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走り出したら  作者: 肉団子
6章
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卒業証書



「卒業おめでとうございまーす!」

 正門に後輩が並んでいた。生徒会か何かだろう。バラの造花を手渡された。

「胸に差してください」

 にこりと笑顔を飛ばして、次に登校してきた三年生にまた「卒業おめでとうございまーす!」と挨拶をする。

 ほとんど接客だなと頭をかいて、駐輪場へ向かう。

 空には雪原が広がっている。せっかくならば晴れていて欲しかった。空模様もそうであるが、寒気が流れ込んでいるという。三〇分ほどの自転車移動で、耳はすっかり感覚を失っていた。

 言祝く、という単語が浮かんで消えた。暖かさだけが、優しさではあるまい。

 胸ポケットにコサージュをさして、冷気から逃れるように校舎に入った。

 廊下に響いている朝のざわめきは、あきらかに普段とは違っている。気だるさや退屈さを含まず、しかし学校行事のたびに感じる陽気さもない。おそらくは高校生活でたったの一度きりの卒業式の日にしか発しない、訳もない物悲しさと、それを悟られたくない恥じらいが生む独特の声音である。

 高い音がしめっぽく響く。

 大人と子供、夕暮れや朝焼け、波打ち際のような境界線にしか存在しえない美しさだ。

 思い立って、学生服のボタンをすべて取って、ポケットに突っこんだ。

 開けっ放しの教室に入ると、ドアのすぐそばで話していた塊から声がかかる。

「おっす、黒沢、おはよ……」

 挨拶してきた信楽君が、狸みたいな顔を困惑させた。「なにその服」

「おはよう。いやあ、学校来た途端、ボタンの争奪合戦だよ」

 まいったまいったと頭を撫でると、ピアスのない耳が気になるのか、耳たぶを摘んでいた加藤が苦笑する。

「嘘こけ。そのポケットの膨らみはなんだよ」

「え? うわ、こんな膨らんでたのか。しまったな」

「膨らんでなくたってわかるっての」

 指摘されてなお続けるほど恥知らずではない。取ったばかりのボタンをいそいそと付け直す。先日の予行の際、学年主任は腕を振って言った。

「第一ボタンまでしっかり留めろォ! ホックは許す。ただし入退場のときにはしめて置けェ!」

 入場拒否なんてことはないだろうけれど。

 進路や卒業後の遊ぶ予定、聞きそびれていた相手から連絡先を聞いたりするうちに、クラスメイトはほとんど登校し終えた。

 すばやく目だけで確認する。まず目についたのは、鮮やかな金髪である。あえて染め直してきたのではないかと疑いたくなるほどだ。二人きりの教室を思い出して、嬉しいやら申し訳ないやら尊敬やら、気持ちがごちゃ混ぜになる。

 ほとんど目を逸らすように捜索を続けて、女子の集団の中にその小さな頭を見つけた。

 瞬時に幾通りかの会話を想像するが、どれも上手くはない。

 しかしそれでは、昨日と同じことの繰り返しだ。

 ギャル美に言われたから素直に今日を待ったわけではない。むしろ予行のうちに済ませてやろうと意気込んでいた。

 だというのに、昨日ははっきりと意識しただけでも三度、声をかけ呼び出す機会を逸している。

 内田の顔を見ると、思いの丈をぶつけるどころか、呼び出すこと、まともな挨拶でさえも、ろくに出てこなかった。喉がひとりでに絞まったように、呼吸さえままならない。

 そう思えば思うほど、その後さんざん答えを後回しにしてきた自分が恥ずかしくて、余計に敷居を高く感じるのである。

 昨日は少し早い春みたいな陽気だったのに。快晴だったのに。いくらでも呼び出す機会、あったのに……。

 一人で懊悩していると、武内先生が似合わないスーツを着て現れた。

「おまえらー、席着けェ」

 席順は出席番号順である。いくつかの席から「これ誰の?」と、このギリギリまで学校に置かれた私物の、持ち主探しの声があがる。

「もうすぐ係りの子が呼びに来るから、そしたら廊下に整列だ」

「先生、卒アルは?」

「そんなもん、後だ後」

 早くくれ、そんな時間は無いと押し問答をしている間に、その係りというのがやって来た。

「ほら、とっとと並べ」

 クラスメイトたちがぞろぞろと外へ出て行く。

 今しかないと、早足に内田のところへ向かう。

「なあ内田」

 声をかけられて、彼女はまったく普段通りの顔を俺に見せる。

「あ、おはよう」

「うん。あのさ……今日、帰る前で良いから、ちょっと屋上来てくれないか?」

 ぴくりと瞼が震えた。

「わかった。帰る前でいいの?」

「うん、お願い」

 約束をとりつけて、廊下に出る。身体が熱いのは学生服をきちんと着ているせいではないだろう。

 幸いにも体育館への入場を待たされたのは屋外で、みんなからは避難轟々だったけれど、俺には都合の良い時間だった。



 卒業式はおおむねつつがなく執り行われた。結局黒染めをしてこなかったギャル美と先生の小競り合いだけが目についた問題だ。

 立ったり座ったり、長々とした話を聞きながらうとうと微睡んでいると、式は勝手に進行していく。

 時間が経つほどに、すんすんとすすり泣く声が増えてくる。ふと見れば、教師の並ぶ壁際で、英語教師の小倉が目元をそっと拭っていた。

「卒業生、退場」

 体育館に響いたその声に、俺高校生活の全てが終わったのだという実感が、ぽっと湧いた。

 在校生らの拍手に追い出されるように、一組から順に体育館を出て行く。因縁のあるなし、名前の知る知らぬに関わらず、ひとつひとつの顔を見た場面が、自然と脳裏に甦る。今の今まで同級生と知らなかった女でも、どこですれ違ったかは覚えているもので、大変不思議な気持ちがする。

