勝ってこい
「よう。入れよ」
「入れよ、じゃなくてさ」
そう言いながら全身が現れた。ご丁寧にきちんとドアを閉める。
水を止めて足をおろし、改めて千佳を見る。
「あれ、髪切った?」
以前は肩より長かったはずの髪が、うなじが見え隠れするくらいに短くなっている。髪質のせいか短くなるとなんとなく、髪先がツンツンして見える。
「今さら? 切ったの春休みよ」
「へえ。じゃあ久しぶりだな」
「そんなのいいから。どこケガしたの? 右足?」
ショートになった頭をかしげて言う。
「足洗いに来ただけだから」
「どこ」
平坦な口調。俺の扱い方を心得ているなあと感心する。対して俺は、こいつのあしらい方をよく知らない。いや、もともと俺が適当言って煙に巻いていたからこうなったのかもしれないけれど。
「右足の親指だけど、大したケガじゃ――」
「そこ、座って」
食い気味に、ほとんど命令口調である。抵抗しようと思うけれど、やはり上手い文句が浮かばない。しかたなく千佳の指した椅子に腰かける。
左の太ももに足を乗せて、ケガを確認する。特別外傷はなかったが、親指の爪が、マニキュアを塗ったように赤くなっている。おそらく棒倒しのどこかで、誰かに引っ掛けて一度剥がれかけたのだろう。幸いなことには、完全に剥がれてはいない。しばらく放っておけば、自然と治るはずだ。
「うわあ……マニキュアみたい」
気付けば千佳が屈みこんで俺の足をまじまじと見ていた。体勢と角度のせいで、襟のところから胸が見えていた。俺はそれとなく明後日のほうを向く。
「どうしたの?」
「おまえと同じセンスだってことにショック受けてるの。ほっとけ」
「はいはい。で、どうするの?」
「絆創膏でも巻いて、剥がれないように押さえるつもりだけど」
「それでなんとかなるの?」
「なるだろ。たぶん」
「ふうん」
納得したようなしていないような曖昧な返事をよこして、千佳は絆創膏を探し始める。
ちょいと指を引っ掛けて持ち上げてみる。かすかな抵抗を感じたが、それ以上の痛みと簡単に剥がせてしまいそうな感覚に、俺は慌てて手を離す。逆に上から押してみる。痛いは痛いが、だんだんと痛みは引いていく。なんとかなるだろう。
「もしかしてわざわざ追いかけて来てくれたのか」
「もしかしなくたって、わざわざ追いかけて来たの。あんた、歩き方変だったし」
「そうか、変だったか」
「それに、大切なときにバカやるの、昔からでしょ……あ、あった」
高梨にも言われたことだ。否定する言葉が見つからない。
「ほら、足出して」
「ん」
拗ねた感じに足を出す。感じ、というか、本当に拗ねているのだけれど。
姉妹に世話を焼かれる男というのは、いつも気恥ずかしくまた情けなくて素直に好意を受け取れないのである。もっとも、本当の姉は千佳ほど細かいところに気付いて、フォローしてくれる人ではない。
丁寧な手つきで、絆創膏を爪に乗せる。細い指だった。それに手だって小さい。ずっと同じようなサイズだったはずなのに、いつの間に差がついたのだろう。
「ちょっと痛いかも」
思い出に浸っていると、不穏な言葉が聞こえた。
「いッ――」
直後、爪の内側に針をつきたてられたような痛みに襲われた。すぐにそれは和らいでいったが、若干の違和感が残った。
「――ッてえな!」
「だから痛いかもって言ったでしょ」
「それにしてもだ」
「ほら、かわりにサービスで二枚貼っといたから」
「そんなサービスいらない」
「修ちゃんにじゃなくて。聞いたよ、リレー、出るんでしょ」
「ああ、そうだけど」
とはいえ、爪自体はしっかりと固定されていた。指で様々な方向から力を加えてみたが、すこし痛むが問題はなさそうだった。
「私の友達を悲しませたら許さないから」
「……頑張るよ」
「よし。靴、保健室の外に置いておいたから」
「取って来てくれたの?」
「そう。だから先行っといて。私、ゴミ捨てたりしないといけないから」
「うん。ありがとう」
保健室を出ると、ドアのわきにきちんと並べて靴が置いてあった。靴と、中の靴下だけだ。
「あれ? 体操服なかった?」
「え? 見当たらなかったけど」
「あ、そう」
保健室を出て、靴下を引っぱりだして、爪に引っ掛けないように慎重に履く。靴も履いてから、もう一度保健室を覗く。
千佳は俺が足を洗った洗面台を洗っていた。
「なあ千佳」
「なに?」
