の出来に満足しながら教室を出て行くギャル美が、ドアのところで立ち止まった。
「黒沢、今日はダサがっこ良かったよ」
「ダサ――」
「かっこいいは余計だぞ」
ダサいは余計だという俺の言葉を遮って、高梨が口を開いた。「それもそうだね」と、ギャル美は消えた。
「いやー、それにしても本当に惜しかったな」
「もういいだろ! もう帰れよおまえ」
「言われなくたって帰るけどさ。おまえ帰らねえの」
「俺はまだちょっと体が動かないから」
「あっそ。んじゃ、またな」
「じゃあな」
手を振って高梨を見送る。紙パックはすでに空になっていたけれど、息を吹き込んで膨らましたりして遊ぶ。
クラスメイトたちは教室から出るとき、俺に一言声をかけてくれる。励ましであったりからかいであったり、様々ではあるけれど、みんな俺に気を遣ってくれているのが痛いほどよくわかった。だからこそ、余計に申し訳なくなった。
最後のグループが帰ると、教室は俺一人になった。
太陽は校舎の向こうに隠れ、教室は蛍光灯の明かりだけが頼りだった。窓の外は代々呂の陽光と影とがくっきりとしている。グラウンドのほうでは、片付けを終えた運動部が練習しているらしい。
完敗だな。俺はしばらく痛みと戦うっていうのに。
さて、と気合を入れて立ち上がる。
掃除用具入れのロッカーを開けて、箒を一本取り出す。
普段内履き用のスリッパを使うが、体育祭の日は外靴で教室に戻って良いことになっていて、つまり教室中に砂が落ちていた。みんな疲れているから、明日の朝にでも掃除をしようということになっていた。
机を整列させながら床を掃く。面白いように砂がたまっていった。部屋の隅から隅まで掃いた頃には、こんもりと小さな山ができあがる。舞い上がらないよう丁寧にちりとりへ移した。持ち上げた左手に、ずしりと重さが伝わる。
窓から砂を捨てる。一階だ。階下の迷惑にもならない。ほとんどは地面へ落ちていったけど、いくらかは風にさらわれて飛んでいく。さららと涼しげな音を聞いた気がした。
掃除用具入れの扉の裏に、雑巾がかけられている。その中から比較的綺麗な雑巾を選んで机を拭いた。ひとつひとつ丁寧に拭いていき、最後に教卓を拭いて、俺はようやく息をついた。
聞こえていた声はもうない。
一抹の寂しさを覚えながら、ドアを開けると橙色の太陽があった。浅い角度で夕陽が射しこんでいる。
光の中、正面に内田がいた。「あっ」と、小さくこぼして笑った。
「お疲れ様でした」
「あ……え、なんで?」
ようやく絞り出したのがそれだった。
「待ってた。一緒に帰ろうかと思って」
「すまん。もうちょっとだけ待ってもらえるか? 雑巾、洗ってこなくちゃ」
「うん。待ってる」
食堂前の水道で雑巾を洗う。絞ったそれをロッカーに戻して扉を閉める。誰かがぶつかったせいで歪んでいるらしく、閉めるのにはちょっとした裏技か、力技がいる。ギィと軋みをあげて扉は閉じた。
通学鞄を肩にひっかけて教室を出る。
「おまたせ」
内田は俺のすこし前を歩く。ポニーテールがぴょこぴょこと跳ねている。
自転車置き場で、内田は俺の物よりいくらか小さい自転車にまたがった。
「チャリ通だっけ」
「そうだよ。日によって変わるけど」
学校を出てからしばらく、俺たちはどうでもいいようなことを話した。学校のこととかテレビの話とか、受験のこととか。
土手が見えてきたとき、内田が寄り道をしたいと言った。
堤防を登るスロープを、自転車を左右に振りながら必死に漕いだ。すでに筋肉痛の予兆がある。明日の朝が怖かった。
登りきったところで自転車を停めて、土手の斜面に座り込んだ。雑草もずいぶんと育っている。
見下ろした川面は、東から夜が流れてくるようである。
「どうしてあんなところにいたんだ?」
なんとなく気になって質問した。
「あんなところ?」
「リレーのとき、三〇〇メートルくらいのところに」
「ああ、あれか。そのくらいで一番しんどくなるかなって思ったから」
「正直、すっごく助かったよ。結局、転んじゃってさ。かっこ悪いよな、あんな大事な場面でなんて……」
「悔しい?」
「もちろん」
くすりと内田が笑みを浮かべる。
「でも黒沢くん、楽しかったでしょう。なんだかすごく嬉しそう」
「まあ……悪い気分では、ない」
「素直じゃない言い方」
大声を張り上げながら、小学生たちが河川敷を自転車で爆走していた。競争をしているのか、門限に追われているのか。とにかく彼らは楽しそうだった。世界のすべては今ここにあるのだろう。
俺の世界は、どこにあるのだろう。走っているときは、それが見えた気がしていた。
「ねえ、黒沢くん」
少年少女を見送りながら、内田がぽつりと言った。
「うん?」
「私ね、眞鍋くんに告白されたんだ。勝ったし、一応って」
「へえ」
「好きな人がいるからって断ったんです」
「そうか」
「それと眞鍋くんが『ありがとうって言っておいてくれ』って」
俺は思わず、噴きだしてしまう。
「礼を言われるようなことはしてないけど、律儀って言うのかな」
「なにが?」
「うーん……あれで純情というか一途というか、可愛いところがあるなって」
「わかんない」
と、内田はすこしだけ不機嫌になる。
俺の挑発にわざわざ乗ってくれたことからしても、眞鍋も悪い奴ではないのだろう。
飛行機が一機、空のずっと高いところを飛んでいた。すーっと伸びた飛行機雲が、夕景によく映えた。ぽかんと口を開けて、間抜けにそれを見つめていた。
「今日の黒沢くん、かっこ悪くなかったよ」
だから俺は、彼女の言葉に反応できなかった。どんな顔だったかを見逃してしまった。顔を戻したとき、内田はもう立ち上がっていた。
「帰ろっか」
二人の影が飛行機雲みたいに、すーっと伸びていた。