 たぶん俺はこうして、いろんなものを見過ごして生きてきた。

 満足か不満足かで言えば、きっと不満足になるだろう、それなりに楽しかった高校生活から、俺は一歩ずつ遠ざかる。

 振り返ることはできない。

 昨日までは考えもしなかった、漠然とした後悔が胸を悪くする。

 俺はこの三年……いや、もっとずっと長い間、生きてはいなかった。ただ「普通」という曖昧な規範に従って、死んでいなかっただけだ。

 この体育館からプールに飛び込んだ日を思い出す。もうあんな真似はできないだろう。

 ぞろぞろと三百人の行列は体育館を後にした。それぞれのクラスに向かってばらけていくと、減った人数分だけ心に隙間ができたような気がした。

 明日から、またその穴を埋めていかねばならない。ずっと昔に開いた大穴が、まだそのままだというのに。

 生徒に遅れて戻ってきた武内先生は、いくらか疲れたようにネクタイを緩めていた。

 誰が音頭を取ったわけでもなかったが、全員が自分の席についている。「おまえら」と口を開きかけた先生は、表情を戻しながら抱えてきた段ボールを教卓に置く。

「卒業アルバム配るぞー、後ろに回せ」

 前から送られてきた箱入りのアルバムを、後ろに手渡そうと振り向いた内田と、ばったり目が合った。一瞬はにかみを見せて、また前を向き直る。サイドの髪が後ろで束ねられ、ちょこんと尻尾が生えている。

「じゃあ、卒業証書配るぞー、相田」

 出席番号順に呼ばれ、それぞれが取りに行く。

 やがて俺の番になって教卓へ向かうと、先生はいったん渡しかけた卒業証書を、考え直すように取りやめて、あろうことか証書筒で自分の肩をぽんぽんと叩き始めた。

「黒沢ぁ、おまえ本当に卒業するのか?」

「寂しいんですか? なんだったら留年しても良いですよ」

「心配してんだぞ、これでも。おまえ、万が一浪人したら、親に土下座してでも塾通え。宅浪なんて絶対できないタイプだ。現役より成績落ちるぞ」

「実感こもった言い方ですね」

「経験談だからな。卒業おめでとう」

 ようやく渡された卒業証書が思いがけず重かったのは、武内先生が浪人の心配を「万が一」と言ったことに気がついたからだ。ただの言葉のあやかもしれないが、渡された信頼の重みは勘違いではあるまい。

 するべき仕事を終えると、武内先生は教室を、生徒一人ひとりの顔を確認するように首をゆっくりめぐらせながら、「えー」という言葉を、息を吐き尽くすほどに伸ばした。

「格好つけようと思ってなあ、いろいろ考えてみたんだが、先生からみんなに言うことはもうありません。良い子ばっかりじゃなかったけど――」

 と、あからさまに俺と高梨を見る。綺麗に剃った顎が気になるのか、指先で撫でながら続けた。

「悪い子でもないからな。これからは今まで以上に、自己責任を問われるぞ。先生の友達は、大学に入って一ヶ月で除籍を食らったからな。くれぐれも浮かれないように。万が一悪いことしても、俺の名前は出さないように。良いことをしたら、武内先生の教えの賜物ですって、ちゃんと言うように。……それじゃ委員長、号令よろしく」

「起立」

 と、委員長は震えた声で応えた。「礼」

 この一年で初めて、俺はきちんと腰を折ってお辞儀をする。

 武内先生が出て行くと、たちまち口々に最後の会話を始めるので、教室はわっと活気付く。いきおい瞳の潤んでいた女子は、ぽろぽろと落涙する。

 周囲に倣うわけではないが、そうして俺も生涯会わなくなることも視野に入れて、仲の良かった連中と話していると高菜がやって来て、

「黒沢、アルバムに何か書け」

 すでに数人の寄せ書きがかかれた卒業アルバムを俺の前に広げた。

「おまえはいつでも会えるだろ」

「そういう問題じゃねえの」

「まったく……」

 室内に視線を走らせる。内田はまだ帰りそうにない。まさか待たせるわけにもいかない。流れで書けと差し出されたいくつかの卒業アルバムに、同じような文言を書き連ねた。

 サインペンと共に受け取った加藤は、さっそくそれを読みながら、

「そういや、今日このあとカラオケ行く予定なんだけど、黒沢来る?」

「すまん。俺、来週入試だから。帰って勉強しないと」

「そうか。頑張れよ、受験生」

「言われなくたって」

 適当に別れの挨拶を口にして教室を出た。内田はまだ時間がかかりそうである。

 自販機に寄って、ホットの缶コーヒーを買ってから屋上に向かった。

 ガンガンと響く足音を聞いていると、たった今見ていた教室の風景が甦る。

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