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走り出したら  作者: 肉団子
1章
17/124

体育祭だ

「大会あったんだろ。どうだった」

「おかげさまで、なんとか次があるよ」

 なにがおかげさまなのか。突っついたら面倒なことになる気がしたので、俺は聞き流すことにした。

「こんな時間までなにしてんだ。帰宅部だろ」

「別になにも。散歩したりコーヒー飲んだり」

「いいよな、おまえは」

 嫌味ったらしく、眞鍋が俺に吐き捨てた。夕陽がかかったせいで、表情は判然としないけれど、うっすらと見える彼の目には明らかな侮蔑と、かすかな嫉妬があった。

「そうやって毎日だらだらしてるだけのくせに……」

「あ?」

 さすがに頭に血が上ってくる。この前のことは事故だろうと思って、水に流してやっているのに、どうして喧嘩を売られなくちゃいけないんだ。

 態勢が悪い。そっと腕と足の位置を変えて、いざというとき動きやすい姿勢を整えた。まずは逃げる。それから向き合う。

「楽しいわけ? それで」

 眞鍋は鼻をならす。

 股間を蹴り上げてやろうか。足を振り上げれば調度良い位置に股がある。

 いや、そうじゃない。こいつが喧嘩腰なのは明らかだけれど、俺はそうじゃない。別にこんな奴、どうだっていいんだ。どこかで恨みを買ったんだろう。それだけだ。

 風に揺れる木々のざわめきが、俺の心の中で何倍にもなってやかましい。穏やかでいられない。

 どいつもこいつも、どうして楽しいかどうか訊ねるのだろう。

 苛立ちが衝動となって、俺の足を動かした。蹴りはしない。一度上げた足を振り下ろし、勢い込んで立ちあがる。眞鍋が一歩、後退さる。見下ろされるのがむかつくから立ちあがったが、どうやら真鍋のほうがほんのすこし身長がある。俺は顎を軽くあげ、わざと見下ろすようにした。

「楽しくないといけないわけ?」

 自分でも驚くほど冷笑的な声が出た。対象はたぶん、彼ではない。

「ま、どうでもいいけど」

 呆れたように言い捨て、眞鍋は小走りに去っていった。その背中を睨みながら、俺は腹の底が熱くなってくるのを感じていた。

 結局あの野郎、喧嘩売って何がしたかったんだ。

 楽しいか? それがおまえらに、何の関係があるんだ。

 俺はそうやって、干渉されるのが鬱陶しくて、とやかく言われないように大人しく生きてきたんだ。事なかれ主義なのは、後天的に獲得した処世術でしかない。

 何も望みはしない。だから放っておいてくれ。

 楽しいか? 楽しいわけがない。

 眞鍋がいなくなった後も、腹の虫はおさまらない。

 キンと高い音がして、野球部のボールが飛んでくる。ころころと足元にきた珠を拾いあげ、帽子を取ってすでに礼をしている野球部員が目に入った。

 距離があるのを良いことに、俺は渾身の力をこめて白球を投げる。遠心力に指先の血管が悲鳴を上げる。ジンと熱くなる。それが心地良い。

 一瞬、すっとした感情が、また底のほうから湧いてくるのを感じた。

 足が自然と走り出した。開きっ放しの扉から三号館校内に入り、階段を駆け上り、三階で渡り廊下をふたつ越え、薄暗い一号館の廊下の突き当たりにある、生徒会室の前まで一気に駆けた。

