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走り出したら  作者: 肉団子
6章
115/124

半年は、長いよ



 塔屋に背中を預けて空を見上げる。

 そういえば始業式も屋上だったな。あのときは、塔屋の上でサボりを決め込んでいたのだ。

 屋上の隅にわだかまっていた花びらは、きっともうどこにもないだろう。風にさらわれたのか、雨に流されたのか。

 唸るような飛行音が、雲の上から降りてくる。遠雷のようにどこからともなく聞こえるのが不思議だった。

 指先をぬくめていた缶コーヒーが、だんだんと温度を失ってきた。冷えてしまう前に飲もう。

 蓋を開けにかかった瞬間を狙ったように風が吹いた。思わず身震いをしたせいで、黒い液体が飲み口から溢れ出た。

「あっ」

 そういえば初めて缶コーヒーを飲んだときも、こうして溢してしまったのだ。

 父親と姉との三人で、ボウリング場に行ったときだ。まだ姉がいるということは、小学生のうちだったのだろう。

 二ゲームを終えて、飲み物を買いに父親と二人で自販機の前に立った。

「何が良い」

 父親の質問に、俺は商品を見上げて驚いた。いちいち値段が高いのである。缶コーヒーを指差したのは、一二〇円という見慣れた数字だったからだ。何であるかはきちんと見ていなかった。

「おっ、大人だなあ」

 たぶん父親にそう言ってもらったことが嬉しかったのだろう。しばらく俺は、何かにつけて缶コーヒーを飲みたがっていた。

 いまさらそんな素直には戻れない。缶を掴む手はすっかり大きくなった。ボウリングを二ゲームやったところで、缶を持つ手が震えたりはしない。

 成長した分だけかたく、難くなる。

 音もなく、白い綿が手に乗った。冷たさを残して、じわっと融ける。

 空に浮かぶ雪原から、ほろりほろりと綿雪がこぼれ落ちてきた。

「もう三月だぞ……」

 待ち合わせ場所を屋上にしたのは失敗だったろうかと、落ちては融ける積もりそうもない雪をしばらく眺めていると、かすかに階段を踏むガンガンとした足音が耳に届く。

 屋上の端についた階段を見つめる。

 頭のてっぺんが見えたとき、やはり内田だと思う。

 内田は白い息で指先を温めて、綿雪を目で追いながら近付いてくる。そして俺の目の前まで来ると、ゆっくりと視線をこちらに寄越した。

 白面に黒い瞳がくりっとはまっている。ほのかに朱のさした頬が健康的である。

「卒業おめでとう……って言っても、まだおめでたくはないね」

「あー……まあな」

 将来を危ぶんで、つい目を逸らしてしまう。

 これではいけない。なるだけ自然に、内田に向き直る。

「こんな寒いのに、外でごめんな」

「ううん。寒いのは好き」

「うん。俺も、嫌いじゃないかな」

「最後でいいって言ったから、本当にみんなとお別れしてから来たけど、ごめんね。雪まで降ってるとは思わなかった」

「それはいいけどさ」

 いざ言葉を口にしようとすると、考えていたはずの台詞はすっかり雪に埋もれたように、頭が真っ白になった。身体が、唇が、かじかむ。

 内田の量の瞳が、炎のように揺らめいた。ただ黙って、じっと待っている。

 彼女に感じるあたたかさは、そっくり生命のぬくもりだろうと思った。俺がずっと以前に、どこかに忘れてきたもの。

「あの……最近さ、色々考えることがあってな、何が幸せなんだろうとか、まあそういう恥ずかしいこと。それで思い出したんだけど、ほら二人で昼寝しちゃったこと、あっただろ。落ち着いたっていうか、嬉しかったっていうか……だからその、いつからなのかわかんないんだけど――」

 自分の口下手を呪いながら、そういえばいつからなのだろうと、口にしてから思う。

 昼寝をしたとき、朝陽を見たとき、告白をされたとき……暗闇に彼女の声を聞いたことが思い出される。ぽうっと明滅する蛍の光がちらつく。

 いつから、などはない。

 今になって思い返すと始業式の日に、気まぐれで選んだ道の向こうから彼女が駆けてきたことでさえ、運命的な、意味深いことのように思えてくる。

 肺に残っていた空気を、全部白く吐き出した。かわりに、ひやりとする空気を胸いっぱいに取り入れると、寒さを忘れた、

「内田を好きになってた。まだ何もわからないけど、一緒にいられたら、きっとそれは幸せなんだろうって、そう思うから、返事に半年もかかったけど……もし今も同じ気持ちなんだったら、付き合ってくれませんか」

