空気読めよ
開会式は滞りなく執り行われた。いつも短い校長の挨拶はいつにもまして短く「いかな事情があるにせよ、スポーツマンシップに則って、楽しむように」だけだった。
プログラムの一番は短距離走だ。男女共に一〇〇メートルで行なわれる。あの後も実績作りに燃える新聞部によって、眞鍋も一〇〇メートル走に出場することは知っていた。
長距離だと圧倒的に分が悪いので、先手を打っておいて助かった。
入場門前に集合すると、係りの男子生徒が出走順に並ばせていく。女子の点呼が行なわれている後ろで、俺は眞鍋と適切に距離をとりつつ呼ばれるのを待つ。
女子が終わり、男子が一年から順に並んでいく。短距離は各クラス男女二人ずつ出場する。一年の一レース二レース、二年の一レース二レースが並び終え、いよいよ俺たちの番になる。
「えー三年、一レース一コースから順番に、緑、山本。黒、黒沢。赤、井口。白、卜部……」
「は?」
俺は思わず声をあげた。列を離れて係りの男に近付く。
「ちょ、ちょっと待てよ。それマジで言ってんのか」
「え、はい。だってここに書いてますし……」
下級生なのだろう、困ったように出場名簿を見せてくる。たしかに俺は一レース、眞鍋は二レースに入っている。
「いや、それはわかるけど……そういうんじゃなくてだな」
俺がそうして食い下がっていると、
「なにしてるの」
と、女が割り込んできた。
学校指定のジャージを着たその女は、生徒会長の川上だった。無駄に意志の強そうな太眉が、きりりとつり上がる。
「あのさ、これ、走る順番ってどうやって決めたの」
「抽選だけど」
「まあ、そうだろうな。そうじゃなくてだな、だからなんと言うか、空気読めよ」
「貴方たちの事情は知ってるけど、だからって特別扱いはできないから。さっさと並んでよ」
取り付く島もない。たぶん、彼女に何を言っても無駄だろう。今においてだけでなく、抽選前に頼んでいたって不正など認めなさそうだ。
さっき高梨が謝っていたのはこれだ。あいつはあいつで、俺と眞鍋が同組になるように頑張ってくれたのだろうが、この頭の固い生徒会長に阻まれたのだ。
舌打ちをして列に戻る。整列を終え入場する。グラウンドを突っ切って端まで行く。
四〇〇メートルトラックは存在しない。観客席などが周囲を取り囲むこともあって、体育祭では一周二〇〇メートルトラックとして使用する。ストレートを大きくオーバーして作った直線路で走る一〇〇メートル走を除いては、来賓席前がゴール地点となる。
くそっ。この展開はまったく想像していなかった。
何の根拠もなく、どうせ同じ組になると思い込んでいた。
うやむやになってしまっては意味がない。どちらかが総合優勝でもすればなんとなく誤魔化せる気もするが、それに賭けるというのもいささか不安が残る。
どうしたものか……。
頭を悩ますうちに順番がくる。二年二レースの後ろに立つ。中学以降、スパイクもスターティングブロックも使わないのに、クラウチングスタートを採用するのはなぜだろう。足が滑って、逆に走りづらいのだ。
パン、と乾いた音が響くと、前走者は一斉に走っていく。風に乗って、懐かしい火薬のにおいがした。
スイッチが切り替わり、頭を悩ませる細々した問題がすっといなくなる。俺はこのにおいが好きだった。
スタート位置に入って、つま先で地面を蹴り、足を回転させるように穴を掘る。多少のくぼみでもマシにはなるだろう。
「位置について」
イガグリ頭の男が声をあげる。
まあいい。ともかく勝とう。
ゴールラインを睨んでから、自分で掘ったくぼみにつま先を入れて、膝と手をつく。
「ヨーイ」
膝を浮かせて、腰を上げる。呼吸を合わせる。
視線は、一歩先へ。
号砲が耳に届くのと地面を蹴るのは同時だった。身体が起き上がろうとするのを堪える。落ちるように加速。徐々に上体を引き起こしていく。
まっすぐに前を向く視界の中に残っていたのは一人だけ。速い。
全力疾走をしていても、身体はぶれない。腕の振りと足の振りが連動し、まったく無意識に速度が上がっていく。相手もほとんど同じ速度で、真横にぴたりとくっ付いてくる。
