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走り出したら  作者: 肉団子
6章
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孤独な夜道

 歩きつめた道を振り返れば、ずっと暗闇が続いている。行く先も同様だ。

 置き去りにしたのか、先に行ってしまったのか、同行者の姿はない。何かを分かち合えたような気がした彼女は、しかし歩む速度は全然違っていた。

 孤独な夜道を、俺はずっと歩く。



 下足ロッカーを眺めながら、ふいに今朝の夢を思い出す。

 夢……というよりも、追体験と言うべきだろう。季節はたぶん、夏だった。それでも肌寒くて、心細い夜だった。

 あの道に至るまで、そしてその後も、俺はずっとそういう道を歩いている気がする。

「いっせーの、で開くぞ」

 高梨が背後で言う。舌なめずりするのが見えるようだった。

 面倒くさいという態度を隠さずに返事をする。

「はいはい」

「せーのっ!」

 自分の下足ロッカーを開けると、校内用のスリッパが入っている。覗き込んでみても、それ以外のものはない。

「あった?」

「あるわけないだろ」

「くっそ、引き分けか」

 高梨は悔しそうに、スリッパを地面に叩きつけて履きかえた。

 二月十四日――

 学年末考査を終えて、高校生活は実質的に終了した。テスト返却で一日、卒業式の予行と本番で二日。残す登校日はその三日きりである。

 授業がすでに始まっている昇降口は、いやに静けさが幅を利かせていた。こんな日に登校する三年生は、この後に及んで追試を受けるバカだけである。

 高梨はそのバカであるが、俺はバカではない。

 家だと集中できないし、どこかで勉強をしようと思っているところへ、一人だと寂しいとかわけのわからない理由で、俺を誘ってきたのである。

 そして今日は男子にとっては天国と地獄を分ける一日、バレンタインデーである。「ものすごーくオレらを慕ってる後輩が、靴箱に入れてくれるかもしれねえじゃねえか」と、高梨がチョコの数勝負をしようと言い出した。

 やっぱり彼はバカなんだと思う。

「そんじゃあオレ、追試行ってくるから」

「図書室か自習室にいるから。終わったら呼びに来い」

「おう」

 高梨とはその場で別れる。

 わざと下級生が必死に授業を受ける様を眺めながら図書室へと向かう。どうして校長が事業中の廊下を歩いていたのかがわかるようだ。

 たいへん気分が良い。とても偉くなった気がする。

 しかしまあ、気のせいである。

 実際の俺はいよいよ土壇場に追い詰められたも同然だ。高校三年生としても、受験生としても、残った日数はほとんどない。浪人生になるのか大学生になるのか、あるいはフリーターとか、首尾よく社会人になれるのか。そういう人生の岐路に差しかかっている。

 見上げた青看板にはこの先に何があるのかしか示されておらず、どの道を辿れば良いのかもまだわからない。

 図書室は空調の低い唸り声が、小さく壁を震わせていた。窓から射す陽光にキラキラと埃が舞う。

 持ってきた参考書を机の上に広げて気合を入れる。

 文字を書くほどに、ページをめくるたびに、脳が余分な機能を一つずつ休ませていくような感覚。集中すればするほど、そうしてできた余分にまったく別の思考が流れ込んでくる。

 望まなければ幸福にはなれない。では俺の望むべき幸福とはなんだ?

 ずっと普通に生きたいと思って生きてきた。それはたぶん父親不在の穴埋めであり、心の疵を快復させるためだけの、対処的な生き方である。

 溺れぬようにもがいていただけで、決して泳いできたわけではない。

 確かな意志をもって、自分が進みたい方角を持たねばならない。たぶんそれが、生きるということなのだ。幸福を希うということである。

「幸せってなんだろうなあ……」

 誰もいないのをいいことに、俺は考えるままに恥ずかしい独り言をもらす。

 お金持ちになること。満たされていること。自由であること。そりゃ、それを不幸と感じる人間は少ないだろう。けれども何と言うか、それらは手段であるように思う。もっと別の、人が望むべき幸福とは、もっとささやかで、具体的であるはずなのだ。

「本に囲まれてると、哲学的になっちまうなあ……」

 意味のない言葉と共にページを進める。英語の固まりに目が霞む。

 窓の外に目を向けると、ビルの上を滑るように移動する太陽が、目の奥に飛び込んでくる。すくなくとも、陽だまりでのんびりとできることは幸福である。

 猫にでもなるかと考えていると、チャイムが鳴った。休み時間を告げるその音を境に弾けた活気が、壁伝いに響いてくる。時計を確認すると、ちょうど三時間目が終わったらしい。

