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走り出したら  作者: 肉団子
6章
113/124

付き合おうか



 本当に来た。

 黒沢が隣の席に座って、椅子を寄せるまでの間に遠野は思考を切り替える。まだ別の用件かもしれない。

 しかしそんなことはやはりなく、黒沢は開口一番に言った。

「悪いんだけど、勉強教えてくれないか」

 高校に入ってはじめて、彼のうなじを見た。

「一応聞くけど、何勉強?」

「受験。別に家庭教師してくれなんて言わない。俺はどうすれば大学に受かるか、教えて欲しい」

「そうは言うけど、どこを受けるとか、今どれぐらいとかな」

「だから持って来た」

 黒沢がクリアファイルを手にしていることに気がついた。そこから折り畳んだ紙束を出してくる。コピーされた入試の過去問と、その解答および採点である。

 軽く目を通してから黒沢を見ると、疲れたような顔の中で、唯一気力を湛える瞳がまっすぐ遠野に向けられていた。

「どうしたの、これ。準備良いけど」

「遠野だろ。過去問やらなきゃわからないって言ったの」

「ああ、言ったか」

 こんなギリギリにやることではない、という言葉は飲み込んだ。

「それじゃあ、これ見てるから、ココア買って来て」

「おごらせていただきます」

 黒沢は景気良く返事をして教室を出て行った。

 英語と国語、それから選択のうちから高得点の二科目の判定であるらしい。二年分、合計十個の答案を、問題用紙の書き込みと共に見ていく。地歴・公民は中々ひどい。根本的に知識が足りていない。授業で確実にやっている部分については、きちんと取れているのだから、やる気の問題ではないだろうかと思われる。

 一番良いのは国語、それも現代文に限る。英語、古文、数学がほとんど横並びだった。決して壊滅的というわけでもないが、これでは合格点には届きそうもない。

 運ばれてきたココアを飲みながら、黒沢の傾向を検討する。

 問題用紙の書き込みから、黒沢の思考を追っていく。無意識に空になった紙コップで、かつかつと机叩いた。

 彼の解答……いや、誤答には明らかな傾向がある。

「これは、難しいなあ……」

 遠野は天井を見上げてひとりちる。


          ○


 中庭の梅の花がほころびかけている。卒業式には花開いているだろう。合格発表の頃になると、すでに満開か。

 はたして俺はそれを見に来られるのだろうか。そうありたいと思うのだが。

 昼休みの始まった校内は、にわかな活気に包まれている。バレーボールをする女生徒を横目に見ながら、次に行くべき場所を考える。

 さしたる理由もなく、体育館へと入った。スリッパを手に持って、すのこから廊下におりると、床の冷たさが靴下越しに伝わってくる。まっすぐに進んだ暗がりは柔剣道場。

 左手の階段をのぼる。踊り場を白く染め抜く陽光に、埃がきらりと舞っている。何十年も変わらないのであろう光景を、これが見納めなのだと思いながら、ゆっくりと歩んでいく。

 二階から外へ出て、そのまま二号館に入る。渡り廊下を渡って、三号館の三階へ。空き教室を抜け、茶道部を行き過ぎれば、非常階段への重い鉄扉が立ち塞がる。肩から体当たりするように押し開くと、屋上への上り階段には忍び返しつきの扉がついている。南京錠は、今日もきちんとかかっていた。

 ガンガンと音のする階段をおりて、七組の教室に戻ったときにはもう誰もいなかった。

 貼り紙でいっぱいだった掲示板はもとの緑色を取り戻し、座席表もすでに教卓から外されていた。日直も今日の日付も綺麗に消されて、すっかり寂しくなった教室は斜めに射し込む光に、薄らぼんやりと照らされている。

 ガヤガヤとした喧騒は不思議と遠かった。

 暖かな陽のなか、窓辺の机に胡坐をかいて息をつく。

 状況は決して良くはないが、気持ちはいくらか楽になった。

 厳しいとはいえ、はっきりとした目標がある。ただそれだけのことで。

 俺はずいぶんと長い間、降りしきる滂沱の雨から、一滴の幸福を探し当てようと、ただ立ち尽くしていた。それを見逃してしまうことも、また見つけてしまうことも恐れながら。そうして不幸に濡れそぼることでしか、生きられないと思い込んで。

