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走り出したら  作者: 肉団子
1章
15/124

好きな人いる?



 年度最初のテストである一学期中間試験が迫り、校内の空気はがらりと変わった。

 それもそのはずで、三年生においては一学期の成績がそのまま学年成績として扱われ、その如何によって推薦でいけるかどうかが決まってしまうのである。普段真面目にやっていない奴らでさえ、いやむしろ、普段真面目にやっていない奴らが、遅まきながら少しでも評価を良くしようと躍起になっていた。

 もちろんそんなことを気にしない者もそれなりにはいる。例えば早々に弁当を食べ終えて、すっかり夢の中の内田。大会の結果を聞きたいけれど、学校で話す機会がなくて、公園でも会っていなかった。それからギャル美。あれで成績は常に良く、取り立てて慌てたりはしない。いつも通り賭けトランプに興じる連中もいた。

 俺もそういう、普段通りのグループに属する。そもそも試験勉強をしない。そして俺と向かい合って弁当を食べる高梨も、まったく慌てる様子がない。現代文を除けばすべて赤点の見えるレベルなのに、なぜかまったく気にする素振りもなく、ネギ入りの卵焼きを美味しそうに頬張っている。こいつを見ていると、俺はまだ大丈夫だと思えてしまう。

 そうは言っても、昼休みの教室は賑やかだった。スピーカーから流れる音楽や、テストのヤマを話し合う声や、ゲームのかけ声、廊下から響いてくる音の塊。騒々しいのに心地良い。休み時間に限っては、騒がしさこそ静寂だった。

 だから偶然にクラス全体の会話の間が重なってしまい、しんと静まり返ろうものなら、おかしな空気になってくる。最近流行のバンドの歌だけが教室を満たす。

 めいめい探りあうように視線を交わす。空気がピンと張りつめていく。

「誰か喋れよ!」

 我慢しきれなかったのは高梨だった。この声を皮切りにそれぞれがそれぞれの会話に戻っていく。

「すごいな、高梨。俺はあそこで声を出せない」

「なんでえ」

「なんか、負けた気する」

「いやわかんねえけど」

 と、丁寧に箸で切り分けるようにして、白米を口に運ぶ。米が二層になっていて、間に海苔と鰹節が挟んである。一口もらって食べると、ほんのり醤油で味付けされていて、これがまた合う。