五〇を過ぎる。ふいに、顧問だった爺の声が頭に響く。
「ゴール前で競り合ってる奴に勝つコツはな、ええか、勝とうとせんことやぞ。どんだけ上手にやったって、全力で走れば力が入るもんや。最後の最後、どうしても勝ちたいと思うときは、全身の力を抜くことや」
走りながら力を抜けるものかと、当時の俺は思っていた。けれども今は、それしかないと本能が叫ぶ。
せき止めていた息を口から抜く。地面を蹴った脚が、ぐんと伸びる。足裏はしっかりと地面を捉まえて、勢いと腕の振りが身体を前方に押し出していく。
今の今まで競り合っていた相手が、ふっと視界から消えた。
ゴールテープを胸で切る。すぐには止まれずに、しばらく走って食堂前の植垣まで行って、ようやく後ろを振り返る。
息があがっていた。汗が肌からわきあがる。興奮がゾクゾクと背筋を駆けるくすぐったい手を握って、開いて、自分の感覚を確かめる。
勝つという快感を思い出した。けれどもこれは、それ以上の何かを孕んでいる。
ウォータークーラーの水で顔を洗ってから黒団のテントに戻ると、手荒い祝福に出迎えられた。それをいなしながら、テント下の日陰に座る。
「速くなってない?」
高梨が俺の頭をがしがし撫で回しながら言った。
「三年もあったからな」
ただ過ぎていった、三年間だけれども。
あとで捕まえなくてはと思っていた高梨が向こうから来てくれたので、ついでに訊ねた。
「眞鍋ってあと何に出る?」
「団対抗リレーだったかな」
「……マジか」
体育祭の目玉というか花形だろうリレーは、数種類ある。学年別の四×二〇〇リレーとスウェーデンリレー。それから各学年から代表を一人ずつ出す団対抗リレー。これはプログラムとしても最後に置かれる。
だいたいどこのクラスも一番運動のできる奴を送りこむ。俺は出場予定がなかった。
「ってことは、あとは棒倒しだけか」
棒倒しは約八十名同士の争いになるので、たとえ完勝したところで、総合優勝の手助けになっても眞鍋に勝ったことにはならないだろう。
「そうだ、その棒倒しだ。結局どうすんの」
「奇数クラスの代表っていうか、音頭とってそうな奴を昼飯に誘っておいてくれ。どうするかは、まだ考え中」
「了解」
「あ、もちろん、できるだけ人目につくなよ。昼食う場所もな」
「わぁってるよ」
「悪いな。おまえ、今日大忙しなのに」
「オレがやりてえって言ったんだから、いいよ全然。借り物競争出て、生徒会の仕事して、応援団やって、クラブ対抗リレー出て……黒沢なんかと喋ってるヒマねえわけよ。んじゃな」
用事が終わると、高梨はさっさと行ってしまう。その背中は楽しそうに上下する。
グラウンドでは一年女子の大縄跳びが行なわれていた。
俺は入学以来、この競技だけは真剣に見ると決めている。働き者の友人などすっかり忘れ、飛んだり跳ねたりする女子を観察する。
胸が暴れる。裾をズボンに入れないから、体操服が空気を孕んでへそが見え隠れする。一体誰がこれを種目として取り入れたのか。天才だと言わざるを得ない。放送部の実況が、良い具合に下級生たちを煽り、時間が進むほどに真剣みを帯びてくる。
跳び終えた少女たちは頬を上気させ、汗で髪を額にはりつけて、襟くいっと引き上げて口元を拭ったりする。
まったくもって健全に不健全な光景だった。
自分の次の競技である、スウェーデンリレーの呼集が放送されたとき、ちらりと得点板を確認すると、黒と白が頭ひとつ抜け出していた。新聞部に頼んだことと、高梨のイメージアップ工作は、きちんと効果があったらしい。そういえばテントの下にいても、敵意のない視線をいくらか感じた気がする。
まあ、いいや。勝てるなら勝ちたいものだけれど、総合優勝が必要なのは俺ではなく高梨のほうなのだから。
いや、しかし、だ。一〇〇メートル走で直接勝負できなかった以上、眞鍋に勝つには総合優勝するしかないのではないか。
いや、いやいや。どちらかが勝てば良いのだ。それで周囲には決着となるのだから。あとは内田と眞鍋の問題だ。俺は関係がない。
関係はないのである。




