走り出したら
第三コーナー(正確には第五コーナーになるが)通過順に色が呼ばれていく。慌ただしく並び、次々にバトンが繋がれていく。六番目にバトンを受け取った内田は圧倒的に速かった。
まず加速が違う。無駄な力が一切かかっていない。上体は全力疾走でもほとんどぶれない。身体の小ささを忘れるほどに力強い走りだった。
ぐんぐんスピードを上げていき、あっさり一人を抜き去った。まったく足を緩めず、あっさり先頭集団の尻尾を捕まえた。
アンカーが順番に呼ばれていく。
内田はコーナー手前で四番目の青の背中につく。
まず白がトップでバトンを受け取る。ついで赤。黄色がわずかに早く、青と内田がその背後から走ってくる。
肺の空気を一度全部抜く。
内田が外に膨らんで、バトンパスのコースに入る。
青より先に内田が来る。
肩幅よりすこし広く足を開いて腰を落とす。体重移動で一歩目を踏む。緊張が高まる。大丈夫。鼓動が速くなる。
黄色が動き出した。
まだ、まだ……。;
動き出したくなる衝動にブレーキをかける。目一杯に酸素を取り込んで、息を止めた。
――走れ!
内田の瞳が叫んでいた。
振り向く勢いと、落ちていく身体の重さを、そのまま加速に変換する。
走り出したら、観衆の姿も声も、余計な物はすっと抜け落ちた。頭は真っ白になる。決して緊張ではない。考える必要のないことが、すべて消え去った。
人間として最もシンプルな姿。
「はいっ!」
内田の声に、左手を差し出すと、バトンが触れる感触。それをしっかり握って、きっと前を睨んだ。
第一コーナーで黄色を捉えた。カーブもお構いなしに抜く。直線でぐんと速度が増した。赤を抜くと、先頭の眞鍋が見えた。すでにコーナーを回っている。
速度は優勢。背中はどんどん大きくなる。
あっという間に一周。二〇〇メートルを過ぎても脚は動く。
ストライドが自然と伸びる。視界がぶれない。風を突き抜けていく、全力疾走の感覚。。決して力任せではない、全身の動きが最適に噛み合っている。
コーナーを回り、直線へ出る。背中がすぐそこに見えた。
勝てる――
確信した瞬間だった。
せき止めていた空気が一気に口から漏れ出た。
途端に全身が疲労を思い出す。
肺が握り潰されたように痛く、心臓は割れそうだった。両脚は重く、鈍い痛みを訴える。筋肉のほとんどは動かなくて、転ばないための本能が、慣性で前へと進めているような状態だ。
呼吸が上手くできない。徐々に引き離される。一歩一歩が拷問のように長い。
視界が暗くなる。足裏の感覚も怪しい。
もうこのまま――
「負けるなっ!」
声がした。内田の声だ。
首を動かす余裕はないけれど、自然と目玉がそちらへ動いた。
内田がいた。
俺が一番苦しい場所で、待っていてくれたんだろうか。頭をよぎった考えが、泡のように消えた。
一瞬だけ目が合った気がするが、確かめる間もなく内田は背後に消えた。
肺を搾り、搾りきって、新しい空気を吸い込む。
すっからかんの肉体に、声援が一滴。
体は軽くなんてならない。
相変わらず心肺は破裂しそうだった。脚は鉛でできている。苦しいものは苦しい。
けれども俺の底から溢れ出す何かが、身体を突き動かしていた。
腕を振る。歯を食いしばる。地面を蹴る。
目標は眞鍋の背中ではない。その先のゴール。腿を上げるのではない。脚を畳んで前方へひきつける。
最後のカーブに入る。もはや曲がろうという意思はない。身体が勝手に進路をとる。ゴールまでの最短距離を、全力で走りぬける。
カーブの終わり、遠心力に逆らえず外に膨らんだ。これでいい。内側に抜くスペースなんてない。
直線に入って、ほとんど真横にまで追いついた。
無駄な力を抜く余裕なんてない。意地と根性とだけが、俺に残ったすべてだった。
あと数メートル、あと何歩もない――
眞鍋の姿が、視界から消えた。
浮遊感にとらわれる。地面が近付いてくる。
ほら、脚を出せ。転ぶぞ。遊んでる場合じゃないだろ。脳からの命令に、しかし身体は従わない。そのくせ咄嗟に両腕は、俺の頭を守っていた。そんなことしている場合じゃ――
目をぎゅっと瞑る。
世界が回転した。全身を打ち付けるが痛みはない。
土を滑る感覚。天地がはっきりとする。目を開けてゴールを目指す。しかし、ゴールテープもゴールラインも目の前にはない。
眞鍋がガッツポーズで仲間に抱きしめられている。
後ろを見ると、ゴールラインがあった。勝敗は、明白だった。
口の中に土の味がひろがっている。
吐き出そうにも、唾液がまったく出てこない。頭の中に鼓動が響く。全身が酸素を欲しがっていた。
倒れてしまいたかった。けれども、そんなわけにもいかなくて、力の入らない脚に力をこめて、なんとか立ち上がって歩き出す。
膝を曲げるだけの筋肉も働かない。倒れないのが不思議だった。
空を見上げた。いや、空なんて見てはいない。新鮮な空気が欲しくて、自然と顎が上がっただけだ。
呼吸をしているのか、脈動に喘いでいるだけなのか、わかったものじゃない。
回収係に襷を渡して、ふらふらとグラウンドから遠ざかっていく。退場門から真っ直ぐに食堂へ。
ベンチに倒れこむように座って、両脚を体重から解放してやった。じわりと疲労が広がっていく。呼吸はまだ落ち着かない。
机に背中を預けて、全身から力を抜く。日が暮れていくにおいがした。今日は雲が少ない。きっと綺麗な夕焼けだ。
悔しい。
勝てそうだったこと、転んだこと、負けたこと。どれもこれも悔しかった。
もう一度チャンスがあるなら、今度こそ勝ってみせる。その自信もある。
けれど、完敗だった。
眞鍋はリードを守るだけで良かった。最初から全力でなど走っていない。俺に勝つ見込みがあったとすれば、あの瞬間、転ばずに駆け抜けた場合だけ。早くても遅くてもいけない。
絶好のタイミングで、俺は転んだのだ。
けれどもその悔しさは、なぜだか心地良かった。
全力で走れたことに、俺は満足していた。
眞鍋や内田のことなんて忘れていた。優勝したいなんて気持ちは、毛ほどもなかった。
走り出したら、何もかもが俺の中から消えていた。
他の誰でもない自分自身に打ち克つために、己の限界はここではないと知るために。
生きるということの、もっともささやかな贅沢ができたのだ。
そうだ。俺はようやく走れたのだ。
中学時代、どれだけ走っても味わうことのなかった感覚。疾走するという感覚を、俺はようやく知ったのだ。
勝てなかったことは悔しい。けれども、俺は満足だった。




