楽しいか?
「楽しいか? それ」
唐突にかけられた声に驚いて、足元の石を踏みはずすようによろけながら声のほうを見る。渡月橋を背負うように、同年代の男が一人立っていた。
切れ長の目と鷲鼻が特徴的な顔に、見覚えはある。
「……えっと」
「眞鍋。ま、喋ったことないからな」
「ああ、眞鍋か」
顔と名前がはじめて一致した。走っている姿なら思い出せるのに。
長距離選手らしい細身の体型。脚が長くて頭が小さい。
「で、なに」
「水切り楽しいのかって」
「別に。暇つぶしだし」
「あっそう」
眞鍋は二度三度、石を拾って川に投げた。数回跳ねて沈んでいく。
「おまえさ」
と、眞鍋は拾った石を弄びながら、何かを言い淀むように間を置いた。
「中学のとき、陸上やってたんだろ」
「まあな」
「なんでやめたの」
「みんな訊くな、それ」
「みんな?」
「もう陸上はいいかなって。走るだけだし」
「今なにかやってんの」
「いいや。暇してる」
すっと真鍋の眉間に皺ができる。「それで……」
「なに?」
「……いや、なんでもない。悪かったな邪魔して」
吐き捨てて去っていこうとする。その肩を掴んで止める。
「なんでもねえってことはないだろ」
「なんでもないって!」
腕を後ろに振って、俺を振り払った。たぶん偶然だ。その手が俺の胸を叩いて、よろめいた拍子に大きな石に躓いて、俺は派手に転んだ。
水音と一緒に、冷たさが脳に届く。上手に転んだつもりだったが、場所が悪かった。上半身がびしょ濡れになる。
「あっ」
と、眞鍋はこちらに足を一歩踏み出し、手を伸ばそうとする。しかし途中で、バツが悪そうに顔を歪めた。
「悪い」
それだけ言い残して逃げていく。
状況の整理が追いついていないせいか、不思議と怒りは湧いてこなかった。あいつ、何しに来たんだ?
とりあえずシャツを脱いで絞る。集合時間までに乾かす方法、あるだろうか。
ゴールデンウィークの初日、俺は待ち合わせ場所に指定された大型電気量販店の前で、柱に背中を預けていた。右から歩いてくる人を左に見送り、左からやってくる自転車のメーカーを確認する。信号待ちのトラックのナンバープレートの数字を、足したり掛けたりしてみる。
いかん。緊張している。
ちょっと待ち合わせて女と出かけるだけで、俺は何を緊張しているのだ。夜の公園で二人きり、太ももに見惚れたりするほうがよほど緊張する場面ではないか。それを今さら買い物ごときで……。
どれだけ自分に言いきかせても頭の中には「デート」の文字がちらついた。
十七にもなって、休日に女の子と二人で買い物に行くことに緊張している自分が情けなかった。昨夜、幼馴染で内田の友人でもある中原千佳に相談すると、
「アホか」
と、一蹴された。曰く「麻衣が期待しているのは修ちゃんであって、私がアドバイスしたあんたじゃない」とのことだ。
自分ってなんだ。休日に女の子と二人きりで出かけるなんて、それこそ千佳を除けばまったくと言っていいほどない。それ自体がもう俺らしくないのではないか。だいたい、普段の自分だって自分と言えるのか……自分の尻尾を追う猫のように思考がぐるぐる回っていた。
「わっ!」
だから、突然かけられた声に、俺は驚いて体と心臓が一緒に跳ねた。
「うわっ!」
いたずらがバレた犬みたいに眉毛を下げた内田の上半身が柱から生えていた。その姿を見て、驚きばかりではない、さきほどまでの緊張も潮のように引いていった。
なんだ、内田じゃないか。
「ごめん、そんなにびっくりするなんて思わなくて」
「いや、俺も考え事しててぼーっとしてたから」
「じゃあ行こっか」
と、下半身が出てきた。
膝を隠すくらいの丈の、白くてふわふわしたスカートだった。制服以外にスカートを持っていることに、しかも女の子らしいデザインであることに、内心驚いてしまう。
スカートからすらりと脚が伸びている。動くたび、ちらちら見える形の良い膝小僧。ふくらはぎは適度に鍛えられているが、わずかについた脂肪が女性的な柔らかさを演出し、足首の細さに馴染んでいる。