「美味いな、これ」

「だろ? 母ちゃんの料理じゃ一番好きだな」

「これを料理とは……」

 いやしかし、料理というのは、こういうひと手間にこそ愛情という名の美味しさが宿るのではないだろうか。

「美味いな」

「ま、飯はどっちでもいいんだよ。今考えなきゃなんないことが他にある」

「なに。まさか試験勉強する気? 誠じゃないんだから」

「遠野に試験勉強なんて要るか?」

「元から頭は良いけど、あいつは天才じゃないからな。あれで努力してるんだぞ」

「白鳥は水中でなんとかーってやつだな。……って、んな話じゃなくて、目立てる舞台を見つけた」

 記憶にある笑顔だ。希望と活力に満ちている。子供のころ、この笑顔に乗せられて、いろんなバカをやらかした。

 俺はとぼけた。

「なんで目立つ必要があるんだ」

「だァらさ、モテたいの、オレは」

「ああ、それね」

 開け放たれた窓から吹いてくる風でカーテンが暴れている。窓際に陣取った女子が、抑え込もうと格闘する様を眺めながら訊ねた。

「で、それは?」

「体育祭だよ。活躍して目立つの。この前、生徒会で組み合わせ抽選の話やってさ。これだって思ったわけよ」

 たしか六月の頭にあったか。一ヶ月近くも前から準備とはご苦労な話だ。

「活躍の当てはあるの?」

「ないから一緒に考えて欲しいんだよ」

 俺は深い、深いため息をついた。

「あのなあ……具体的にどうしたいわけ?」

「代打逆転満塁ホームランを打ちたい」

「体育祭には代打も満塁もホームランもない」

「モノの例えだろー。まあ勝ちたいね、できればオレのおかげで。そしたら打ち上げなんかにいってそのまま、ってこともありえる」

「モテたいの? ヤりたいの?」

「……同じことだろ」

 まあ否定はできない。

「じゃあまあ、それはいいとして、運動部の連中だって見せ場だって意気込むわけだろ? 勝てるのか、それに」

「オレ一人でやるわけじゃねえだろ。こういうのはみんなで頑張るもんだからな。それにおまえだっているだろ」

「いない」

 なんだかんだと言ったって、俺も受験生なのだ。学校の行事一つに全身全霊になどなれない。

「なんでえ? おまえらしくもない。こういうのいつも楽しそうにやってたろ」

 捨てられた子犬のように、俺を恨めしげに見る。その表情ではなく、それを見て揺れた自分の心に苛立った。

「俺らしいって、いつの話してるんだ。今の俺はこうなんだよ」



 走った。とにかく走った。走りに走った。

 ペースなんてまるで考えずにアスファルトを蹴った。胸が痛くなった。わき腹も悲鳴を上げていた。それでも構わずに走り続けた。過去最速で公園まで辿りついて、俺はようやく力を抜いた。

 しばらく歩いても動悸はちっともおさまらず、全身から汗が噴き出してくる。呼吸をするたび喉が痛んだ。すっかり渇ききった口内から唾液を搾り出して飲み込むと、ひりと滲みた。

 酸素が足りず頭が働かない。そこらを歩いていたら、ふらっと車道へ転がり落ちるのではと思えるほどだ。

 それだけしても気分は晴れなくて、腹の底に居座って、俺を不快にさせる小人はより存在感を増していた。

 ベンチの端に腰をおろして、そのまま横たわる。街明かりを受けて気味悪く色付いた雲がでろでろと広がっていた。

 目を閉じて自分の呼吸にだけ集中する。肺の中から空気を絞り出し、すっかり生温くなった夜の空気をいっぱいに吸い込んで、三秒、そっくり吐き出す。息は闇にとけていく。呼吸が苦しいときほど息を吐けというのは、顧問の爺の教えだ。競り合いに勝ちたければ力を抜けとか、わけのわからないことを言う老人だったけれど、肺を空にするという呼吸は案外役立っている。

 そのまま深呼吸を続けていると、いつの間にか、うとうとまどろんでいた。

 音もなく、頭のすぐそばに人の座る気配で目を覚ます。まぶたを持ち上げて眼球を向けると、内田がちょこんと腰かけていた。

「あっ、起こしちゃいました?」

「いいや、目を瞑ってただけ」

「そう……ごめんね」

 突如として視界が塞がれた。何が起こったか一瞬わからなかったけれど、なんのことはない。内田の手が俺の目を覆っているのだ。彼女の小さな手は、オーバーペースで走っていた俺の体にはひんやりして気持ちが良かった。

「内田さん?」

 返事はない。

 俺の目は何も映していないから、彼女の表情はわからないけれど、なんとなく、じいっと俺の顔を覗きこんでいる。そんな気がした。

「大会、どうだった?」

「下から二番目」

「ああ……」

 どう励ませば良いのか。

「……で、府大会出場。これって勝ったって言う? 負けたって言う?」

「勝ったって言えば良いんじゃないかな」

 予選、準決、決勝と上位何着かとタイム順に数名が次に上がれる仕組みで、たしか地区大会から府大会へは二十四番以内に入らないといけなかいはずだった。いつも予選落ちだった俺からすると、十二分に勝ちだと言える。

「っていうか、すごいな」

「自己ベストは出たからね。コーチのせいにならなくて良かった」

「俺なんて、一回も勝ったことなかったよ」

 内田が俺の顔に置いた手に、わずかに力が入った。

「ねえ。黒沢くんって、好きな人いる?」

「今か?」

「うん」

「異性で?」

「もちろん」

「いない……かな」

「かな?」

「いたんだけどさ、その子には告白できなかったし。そりゃ好きか嫌いかで言えば今でも好きだけど、なんて言うか、そんなに綺麗な感情だったかな、って」

 はじめは美しいま珠だったはずの気持ちが、月の欠けるように時間に削られていって、今ではもう色も形も思い出せない。確かにあったのだという記憶だけを残して。

「告白すれば良かったって、後悔してるの」

「かもな」

「もし、それが振られるってわかっていても?」

「たぶん」

「そっか」

「おう」

 満足したのか、内田の手がそっと消えた。上体を起こして首を回す。ゴリッと嫌な音がして、右腕が一瞬痺れた。恐る恐るもみほぐしながら、内田を確認する。彼女は遠くを見つめてぼんやりしている。

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