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走り出したら  作者: 肉団子
1章
14/124

子は鎹



 ベンチに置いた俺の右手に、内田の左手がそっと触れる。

「昔話なんかじゃないよ」

 内田は子供に言い聞かせるような、やけにはっきりとした口調で言った。

「それはまだ、全然終わってない」

「なんで。ちょっとした思い出話だろ」

 内田はまっすぐに俺の目を見る。

「それならどうして黒沢くん、そんなに辛そうなんですか」

 違うと否定はできなかったし、そうだと肯定もできなかった。

 雑踏をかき消すように、飛行機が近付いてきた。一瞬、俺たちに影を落として、なにごともなく去っていく。低く変化する音はいつまでも耳に届く。

 触れていた内田の手が、俺の手を力なく握った。

「ねえ黒沢くん。私、黒沢くんに話があるの」

 内田がすっと立ち上がる。引っぱられるようにして俺も立った。

「歩きながらでいいかな」

 返事を待たずに歩き出す。するりと手がほどけた。

 遊歩道を南に下っていく。桜はすっかり散ってしまい、まだ若い葉がいっぱいに茂っている。遊歩道に落ちるのは花びらではなく木漏れ日に変わった。

 顔をあげると、太陽の光がちらちらと眩しくて、すぐに目をそらした。

「さっきの話……おじさんのことじゃなくて、黒沢くんの家のこと、私知ってたんです。聞いたことがあって」

「聞いたって……ああ、千佳か」

「そう、千佳ちゃん。でも怒らないであげてください。あの、悪いって思いながら、私から訊いたから」

「それは別にいいけどさ。でもなんで?」

「あの、それは……」

 内田は言い淀むように、口を半開きにしたまま固まり、ゆっくりと閉じる。彼女の顔越しに見えた川面の波が、キラキラと輝いている。

「それは?」

「うちのね、家のことがあって、それが、だから……」

 内田の顔がみるみる曇っていった。かける言葉も見当たらず、ただ彼女がどうするのかを見守るしかなかった。その姿に、俺ははじめて公園であった日を思い出していた。

 しばらくそうしていたけれど、やがて決心したように、あるいは諦めたようにぽつりと言った。

「父さんと母さんが、離婚しようとしてるの」

「……仲、悪いのか?」

「ううん。仲は良いと思う。喧嘩も滅多にしないし、いつも楽しそうに喋ってる」

「それなら――」

「それでも、です。二人して探り合ってるっていうか……。上手く言えないし、なんでかって、勘なんですけど……」

 目を伏せて足元を見つめながら歩く内田は、身長のせいもあって落ち込んだ女子小学生のように見えた。どうにかしてたりたいという気持ちは湧くけれど、俺にはどうすることもできない。

「去年の冬ごろかな。ああそういうことなんだ……って、ピンときて。千佳ちゃんに相談したんです。そうしたら黒沢くんのおうちのこと教えてもらって、その少し後に、公園で会ったでしょう。だから呼び止めたんだけど、どう話せばいいかわからなかったし、勝手に家庭の事情を聞いたことも、なんて言えば……って」

「それは本当、いいんだけどさ。元々隠してないし。誰が知って困るものでもないし。あっ、でもまあ、勝手に言った奴は許さんけど」

 内田は慌てて顔を上げる。

「だ、だからそれは私が……!」

「冗談だって」

「もう!」

 ようやく表情を和らげ、俺の腕を軽く叩く。なんだか、こちらの気分もすっと晴れた。

 橋を渡っていると、対岸のグラウンドで野球の試合をしているのが見えた。子供らしい高い声が響く。

「それで私ね、たぶん、覚悟をしたかったんです。離婚ってなると、たぶん母親に引き取られるから。だから、きっと失礼なことなんだろうけど……それがどういうものなのかを知っておきたかったの」

「そう……だったらたぶん、俺は力になれないと思う」

「……そう、ですか」

 内田は自分の足元を見つめる。俺は慎重に言葉を探した。

「だっておまえさ、金的がどれだけ痛いか知らないだろ?」

「は?」

 内田の表情筋がすべて活動を停止した。開いた口がふさがっていない。数秒おいて、瞼をぱちくりとさせる。一瞬、俺の股間に視線をやり、耳まで真っ赤に染めていく。

「そっ、そそ、そりゃそうでしょ! なに言ってるの? バカじゃないの!」

「だよな。俺だってどれだけ説明されたって、生理が辛いって言われてもよくわからないし」

「ねえ、黒沢くん。からかってる?」

「励まそうとしてるつもりだけど」

「だとしたら下手すぎるよ」

 若干、軽蔑の色を含んだ瞳で見据えられた。普段のように眠気ではなく瞼が半開きである。なんだか複雑だ。

「だからな、知らないことはわからないってことを言いたいの、俺は。わからないことは話しようがないよ。父親がいない環境がどんなだって聞かれたって、普通だなとしか思えないし。内田だって、父親がいるってどんな感じ? って言われたって困るだろ」