 休憩でも取るかと思って席を立つ。廊下には後輩たちが溢れていた。まさか彼らと隣り合って小便をするのも気まずいので、わざわざ三年生の教室のある区画まで移動しようと歩いていると背後から声をかけられた。

「あのっ」

 はきはきとした男の声。振り返ると、いかにもスポーツマン然とした男がいた。スリッパの色は二年のものだ。

「ん?」

「黒沢先輩っすよね。あの、変なこと聞くんですけど」

 彼はそこで言葉を切って、こちらの意思を確かめる。身振りで話を促すと、

「あの、内田先輩と付き合ってんすか?」

「あァ?」

 喉の奥から、脅すような声が出る。後輩は諸手を挙げて敵意が無いことを示している。

「いやあの、内田先輩も今日学校来てましたし、ちょっと前競争してたじゃないっすか。あれ、夫婦喧嘩だって陸部で噂になってて、もう卒業しちゃうし、気になりっぱなしってのも、むずむずするじゃないっすか」

「え? 内田も来てるの?」

「あれ、知らないんすか?」

「追試?」

「なんか部室掃除するって言ってましたけど」

「ふうん」

 内田らしいと納得する。「じゃ、先輩に聞け、先輩に」

「うわ、そんなあ! 直接聞きにくいから黒沢さんに聞いてんのに!」

 言葉ほど真剣ではない悲鳴に手を振って階段を下る。

 あれは悪目立ちしたなと、今さら反省する。しかしまあ、そういう噂が立っていると聞いても悪い気はしない。どうせすぐに卒業する学校だからだろうか。

 卒業しても行く宛てのないことが、じわじわと俺に這い寄ってくるようである。



 わざわざ不要な登校をしてまで勉強をするのは、まさか高梨への付き合いだけではない。五十分に一度の休憩が自然と取れるし、ウォータークーラーの水は飲み放題である。そして安くて美味い学食がある。

 親に面倒をかずとも、また自分が手間をかけずとも良いのだから、利用しない手は無い。

 すっかり三年生がいなくなった食堂で、俺と高梨は昼食をとる。もはや学校の支配権は二年生に移っている。俺たちはお客さんだった。

 ざわめきの中に知った声はない。見回しても皆後輩である。

「肩身狭いなあ」

 高梨は炒飯をスプーンで切り取りながらしみじみと言った。

「俺は家でも肩身狭いよ」

 進路はどうなっているのだという、有言無言を問わない問いかけで、すっかり参っていた。何より俺が悪いのだからどうしようもない。

 食べ終えてもだらだらと雑談をするうちに、徐々に人が減ってゆき、予鈴を潮に食堂はがらんどうになる。

 昼の放送も終わって食器を洗う音だけを聞きながら、思い出話に花を咲かせていると、遅れて食堂にやってきた教師が、俺たちを見つけて目を剥いた。

「もう授業だぞ」

「いや、オレら三年です」

 高梨が足をあげてスリッパの色を示す。先生は振り上げた拳を下ろしかねるというふうに、

「ああ、おまえらか……こんなときばっかり学校に来やがって。大学には大人しく通えよ」

 と、小言を残して注文に向かう。

「大学だってよ、黒沢まだ決まってねえのにな」

「うるさい」

 いたずらっぽく笑みを浮かべて身を乗り出した高梨の頭を、軽く叩いた。

 指先の衝撃が、閃きを生んだ。

 席を立ってカウンターに向かう。手早く炒飯を作っていた食堂のおばちゃんが、愛想の良い顔をこちらに向ける。

「はいよ」

「今日ってバレンタインデーじゃないですか。俺たち、チョコもらえないかなって学校に来たんですけど、後輩誰もくれなくて。もしかしてチョコとかありません?」

「あら。あんたら、そんなバカな理由で学校に来たの? あっはははっ」

 あまりにも率直な感想だった。

「まあ、そんなバカな理由です」

「チョコねえ、チョコ……。あっちの冷凍庫には、チョコアイスもあるけど」

 自然とカウンターの端に置かれた、縦深い冷凍ショーケースに目がいった。

「それは負けた気が――」

 視線を戻すとカウンターの上に、フィルムに包まれたチョコレートが転がっていた。

「毎年チョコねだる子がいるからね。持ってんの。まあさすがに、三年生が来たのは初めてだけど」

「うわ、ありがとう」

 チョコを摘み上げて高梨の元へ引き返す。見せびらかすように振ってみせる。

「俺の勝ちだな」

「なにそれ、ずるい」

 高梨も慌てておばちゃんの元へと駆け寄った。

 高校生相手のあしらい方も、勤めた年月の分だけ上手である。たかだか三年通った俺が、暇つぶし相手にしようと思っても、あっさりとかわされてしまった。

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