父親の影
音が遠ざかっていくと、おっちゃんは「ところで」と、自分の髭を撫でた。
「そちらのお嬢さんは? 見たことあらへんけど」
「高校の友達」
「ほうか……もう高校なんやな」
おっちゃんはしみじみと言う。足元に落とした顔には、寂寥があらわれる。
「おっちゃんって、今ここに住んでるの?」
「せやなあ。まあ、のんびりと」
「ケビンは?」
「あいつか? あれはあの世を散歩中」
「いつ?」
「三年くらい前かな」
ケビンとは、彼の飼い犬の名前である。ハイエナのような見た目の雑種で、捨て犬だったのを拾ったと言っていた。そもそも小学生だった俺たちと、ホームレスのおっちゃんとが仲良くなるきっかけは、当時彼が住んでいた公園で、ケビンと遊んでいたからだった。
「せや、あのな、俺ちょっとこれから忙しいねん。やから今日んとこは、はよ帰ってくれんか?」
「忙しいってなにするの」
「いろいろや、いろいろ」
「あっそう。それじゃ、またな」
立ち上がり、軽く手を振ってから、いまさら敬語のほうが良かったのではないかと思い始めた。けれどもあえて改めるというのは気恥ずかしいものがある。
内田は軽く頭を下げてから、その場を後にした。
またしばらく川沿いの土手を歩いていく。空の高いところから、鳥の声がする。姿はみえない。
橋を渡ったところで、支流沿いの遊歩道に進路を変える。
「悪いな、内田。あんなところ」
「ううん。それはいいんだけど、あの人、えっと……ホームレスなんですよね?」
「それ以外の何だと言うのか」
「そうなんだけどね、なんかこう、それにしては綺麗っていうか」
「綺麗ぃ? あれは小汚いって言うんじゃないかな」
「ずっとなんだよね?」
「たぶんな」
「だとしたら、もっと髪とか、肌とか服とか、体臭とか。きつくなるんじゃないかなって思うんだけど。まあ、なんとなくそう思っただけだから」
言われてみればたしかに、あまり汚すぎないというか、年季が入っていない感じではあったかもしれない。
「それよりね、あの、あの人とはどういう……」
「ちょっとした知り合い、かな。昔、近所の公園に住んでて、犬を飼ってたんだよ。俺の家ペット飼えなかったし、散歩させたり、エサやったり。ま、それだけだよ」
それだけだよ、と口にした瞬間、嘘をつけと自分に詰られた気がした。
それだけなんだ。子供のころにちょっと話した浮浪者。それだけでいいじゃないか。
「黒沢くん?」
内田が心配そうに、俺の顔色をうかがう。きっとひどい顔をしている。笑顔をつくってみたけれど、表情筋に力が入らない。
遊具のない公園を通りかかる。ベンチが目に入る。
「なあ、内田」
「なに?」
「ちょっと、昔話、していいか」
まだ野良犬が街中をうろつき、浮浪者も今より堂々と徘徊していて、川だって異臭を放っていた。小学生のころの話。
今にして思えば、ああいうものはすべて昭和の残り香だったのだろう。
ノストラダムスの予言は大外れし、二〇〇〇年問題も杞憂に終わり、二十一世紀になっていくらか経ってはいたが、まだどこか古臭かった時代。
新しくできたマンションに忍び込み、スーパーの試食品と駄菓子屋で小腹を満たし、日々狭くなっていくコンクリートの隙間を駆け回っていたあれは、小学五年生だった。
近くの公園に、不気味な一角が存在した。
植え込みで通路が作られ、サーキット場か迷路園のような、ぐるぐると周回のできる空間だった。中心部には砂場と、きのこみたいなモニュメントと、梯子で結構な高さにまで登れる塔があるきり。
その植え込みの隙間に、あのホームレスの家はあった。
ケビンを通じて仲良くはなったが、さすがの小学生でも「ホームレス」と呼びかけることは失礼だとわかっていたし、だからと言って名前を聞くほどの勇気もない。そこで俺たちは親しみをこめ「おっちゃん」と呼んでいた。