 勢い任せにガラガラとうるさいドアを開ける。

 生徒会メンバーと顧問の先生とが、何事かという視線を俺によこす。その中の、高梨の両目をまっすぐに見据える。

「勝つぞ」

「何にだよ」

 高梨はわかっているくせに問う。俺もそれを承知で答える。

「体育祭だ」



 右足で地面を蹴って、左足を振り上げた。頭が、肩がバーを越え、けれど足をひきつける前に腰が触れてしまう。バーもろともマットに自由落下していった。

 土埃が舞い上がるマットに沈んで見上げた空には、俺を嘲笑うように悠々と飛行機が泳いでいる。走高跳における一メートル五〇センチは、実際よりも高く感じられた。

 バーをスタンドにかけて、待機位置に戻る。すかさず高梨が寄って来た。

 五月半ばの陽射しは、初夏の輝きだった。それでも湿度は高くない。汗をかくことが気持ち良かった。

「で、どうするよ」

「なにが」

「体育祭。勝つってのは悪くねえけど、俺は目立ちたいの」

「あのね、高梨くん。勝負事で一番目立つ奴ってのは、勝った奴なんだよ」

「……たしかに」

 どうして高梨はこんなにも素直に物を受け入れるのだろうと俺は疑問に思う。頭が固くないくせに考える努力をまるでしていないというか。

「まあ、その目立つってやつもちょっとは考えがある。それはまた後でいいんだけどさ」

「他に何かあるのか?」

「どうやって勝つんだってことだよ」

「普通にやりゃいいんじゃねえの?」

「個人種目だけならな。でもおまえは総合優勝しないとダメだろ? 俺だって、やるからには優勝が良い」

 我が校の体育祭では各学年が抽選で八色にわけられ、色ごとの八チームで争うことになる。その抽選と結団式とが、もうそろそろのはずだ。

「って言ったってよ、どうすんの?」

「さあ? ま、やる気になってもらう何かがありゃいいんだけどなあ。あ、そういや学年別競技ってなに?」

「去年と一緒。オレらは棒倒し。男女混合のほうは……なんだっけ。三〇人リレー?」

「棒倒しか」

 偶数クラスと奇数クラスに分かれて、互いの棒を倒しあう。上半身は裸に裸足、殴る蹴るは禁止。一、二年のころは、もみくちゃになっているのを遠くから見ていた。

 さて、なにか上手い手はないか。

 考えていたところ、体育のクラスメイトがどよめいた。競技が行なわれているほうを見ると、ちょうどマットに飲み込まれていた真鍋がバーを持って立ち上がるところだった。

 なぜこんなに周囲が盛り上がっているのだろう。眞鍋は専門が長距離だから、失敗に驚くこともない。成功したならともかく、だ。

「なにこのテンション」

「はあ?」

 と、高梨が俺のほうを見る。「なに? おまえ知らないの?」

「何を」

「当事者なのに?」

「だから何が」

「噂になってるぞ。おまえと眞鍋が内田の取り合いしてるって」

「あ? なにそれ。なんでそんなことになってんの」

 俺の番が回ってきていたが、ジェスチャーで先に跳んでくれと言う。

「新聞部の壁新聞に出てた、って俺は聞いたけどな」

「新聞部? そんなのこの学校にあったか?」

「いちおう」

 聞いた、ということはどういう内容は訊ねても意味がないだろう。後で自分の目で確かめるしかない。

 しかし、なるほど。だから俺と眞鍋が同じところでバーを落としたから、競い合っているようで、周囲は盛り上がっているのか。

 ぼんやり空を見上げながら、考えるともなく考える。言葉や、情景や、感情が、早送りをした雲の映像のように、頭の中を過ぎていく。

「あっ」

「あっ」

 と、声をあげたのは、高梨とまったく同時だった。お先にどうぞ、と譲られる。

「放課後、時間あるか」

「ああ、あるぞ。俺は今気になったことがあるんだけど」

「なに?」

「背面跳びってどうやるんだ?」

「えらく唐突だな」

「だって残ってる奴はほとんど背面跳びだろ? オレ、習ってねえぞ」

「俺だって習ってないけど。はさみ跳びをやってたらこう、自然とならない?」

「ならねえなあ」

 そういえば俺も、いつから背面跳びになったんだっけ。

 たしか……中学一年生だ。当時まだ一番のチビだった俺は、それはもう頑張って体格にも運動神経にも優れるクラスメイトと戦った。それなのに授業終わりに先生から、「背面跳びなんて教えていないから参考記録だ」と言われ、はさみ跳びをやっていたつもりの俺はショックを受け、その後は意固地になってわざと背面跳びをやっていた。

 歓声があがる。眞鍋が一メートル五〇センチをクリアしたらしい。

 スタート位置に立つと、視線が突き刺さるのがわかった。耳障りなささめきが届く。苛立つ気持ちを、肺の底から絞り出して、新鮮な空気をいっぱいに吸う。

 そうだ、最初は余計なことなんて、考えていなかった。女子でさえクリアしていく高さに躓いた恥ずかしさが、まるでなかったとは言わないけれど、頭の中にあったのは、ただいかにしてバーを跳び越えるかということだけ。

 純粋だった。助走のしかた、踏み切り位置、姿勢。いろんなことを考え、とどのつまり思い切り跳ぶ以外に方法はないと気がついた。

 スタンドとバー、マット、そして俺とそこを結ぶ走路だけがくっきりと見える。すうっと雑音が遠退いていく。

 無意識のうちに片足を後ろに下げて、地面を蹴った。リラックスした状態で、加速していく。バーが近付く。軽い曲線を描いて進入。踏み切り足は大きく出して、身体は軽く上を向く。

 高く!

 踏み切り足で地面を叩く。反対のリード脚を振り上げる。

 身体は自然と伸び上がり、意識とは関係なくバーに背中を向けるように回転する。

 跳べた。

 実感が先に湧く。

 頭が、肩が、腰が。バーを越えていく。下半身を引きつけるように、脚もバーを越えていき、ガツンとなにかにぶつかった。

 何が起きたかわからないままマットに落ち、さらに転げるようにして地面に落ちた。

 真っ白になった頭を上げて、状況が飲み込めた。勢いがつきすぎたのか、踏み切り位置が悪かったか、俺はバーではなくスタンドにぶつかり、さらにマットの端にギリギリ落ちて命拾いをしたのである。

 俺の身体はどこもバーには触れていない。確かに跳んだ。それもたぶん、余裕で。けれどバーが落ちればそれは失敗なのである。

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