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走り出したら  作者: 肉団子
6章
112/124

本当に来た

 春休みに入っても、遠野誠の生活は普段と何ら変わりがなかった。

 それは卒業が決まっているからだという理由ではなく、少なくとも中学入学以来の六年間は基本的に同じスケジュールで行動している。

 朝の五時半に起きるとまず顔を洗って、歯磨き粉を使わずに歯を磨く。朝食までの一時間読書をする。読むものは教科書か参考書。気分ではなくローテーションで変わる。

 寝ぼけ眼の妹と朝食を終えると新聞に目を通す。それが終われば登校時間までの時間は、娯楽的な読書をするか、朝のニュースを見る。

 休みに入っても彼の時間割は学校にいるときと変わらない。ただし受験に不要な教科はバランス良くそれぞれに割り当てられている。放課後に用意された七時間目と八時間目までを終えると散歩に出かける。雨の日でも同様である。台風の日はさすがに自重する。

 そして夕食を終えると、少々の休憩を取ってからまた勉強。遅くとも日を跨ぐころには床に就く。学校に行っている間には適宜、誘いに応じることもあるが、あえて無理に取り返すことはしない。そういう辻褄あわせが、案外自らの気力を削ぐことは、身を持って体感したからだ。

 二次試験までは一週間。ほんのわずかに、テスト返却ぐらい欠席しても良いのではないかと頭をよぎるが、それは自分の決めたルールに反すると思い直し、遠野は身支度を整えた。

 万が一に備えて、電車で登校した。もはや万全の体調で試験に臨むことが、もっとも肝要である。

「遠野。二次ってもう終わった?」

「まだだよ」

 という会話を何度もしながら、次々教室に運び込まれてくる採点済みの答案用紙を受け取る。選択授業も同様で、順に呼ばれる生徒が教卓に向かう。

 担任クラスのない教師とは、これが最後の対面と言っても良い。幾人かの教師は感慨深げにしているが、実に事務的に答案を返却する者もある。

 脂っぽい二重顎をさすりながら、数学演習の担当教官は遠野に渡しかけた答案をじっと見つめた。

「君は先生の授業、ちゃんと聞いてたか」

「半分は」

「ふむ……ここまでくると、腹も立たんね」

 ひらりと渡された答案用紙には、赤ペンで九八点が書き込まれている。どこで間違えたのかを目で見ながら、遠野は口を開いた。

「これだけが取り柄ですから」

 単純な計算間違いである。本番ではもう少し丁寧にやろうと心に留めておく。

 自分の席に戻って、問題用紙と見比べながら、採点間違いがないかの確認ついでに、簡単に復習する。機械的に目と頭で追っていると、ちょうど風呂や歯磨きといった習慣を行っているような、一種の無意識状態になる。

 ――これだけが取り得だもんなあ。

 ならば素直に進学校にでも行けばよかったのではないかと、近頃は思うようになった。妹がそういう選択をしたせいだろうが、まさかそれだけではない。そもそも遠野は、反省をする人間である。常に自分の足跡を確かめて、その歩みに誤りがないか検討する。

 それを今さら考えるのは、本番が差し迫っているからだし、きっとそれだけ自分の心を顧みるだけの余裕が生まれたということだろう。

 最後の一問まで終えて、遠野は紙束をまとめて折畳んで、鞄にしまう。

 一言であらわすならば、それは「反抗期」と呼ぶべきだろう。両親は放任主義というわけでもないが、決して口やかましくもない。反抗するだけの抑圧を感じなかったが、年なりの反骨精神も持ち合わせていた。同時に大きくは逸脱できない常識も備えていた。

 妹は絶賛反抗期である。主に兄に対し、することなすことケチをつける。余計な苦労をさせずに済みそうなことは兄冥利に尽きるが、やはりすこし寂しいものがある。

 次々と返却された答案をいちいち見返して、すべての教科を終えると、担任の中年女性が現れた。二月末日に行われる予行と、三月一日の卒業式の時刻を告げられて解散になった。

 まっすぐ帰るか、気分転換に学校で軽く勉強をしていくか思案する。時計を見ると、十二時を少し回った辺りである。中原を誘って昼食に行っても良いかと考え、ふと教室の入口を見る。

