ようやく受験生みたい
ひたすらに勉強をする。小学一年生の教科書から順に辿って高校三年まで進み、過去問、過去問、また過去問。ふと顔をあげると堆く積み上げられた本の山が、時間の流れを疑わせるゆるやかさで倒れてくる。ああ、逃げられない。試験中だもの。
押し潰されて、目が覚めた。ついに夢の中でまで勉強をするようになってしまった。
寝汗を背中に感じながら、ふうと息をつくと、天井に貼り付けてある紙が目に入る。それにはでかでかと、studyと書かれている。
勉強せよ。
欠伸と伸びをしてからベッドを抜け出した。
朝食を済ませると、リビングで英単語帳をめくる。そして半分読み終えると、古文単語帳を半分読む。その繰り返しである。ひたすらこれだけを繰り返すのである。
本当にこれで大丈夫なのだろうかと不安が頭をよぎる。
それは二月の中旬、テスト返却の日にさかのぼる。
「これは、難しいなあ……」
遠野誠はそう言って、天井を見つめてしまった。
「そんなに悪いんでしょうか……」
「いや……悪いって言うかさ」
困ったという表情で、俺の顔を見る。「もう勉強する意味もないなこれ」
「ええ……」
「あ、いや、絶望的って意味じゃない。どう言えば良いかな。案外、修一も素直なんだなって。文法教育の申し子だよ」
「ごめん、ちょっと意味がわからない」
「つまりな……どうして現代文はできるんだ?」
「そりゃ本文読めば答え書いてるんだから」
「じゃあ英語と古文がわからないのは? あれだって、本文読めば答え、書いてるだろう」
「読めないもの、その本文が」
「でもおまえ、定期テストはできるだろ」
「一回読んでる文章だからな」
「何点ぐらい?」
「悪くて六十、よければ八十ってところかな」
誠は目を閉じて、何事かを考えるように黙る。
それから突然「いいか」と言いながら、俺を指差した。
「理解できてないと、そんなには取れない。じゃあ、どうして入試で解けないかって考えたこととかあるか?」
「考えたんだけど、これがさっぱりで」
「じゃあ教えてやる。根本的に足りないんだよ、単語が」
「単語?」
「修一さ、単語帳とか持ってる?」
「姉のおさがりを」
「ちゃんと使ってるか?」
「まあ、ちらっとは」
喉から搾り出すようなため息をついて、やれやれと首を振る。
「いいか。もう余計なことは考えるな。ひたすら単語帳を読め。書くなよ、読むんだ。流し見するんじゃなくて、一文字ずつ読め。英単語帳と、古文単語帳を交互に。覚えたかどうかを確かめる暇があったら、読め」
「どうして」
「端から完璧に覚えようとするより、手っ取り早く広範囲をカバーできるから。もちろん、全部覚えるに越したことはないけど。そんなこと今からじゃできないだろ」
「……そんなんでいいのか?」
相手はぶっちぎりの学年一位の秀才だ。疑う余地はないのだが、それでも不安は募る。
「保証はしない。やるのはおまえだからな。でも可能性があるとすれば、これしかない。他のことは自由にすればいいけど、とにかく毎日ずっと読むこと。頭から尻まで、きちんとな。それで飽きるだろうから交互に読む」
単純な知識不足ということらしい。
以来俺は半月ほど、ずっと単語帳を読み続けている。さすがに一冊通して読むのは苦痛だったので、半分ずつを交互にではいけないかとメールで訊ねると、
『それは自由だけど、一冊読み終わるまで頭には戻るなよ』と、釘を刺された。
二次試験は二月のうちに終わったはずなので、先生に来てくれても良さそうなものなのに、デートだからと一蹴された。女ができた途端、友情に優先するとは、なんと友達甲斐のない男だ。
昼夜を問わず、場所を変え姿勢を変え、ひたすらに単語帳を読み耽る。ときおり不安に負けて、休憩がてら何問かの例題を解いて、また読書に戻る。いよいよダメとなれば、軽く運動をして気持ちを紛れさせる。
そうしてひたすらに語句を頭に詰め込んでいると、ちっともやって来なかった、定期テストの試験勉強が、受験勉強の訓練であったのだと思い至る。小分けした出題範囲について、必要な知識を詰め込んで問題を解くことに慣れる。その先に、三年間の、いやそれまでの総決算たる受験が控えているのだ。
そういう理屈を、もっと早くに教えてくれたのなら、俺だって少しは試験勉強したものを。
近所の公園へ出向いて、数分間全力でブランコを漕いで少年少女に恐怖と尊敬の眼差しを送られながら自宅に帰り、ソファに沈んで単語帳を開く。
早々と春休みに入っていた姉が、リビングで呑気に雑誌をめくって、齧った煎餅を俺に向かって振りながら言った。
「あんた、ようやく受験生みたいね」
「高校生じゃないからな」
「なに。なんか良いことでもあったの?」
「ないよ」
良いことは、これからあるのだ。
おそらく、きっと。
目を覚ました瞬間には、すっかり意識が覚醒していた。こんなに気持ちの良い寝起きは数年ぶりのことである。