「普通、かな」

「だろう」

 川沿いを離れ、大通りに出る。道が一本違うだけで喧騒が段違いに大きくなる。

 苦手だけどまじめな話するとさ、と前置きをし、

「俺さ『子は鎹』って言葉を知ったとき、こりゃ上手い言葉を考えたなって思ったんだ。知ってる? 子は鎹」

「うん」

「それじゃ、鎹がなにかは?」

「え? あれじゃないの、ドアと壁の間にあるやつ」

「それはたぶん、蝶番だな。鎹っていうのは、こう、ホッチキスの芯みたいなコの字型でさ、並べた木材に打ち込んで固定するんだよ。わかる?」

「なんとか」

「だからあれって、木を親に見立てて、鎹を子供に喩えてるわけだ。それじゃあさ、そうやって繋がってる木を無理やり引っぺがしたらどうなる?」

 言わんとしていることを理解したのか、みるみる表情が沈んでいく。

 日が傾き始め、身長と同じくらいの影が後ろに伸びている。

「そ、壊れるだろ。まあ、そりゃ実際にやったら、木が先に割れるかもしれないけどさ」

「それで、何が言いたいんですか」

「あー、つまり、内田は大丈夫じゃないのってことだよ。もう十七だろ。一人で立てるようになれば、親がくっ付いてようが離れてようが、壊れたりしないよ。親が別れるってのも、お役御免ってだけでさ」

「黒沢くんは自分のこと、壊れてるって思ってるの?」

 彼女の声には非難の色がみえた。だから――だけではなく、答えを躊躇う。押し黙り、答えを考える。

 交差点で左折し、細い道に入ると、日が陰って、ぐっと気温が下がった。同時に自分の心のもっとも深い、真っ暗な場所に触れた気がした。ひどくひんやりしている。

 無邪気な破壊を楽しむ幼い手。

「まあ、不健全優良児って感じだよな」

「なにそれ」

 無感情で平坦な言い方だ。

「だから壊れてなくて、曲がってもいないんだけど、なんて言うかこう、ドリルみたいにねじれて真っ直ぐ……みたいな?」

「なにそれ」

 呆れたように、くすりと表情がやわらかくなる。

 商店街を横切っていくと、いつもの公園に出る。

 ゴールデンウィークの日中だけあって、さすがに子供でいっぱいだった。声と声とが混ざり合い、もはや騒音のようである。彼らは不思議なことに、その中からきちんと友人の声を聞き分ける。そういうことを自分もやっていたことが、何より不思議だった。

「今日は付き合ってくれてありがとう」

 話しながらのぼった小高い丘の上で、内田は別れの言葉を口にした。

「もういいのか?」

「用事はこれだけだったしね」

 と、スパイクのピンが入った袋を叩く。それだけのために、俺を誘いはすまい。

「大会、頑張れよ」

「うん。せっかく黒沢くんが教えてくれたもの」

「なにを教えたってこともないけどな」

 たしかにいくつか参考になると取り入れたこともあったようだけど、それが成績に繋がるとも限らないのだ。

「少なくとも、後悔はしないと思います」

「ま、それがなによりか」

「あっ、そうだ。黒沢くん、ゴールデンウィークの宿題、まだでしょう?」

「出てたっけ?」

「出てたよ」

 授業中に寝ている内田が覚えていて、俺が忘れているのはいったいどういうカラクリなのだろう。

「まあ、いいや」

 宿題なんて、些細な問題だ。「あのさ、内田。気にすることじゃない、とは言わないけどさ、気に病むようなことじゃないからな。おまえの問題でも責任でもないし、でもそういうデリケートな問題に、悩めないほうが寂しいと思うし。それにイマドキ片親なんて珍しくないわけだし、だから……つまり、ええっと……ああもう!」

 どうして俺はこうなのだ。真面目な話をしようとすると途端に言葉に詰まる。

「大丈夫だよ。黒沢くんの言いたいこと、たぶん、ちゃんと伝わってるから」

「そうか? それなら、いいんだけど」

「余計な心配しないで、明日勝てってことでしょう?」

 わざとキリッとした表情を作るから、思わず吹き出す。

「おう、勝てよ」

「うん。じゃあまた学校で」

「じゃあ」

 学校で。

 学校で、か。寝ているくせにな。

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