 ぞろぞろと帰っていく人の流れに逆らって、黒沢修一が現れた。

 本当に来た。

 暗くはない嫉妬心が、灯って消えた、本当に来た。



「お兄ちゃん、お客さん」

 真理がノックもなく部屋のドアを開いた。お互い様だからなのか、彼女はちっとも気を遣ってくれない。

「女の人」

 小馬鹿にするような、野次馬めいた好奇の声。そもそも遠野家には中学以来訪れたことのない内田麻衣ではないなら、心当たりは一人だった。

「ありがとう」

 開いていたページにシャープペンシルを挟んで立つ。午後の四時過ぎである。

 靴下を取りしなに見えた窓からは夕空が見えた。高い雲が下方からの陽光で輝いてる。

 外出の準備を整え玄関に向かう間、妹はやはり完全におもしろがって、

「誰なの? 学校の人?」

 と後をついて、しつこく訊ねてくる。

「内田の友達」

 楽しませてやるのも癪だったので適当に答える。嘘は言っていないはずだ。

「ははぁん」

 勝ち誇ったように見下ろして、口の片端をにやりと持ち上げる。見下ろされているのは、靴を履くために屈んだからであるが。

「なに」

「隠すってことは彼女だね。名前も確認しないんだから」

「約束があるとは考えないのか」

 玄関扉を開けて、悔し紛れに問いただす。

「こんな日に約束するなら、余計に彼女でしょうに」

 呆れたような顔をされた。

 こんな日? 試験日までの残り日数だけを数え下ろしていたせいで、すっかり暦を失っていた。逆算すると二月の十四日だ。

「あ、そうか」

 バレンタインデー。その単語に思い至るのと、エレベーターが一階に到着するのは同時だった。自動ドアのガラスの向こうで、中原千佳が小さく手を振っていた。

 キャメル色のダッフルコートが、変にだぼっとしていて遠野の表情が和らぐ。近頃伸びたと感じる髪は、二つ結びに垂れている。普段は風に任せていることを思うと、新鮮で可愛らしい。それから、近付いておやと思った。

 本当にうっすらではあるが、化粧もしているらしい。

「ごめんね、勉強してたでしょ」

「うん。でももう、ほとんど終わってるから」

 入念に復習をし、徹底的に不安を潰す。これから下手に手を伸ばしたところで、自信を失い、いきおい覚えていたことさえ思い出せなくなる。

 ガラス戸を押し開けて、吹き付けてきた寒風に遠野は瞬いた。

「寒いのに悪いな。家だと、妹がうるさそうだから」

「あ、出てくれたの妹さん? 真理ちゃんだっけ」

「あれ、名前教えたかな」

「修ちゃんに聞いた」

「あの二人、なぜか馬が合うらしい」

「あいつ、精神年齢が幼いのよ」

「なるほど」

 それは考えたことがなかった。そういえば真理も頭脳は明晰だし、あの年頃の女子がそうであるようにおませであるが、妙に幼い部分がある。好奇心の向くままぴょこぴょこと動き回るきらいがあった。

 行き先はない。用向きを訊ねてもはぐらかされたし、どこへ行こうとも言わない。しかたなく遠野は、適当に歩みを進めた。

 川縁の遊歩道は、すっかり冬枯れた桜並木である。夕陽がビルの谷間に見え隠れするのを二人して見ながら言葉を交わした。

 会うのは二週間ぶりだった。遠野の受験を気遣って、終わるまでは距離を置いてくれているのだが、本当に連絡のひとつもなかったのは、遠野としては正直予想外だった。しかしその気分が良いほど筋の通った姿勢は好ましい。

 どれほど歩いたか、公園が見えてきた。小高い丘が作られており、様々な種類の桜が植樹されているが、やはりどれもこれも枝ばかりが伸びている。

「あれ、登ろう」

 はじめて中原が意見を言った。遠野に断る理由はない。

 蛇行する石段を上る。頂上はぽかんと拓けていた。春になれば花見客でいっぱいになるだろう。

 中原は自分の鞄をごそごそと探り、遠野の表情をうかがう。

「ま、わかってただろうけど。チョコあげる」

 板チョコだった。パッケージは黒い。大きく「80%」と書かれている。カカオ割合らしい。

「大詰めでしょう? 苦いし、目も覚めるかなって」

「え、ああ、ありがとう」

 あまりに予想外で、言葉はそれしか出てこなかった。もっと甘い何かを想像していたのに。

「まあ、冗談だけど」

 中原は可愛くラッピングしたトリュフチョコを、遠野の眼前で揺らした。色とりどりのチョコが、コロコロと揺れ動く。

「ありがとう。めちゃくちゃ嬉しい」

「やっぱり板チョコじゃ嬉しくなかったか」

「……ちょっと頭が動かなくなってた。というか、このチョコすごいな、手作り?」

「そうよ。まあ溶かして丸めて粉ふっただけだけど」

「いや、美味しそうだよ。ありがとう。勉強のお供にする」

「うん」

 と、肯いたまま、中原は足元に視線を落とした。それからしばらく、もじもじと言葉を探していた。そのうちに太陽の姿はすっかり沈み、霞んでいく青空と迫り来る夜がせめぎ合いを始めた。

 熟慮の末に中原は、数分のうちにぐっと冷えた空気をいっぱいに吸い込んで、口を開いた。

「誠も今が一番大事っていうのはわかってるんだけど、もし……もしね、修ちゃんが頼ってきたら、勉強見てあげてくれないかな」

 もしと仮定しておきながら、その声、表情や仕草には、明らかな確信が宿っている。

「修一が? 俺のとこになんか来るかな」

「わからない。でも――」

 何かを言いかけて、悲しげに目を伏せた。

「だから、もしもよ。あいつが誠に頼るなんて、きっとそれなりに思うところがあるだろうからさ。ちょっとだけでもいいの。時間作ってあげて」

「……まあ、人に教えるのも勉強の一環だから」

 黒沢が頼ることを信じている一方で、そうならないことを恐れてもいる。遠野にはそう感じられた。人生のほとんどを知っている幼馴染と、ほんの三年ばかりしか知らない者の差だろうか。

 どちらに対しても、嫉妬心を抱いている。

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