 内田はしばらく何も言わなかった。時間の感覚はすでに失われている。

 髪の上に積もった雪を手で落とす。肩で融けたものが、ブレザーの色を濃く染める。俯きがちになって、前髪を指でいじる。

「そうか、九月だもんね。もう半年になるんだ」

「うん」

「私もね、こんなに長いなんて思わなかったから。半年は、長いよ。私だって……」

 視線を逸らすように、内田は隣の校舎を見る。その瞳はもっと、ずっと遠い。

 どうするべきか、咄嗟に判断できなかった。謝るべきなのか、いっそ笑ってしまうべきなのか。

「あの――」

 俺の声と同時、ひくりと内田の頬が動く。

「だから、条件を出させて」

「え?」

「聞いたよ、私と同じ大学受けるんでしょう?」

「え、ああ」

 告げ口するとすれば遠野誠……いや、彼から話を聞いた千佳だろう。

「ちゃんと合格して。そしたら、付き合ってあげてもいいわ」

 つんと気取ったように言う。それから、はにかみを見せて距離を取る。

「わかった。合格したら、だな」

「うん」

 恥ずかしそうな顔のまま、内田はこくりと小さく肯いた。

 白い吐息を漏らしながら、小さな指先を俺の胸元に向けた。

「それ、ちょうだい」

 自分の胸を見る。似合わないバラの花。その隣に、金色のボタンがついている。上から数えて二つ目のそれを、俺は内田に差し出した。



 鳴り響いた破裂音に小さく跳び上がる。隣の内田も目を真ん丸くむいていた。

 降りかかる紙テープで、それがクラッカーだとわかった。

「おめでとう!」

 高梨が高らかに声をあげた。

 風邪を引いてもバカらしいと、二人していそいそと屋上を後にして、扉を無理やり超える関係上、邪魔になる鞄は教室に置いてきたので、それを取りに戻ったところだった。

 クラスメイト全員……ではないだろうが、そう言って差し障りない人数が、俺たちを待ち構えていた。

「え」

 ふたたび真っ白になった頭を働かせ、ようやく言ったのはその一文字である。

「え。付き合うんだろ?」

「え」

「え。もしかしてダメだったの?」

 一瞬にして教室を満たした居た堪れない空気を、内田はすっぱりと払った。

「ううん。付き合うよ」

「だよなあ! ああびっくりしたー」

 クラスメイトは口々に祝福の言葉と「時間かけやがって」「これですっきり卒業できるわ」「つうか卒業式に告ってんなよ」と勝手なことを言いながら、帰路についていく。

 鞄をひょいと肩にかけた鈴やんが、正面から歩いてくる。

「もっとさっさとケリつけると思ってたのに」

「なに? みんな祝うために残ってくれてたの?」

「そんなわけないだろ」

 教室を出て行きながら、鈴やんは向きを反転させた。「ま、どっちつかずってのが気持ち悪かったのはあるけどな。そんじゃ、また」

 手をひらりと振って帰ってしまう。

 じゃあなんのために?

 頭に疑問符を抱えていると、肩をぽんと叩かれた。横を見ると、信楽君がいる。

「悔しいが、俺の負けだ。本当は体育祭のときから付き合ってるって、思ってたのになあ」

「あ? 負け?」

「ん」

 教卓のほうを指差してから、もう一度俺の肩を叩く。「元気でな」

 言い残して、彼も帰っていく。

 教卓を見ると、高梨が何かをしている。近付いてみると金を勘定していた。

「おまっ……まさか賭けてやがったのか?」

「まあな。悪いとは思ったけど、白熱しちゃって」

「いつから」

「文化祭の準備してるとき。花火って内田のためにやるんじゃねえかって疑惑が出てな。で、勝負だ勝負だって」

 言いながら、百円玉を指でずらしながら数えあげていた。

「ここまで引っ張ってまさか卒業式にってことで、当てたのは二人だから、勝ちは一六〇〇円もついた……ほら」

 金を受け取った男子が、へらへらと俺に礼を言っていく。

「あと一人は?」

「ギャル美」

「ギャル美……?」

 あっと思って辺りを見ると、暗い廊下に金髪頭があった。じっとこちらを見ていた彼女と視線がかち合うと、意味深ににやりと笑ってドアの陰に消える。

 どこから、そしてどこまでが計算なのか。しばらく呆然と、クラスメイトたちが出て行く出入り口を見つめたまま動けなかった。

 そのうちに内田が隣にやってきて、そっと呟いた。

「落ちられなくなったね」

「最初から落ちるわけにはいかんけどさあ……」

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