首の動きだけでこちらを向く。見慣れた顔がなぜだか新鮮に、また懐かしくも感じられた。髪を切ったからではないだろう。
「ありがとう。勝ってくる」
「うん。勝ってこい」
返事を聞いて、ドアを閉じた。
校舎を出て、軽く走りながらテントを目指す。足の調子を確かめるためだ。問題はない。全力で走っても大丈夫だろう。
テントはすでに打ち上げムードに入っていた。ぐちゃぐちゃになった荷物の中に、もみくちゃになった俺の体操服があった。
なんだか釈然としないまま体操服を着る。得点板を見ると結果発表を盛り上げるためか表示が隠されている。まあ、もうどちらでも良い。高梨を目立たせるという約束は果たした。眞鍋とも、リレーとはいえ直接走りで勝負できるのだから、総合順位なんて、もはやおまけだ。
足首を傷めた鈴やんが、テントの中で寝転がっていた。彼にひとつ頭を下げてから、入退場門前へ向かう。
団対抗リレーは、各クラス男女一名ずつがバトンを繋ぐ。学年混合競技は、これひとつである。一年から女子、男子の順で走り、三年の男子がアンカーを任されるというわけだ。
変則スウェーデンリレーで、一年は共通して一〇〇メートル、二年女子が二〇〇、男子が三〇〇、三年女子が二〇〇、男子が四〇〇メートルを走ることになる。
集合場所には、すでにほとんどが揃っていた。係りに学年と組を告げると、アンカー用の襷を渡された。それを肩にひっかけながら、一番後ろに並ぶ。小さな頭が俺を振り返った。
「調子、良さそうだね」
「わかる?」
「良い顔してる。楽しそう」
そう言う内田も、これまでになくにこにことしている。
「まあな。こんな気持ちで走るのは、いつ以来かってぐらいだ」
「こんな気持ち?」
「走りたいって」
内田は呆気に取られたように目をぱちくりさせ、それから微笑んだ。
「じゃあ、安心してバトン渡せるね。頼んだよ、アンカー」
「おう、頼まれた」
アンカー、か。
俺が最終走者をやるのは、中学最後の大会以来なかったことである。
悔しさを感じなかった。わかりきった敗戦。短距離はなにより才能が物を言う世界だ。中学の三年間、それに抗ったつもりだったけれど、最後の大会で俺ははっきりとそのことを感じた。
『あー、えー』
と、スピーカーから一日ですっかり嗄れた放送部の声がした。『これより最終種目、団対抗男女混合リレーを行ないます。お疲れかと思いますが、皆さま精一杯の声援をお願いします』
列が静かに動き出す。
それぞれが自分のスタート位置に分かれる。一年女子が斜め一直線に並ぶ。半周先で一年男子が待ち構える。ぼうっと立つ奴や、アキレス腱を伸ばす奴、先輩に野次られて困った顔をしている奴もいる。
誰にも共通しているのは、一目で運動が得意だとわかることだ。体型、筋肉のつきかた、身のこなし。
誰一人、運動音痴などいない。
肌の白い奴もいるけれど、どうせ室内競技というだけだろう。全員が運動部でも不思議はない。
帰宅部なのは俺一人かもしれない。けれども、負ける気はなかった。
「よう、黒沢」
やる気に満ちた顔をして、眞鍋が近付いてきた。
「あ?」
「俺が先にバトンもらったら待っててやろうか。鈍った身体にはきついだろ」
「ふざけてんのか、てめえ。四〇〇は短距離だろうが」
おそろしいことに、四〇〇メートルは短距離走に部類される。競技用トラック一周分だからか、人間の全力疾走の限界が四〇〇メートルと言われるからなのかは知らない。
中学時代には二〇〇メートル走でさえ、後半スピードの落ちていた俺である。しかも三年のブランクがあった。短距離が専門だったからと言って、バリバリ現役の眞鍋に有利な点は何もない。
それでも馬鹿にされたままではいられなかった。
「位置について。用意」
ピストルが鳴る。自然と走者を目で追ってしまう。
「悪かったな」
喧騒にまぎれて眞鍋の声がした。振り向くと、すでに自分の組へと引き返していく背中しか見えなかった。
すこし気を取られている間にもリレーはどんどん進んでいく。二年女子にバトンが繋がれていく。
黒は六番手だ。後続に白の姿はない。第二コーナーを回って、白が先頭でこちらに向かってくる。
よりによってかと歯噛みする。
ぽんと、背中を叩かれた。やる気を微笑みに湛えた内田が、俺を真っ直ぐに見上げている。
「待ってて」
言い残して、内田は第五走者の待機場所へと歩いていく。その背中はやけに頼もしく見えた。