 まだ俺は、千佳の言ったことは、よくはわかっていない。

 望むべき幸福や未来など、影も見えてこない。それを希求することが招く不幸を、心底恐れている。

 けれども歩くということは、きっと幸福と呼ぶに相応しい。

 押されも引かれもせず、自らの意志と足で、たしかな目標へと歩むこと。生きるということは、それに尽きる。

 誰かと寄り添い、共に歩めること。おそらくはそれが、それこそが、かつて俺がこの手で壊し、しがみついた瓦礫の正体だ。

 ふいに、背後でシャッターを切る音がした。

 甲羅干しをしていた亀のように、のそりと背後に首をめぐらす。ギャル美がカメラをふりふり、隣に座った。

「背中は絵になるね」

「顔は悪いってか」

「そんなこと言ってないじゃん」

 ギャル美はおかしそうに身体を揺らした。

「何してんの?」

「ぼーっとしてた。ひなたぼっこ?」

「ああ、いいねえ、ひなたぼっこ。私、ひなたぼっこって言葉が一番、可愛いなって思う」

 頬杖をついて、顔にかかった髪を後ろへ払う。すらりと走る顎のライン。ピアスがきらりと光を反射させた。

 俺に倣ってか、ギャル美もそうしてぼんやりと窓の外を見つめ始めた。

 背後には一年間を過ごした教室が、ぽかんと広がっている。

「ギャル美こそ何してたんだ」

「生徒指導室にね」

「お礼参り?」

「違うわよ。ほら、髪の毛。卒業式くらいなんとかならんのかって、もう指導じゃないね。泣きつかれたわ」

「卒業式に出さないぞって言われなかった?」

「言われた言われた。鬘かぶって行って、中で取ってやろうかしら」

 まったく思ってもいないだろうことを、ギャル美は冗談めかして口にする。

「入学式はどうしたんだ?」

「あのときは、まだ染めてなかったから」

「そうだっけ?」

「四月のうちに染めたし。クラス違えば、その後しか知らないでしょ」

 記憶にはないが、それ自体あきらかに目につく彼女がいなかったという証拠だろう。

 制服にしろ髪色にしろ揃って暗いから、彼女は夜空にひとつきり煌く月のような金髪だった。すれ違いざまにその様子に目を奪われてみると、その端整な顔貌に驚いた。

 美人は三日で飽きるというが、彼女を知るほどにその内側に潜む、可愛らしい部分が顔をのぞかせて、むしろ以前より好意的に思う。まったく得な女だ。

 スズメが数羽、窓外を横切っていく。その他には何一つとして変化のない景色を、しばらくどちらも黙りこくって見つめていた。

 いつの間にか昼休みは終わっていて、本当に数百人も敷地内にいるのかと怪しむほど静まり返っていた。

 俺たちを包む静寂も、冬の陽も、卒業を惜しむ心のうちを、くっきりと浮かびあがらせる。

 思いついたような唐突さでギャル美が言った。

「ねえ、付き合おうか、私たち」

「あー……」

 空白の思考に、そういう将来が描き出される。悪くは、ない。

「悪い。俺、好きな子がいるんだ」

「そっか。だと思った」

 数秒遅れで、言葉の意味を認識する。ゆるやかな理解と合わせるように、ゆっくりと目が見開かれていく。

「ええっ!」

 声をあげて身体をよじった途端、机のバランスを崩して俺は床に転がった。「ああ、もう、何してんのよ」と、ギャル美は机を起こしてから、俺の服を払った。

「えっと、今の……」

「振っておいて蒸し返す気?」

「いや……え、なんで?」

 見上げたギャル美は、まるでいつも通りの顔をしていた。

「はぁ――まあ、それも悪くないなって思っただけよ。それよりさ、さっきの言い方、まだ付き合ってないのよね?」

「え? ああ、まだ……」

「それじゃ、告白は卒業式の日がおすすめだから。なんだかんだ言って、定番に弱いもんよ」

 頑張れよ、と俺の頭をぽんと叩いて、彼女は踵を返して歩き去る。

 出入り口で立ち止まり、少しの間じっとしていた。俺はようやく身体を起こして、フリーズした頭を立ち上げる。

「何年か経って、きっと後悔するからね。黒沢の人生で、私以上の美人にこんなこと言われること、もうないよ」

 声が震えていた。冗談を口にして笑っているのか、それとも何かを堪えているのか、俺にはわからなかった。

「すごい自信だな」

「まあね。じゃあ、また」

 手をひらりと振って、彼女は教室を後にした。

 何秒も、何分も、ずっと遅れて、俺は動き出した。

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