前夜は日の変わらぬうちに布団に潜り込んで、しばらく眠れない眠れないと寝返りを打っていたが、いつの間にか寝入ったらしい。気付いたときには朝だった。
新聞を読みながら朝食を取る。天気予報は一日中晴れである。
制服にするか私服にするかを悩んだが、もはや学生服を着る機会もないのだと思えば惜しい気もして制服にした。
ここ数日の習慣として読書をしながら朝の時間を過ごしていると、インターホンが鳴った。慌てて出ると、やはり内田だった。約束した時間ぴたりである。
玄関先で内田は眠たげな瞼を、懸命に持ち上げながら微笑んだ。
「おはよう。よく眠れた?」
「もうぐっすり。どっちかって言うと、内田のほうがおねむって感じするけど」
「寝たはずなんだけど」
くあと欠伸をする。恥らうように、口元をマフラーに埋めた。
冬がぶり返したように、数日続けて冷え込んでいた。ひょっとするとこのまま春が来ないのではないかと怪しむほどだった。
思いがけず高くのぼった朝陽が、通りをほんのりと黄金色に染めている。
「本当はねえ、朝一番で神社にでも寄って、お守りを買って来ようと思ったんだけど」
駅に向けて歩きながら、ともすると寝言なのではないかというあやふやさで、内田が言う。
「いいよ、別に。千佳じゃあるまし」
「ごめんね、寝過ごしちゃった」
言われて気がついたが服装はズボンに適当なコートを羽織り、髪は前髪以外を簡単に後ろで結んだポニーテール。触ってみると、若干水気を含んでいる。慌てて準備を整えて飛び出してきたといえば、なるほどと思えるいでたちだった。
「昨日、自分で行ったから」
「へえ」
意外そうに上げた声が、そのまま欠伸に変わる。
遅ればせながら、努力をしたつもりだった。そんなもので足りるのかはともかくとして、圧倒的に足りない知識を補わないことには、偶然にも受かりはしないだろう。すくなくともここ一ヶ月弱は、最大限に努力した。
遠野誠が以前に合格を神頼みをしないと言っていた気持ちがよくわかった。足りるか足りないかはともかく、その時点でできうる限りのことをやりきっていれば、神様にどうのこうのと頼むことはないのである。
だから俺は天満宮に詣で、五円玉を賽銭箱に投げたあとに、心で唱えたことは、
「合格させないなら今すぐ俺を殺してみろ」だった。
祈る必要はどこにもない。ただケチをつけてくれるなよと、喧嘩を売ることで自分に気合を入れることしか思い浮かばなかった。
駅までは案外と遠い。そのうちに寒さに震えるせいか、内田もだんだんと目が開いてきた。
喧しい鳴き声に上を見上げてみれば、家屋の庇と通りを挟んだ電線に、鈴なりのスズメたちが、ふわふわとふくれている。
空色に白い欠伸が、ふわりと漏れた。内田のが移ったのだろうか。
視線を感じて内田へと視線を戻すと、横目に胸元を盗み見られていた。内田にボタンをあげてしまったので、飛ばしてしめるのも見た目が悪いと、冷気が滑り込んでくるのを我慢している学ランだった。
「予備のボタンをつけて来ようかとも思ったんだけど、なんかな」
「新しいのついてたら、たぶん私、むしり取ってたよね」
「そんなにですか」
「ま、冗談だけどね」
お互いに笑った隙をみて、それでも手探るような硬さの声色で、内田は訊ねた。
「……どう? 自信のほどは」
「遠野先生のアドバイスをもらったんだから」
「あっそう」
呆れた感じに、じとっと睨まれた。
「でもなあ、先生ってば、いまは暇なくせに、教えに来てくれない」
「ああ、あいつはそういうところあるから。友達甲斐がないって言うのかな」
「そう、友達甲斐がない」
下らない冗談を言い合って、ビルの影と日向とを交互に踏みながら大通りをまっすぐに進んでいくと、高架橋が見えてくる。
「そういえば黒沢くん、卒業アルバム見た?」
「見てる暇なんてないよ。受験生だぞ、こっちは」
「あはは、そうだねえ」
意味もなく嘘をついた。卒業してからの一週間の楽しみといえば、卒業アルバムを眺めることぐらいであった。けれどもなんとなく、内田がどのページをさしていたのかがわかって、つい話を逸らしてしまった。
線路沿いに商店街を横切ると、駅舎にぶつかる。
「そんじゃ、行ってくる」
切符を手の内で弄びながら、内田に振り返る。「見送りありがとう」
「いえいえ。寝不足とかなさそうで良かった。頑張ってね」
「おう」
「そうだ。今度ちょっと付き合って欲しいところがあるんだけど」
「いいよ。いつにする?」
「そうだねえ……」
と、内田は思考をめぐらせるのに連動させるようにして、首を斜め上にめぐらせる。
「あっ、話変わっちゃうけど、合格発表はいつだっけ」
「えっと……十四日、だったかな」
「そう。それなら、ホワイトデーのお返しは何もいらない。でも合格をください」
「……そうやって一番難しいものをねだるからなあ」