彼は犬の世話をすることと、生活に必要な道具をこしらえることのほかは、特別何かをしている様子がなかった。見栄や欲を捨てた人間の最小形はこういう姿なのだろう。
最初こそ、ケビンの飼い主の浮浪者としか思っていなかった子供たちではあるが、だんだんと双方の距離は、こちらから一方的に近付いていった。教師でも保護者でもない大人というものは、狭い世界に生きる子供にとっては貴重だった。相談とか愚痴とか、彼は黙って聞いてくれた。偉そうに説教をすることも、くだらないとバカにすることもなく、常にまじめに相槌を打ってくれた。
特に悩みなどなく生きていた俺も、一度だけ彼の家、木組みとブルーシートの家にお邪魔したことがある。
「なあ、おっちゃん」
どれもこれも、どこかが傷んだ日用品に囲まれたテントの中で、彼と向かい合って座った。ラジオはノイズ混じりに競馬中継が流れている。
「なんや、坊主。おまえがまじめな顔しとるとおもろいな」
「いいから聞いてよ。オレさ、父親がいないんだよ」
「……ほう」
「リコンしてるから。これって変なのかな」
「いや……どやろなあ。最近は多いらしいで。自分ではどう思ってるんや」
「わかんないよ。オレは、別にフツーだろ」
「ほんなら、それでええんとちゃうかな」
「でも高梨んちも千佳んちも、親は両方いるんだし。それにこのまえ……父親がいないからそうなのかって……」
嫌なことを思い出して涙が溢れそうになる。
「ん? どうしたんや」
「でも二ヶ月に一回くらいは会うんだ。いないわけじゃないんだよ。でも最近、その、父親のことをなんて呼んだらいいんだろうって」
彼は父親なのだろうか。父とはなんだ。そういう疑問以前の疑念が、俺の中に生まれていた。
瞳にたまった涙が一滴こぼれると、あとからどんどん溢れてきて、呼吸まで浅くなってきた。
「おまえ、いっつももっとかっこつけとるやろ。一人やと案外子供やなあ」
「あ? 子供じゃねえし!」
必死に強がってみたけれど、涙はいっこうに止まらない。おっちゃんは俺のデリケートな部分に触れないようにわざと本題を避け、俺をからかうように励まし続けてくれた。
これだけならば、ホームレスとの不思議な交流、程度のものだっただろう。
ある日、彼は突然消えた。家もケビンも何もかも、彼以外にいたホームレスもどこかへ消えた。ほどなくして公園の改修工事が始まった。見通しの悪い植え込みはなくなり、高すぎる遊具はなくなった。ようするに、安全安心の平成に移ったのだ。
今にして思えば、あれは立ち退きだったのだろう。
俺たちはひとつの遊び場と、一人と一匹の遊び相手を失った。ただそれだけのことだ。
それなのに、俺の心には、それだけでは埋まりそうもない大きな風穴があいていた。寂しい音が鳴る。
ずっと考えていたわけではない。ケビンのことなど、ホームレスと遊んでいたことなど、幼いころの友人のように、やがて新しい漢字や、難しいゲームの攻略法に押しやられて記憶から消えていった。
すこしばかり大きくなって、その公園に通りかかったとき、ふいにその公園の昔の姿を思い出した。ホームレスのことが脳裏に甦った。
ああ、そうか。俺はあの男に、父親の影を見ていたのだ。その瞬間、はたと気がついた。
父親がいればこうだろう、ああだろうと、浮浪者相手に自分の心を慰めていた。そうと思えば、高梨の父親にも、千佳の父親にも似たような感情を抱いていた。けれども彼らは、誰かの父だった。誰の物でもない男を、俺は父親代わりにしていた。
俺はそのときはじめて、本当の意味で、父親がいないことが当たり前ではないのだと知った。