上半身はゆったりとした、薄い青のシャツだった。服は可愛いが、そのおかげで、いや。そのせいで胸は目立たない。
「どこ見てるの?」
じろりと俺を睨む。けれど責めているふうではなく、たしなめる感じ。慣れっこなのだろうと心中を察する。
「そういう女の子っぽい服も持ってんだなあってさ。いつもパーカーとかジャージとかスパッツのイメージだから」
「お出かけだもん。普通の服だって着るよ。運動するときはあっちのほうが楽ですけど」
それから「どう?」と言いながら、その場でくるりと回る。耳を出すようにサイドを後ろへまわしてシュシュでまとめた髪が、すこし遅れてついていく。
「うーん、シャツがすこし大きいかな」
「背がね、止まっちゃったから」
よく晴れた青空を見つめ、内田はため息をついた。
「いつ頃?」
「中学三年だったかな」
「そのシャツ買ったのは?」
返事はない。内田は目だけで俺を促して歩き出した。後をついていく。
「あ、でもその髪型は可愛い」
「そんなんじゃ誤魔化されないよ」
と、睨みあげてきたかと思うと、柔らかく崩れる。「でも、ありがとうございます」
「それなんて髪型なの?」
「さあ? たぶんハーフアップとかじゃないかな」
信号を渡って、水族館通りという水槽の並ぶ道をいく。いちいち立ち止まり、魚の名前を確認しながら進み、出口で折れてガード下を抜ける。
「そういえばどこ行くんだ?」
「あれ? 言ってなかった?」
「聞いてないな」
タイミングを見計らいながら道路を横切り、内田が指差す。
「ほら、あれ」
その建物に俺は覚えがあった。
シューズを主としたスポーツ用品店である。三フロアにずらりと靴、服、その他専門道具などを所狭しと並べている。久しく訪れてはいないが中学時代は何度か世話になったし、今でも財布には未練がましく会員カードが眠っている。
入ってすぐ、筋骨隆々のマネキンが出迎えてくれる。
内田は迷うことなく二階にあがる。ああ、そういえばこうなっていた。呼び起こされる記憶に、俺は自分の肉体と精神とがずれるような錯覚を感じた。体が重い。
スパイクのピンを陳列している棚の前で内田は止まった。陸上のスパイクには二種類のピンが存在する。グラウンド用のニードルピンと、全天候型用の平行ピン。競技場の多くはこの全天候型のトラックで、学校のグラウンドは多くが土である。ピンを取り替えることによって、どちらでも使えるというわけである。
「ごめん、おまたせ」
と、こちらを向いた内田の手には平行ピンの袋があった。試合用だろう。
「それ買うの?」
「うん」
「それじゃ俺ちょっと見てていいかな」
「……うん? わかった。二階?」
「と、思う」
一旦別れて。俺は店内を見て歩く。二階の奥に、俺の記憶が正しければ……。
棚の陰が見えてくると、やはりそれはあった。
床にゴムが敷かれている。全天候型トラック。遠目にはわかりづらいが、近付いてみるとゴムの粒をまぶしたようで、でこぼこしている。
一歩、そっと足を置く。硬いが、軟らかい。不思議な感触。俺はここにスパイクのピンがぐにゅりとめり込む感覚が好きではなかった。足裏はきちんと覚えている。いつも早く終わってくれと、そればかりを考えていた。
緊張を思い出す。息が苦しくなってくる。
嫌いだった。陸上をやめて清々した。それなのに、俺の胸には何かがつっかえていた。ずっと気付かずに、いや無視してきたものが、ここに来てから、吐き気のようにせり上がってくる。正体がつかめない。
トラックが溶けて俺を呑みこむ。どうしようもないことに引きずられていく。
「黒沢くん?」
かけられた声に、はっとする。酸素が素直に喉に滑り込んだ。内田はきょとんとしている。
「おう」
「買ってきたよ」
と、レジ袋を掲げる。
二人で店内を無目的にうろついた。二階の一角には陸上のユニフォームが並んでいた。
やっていた当時はなんとも思わなかったが、こうして離れてみるとさすがに露出が激しい気がする。学校レベルはまだマシで、プロともなるともはや水着である。比較的布面積の大きいものでも、タンクトップとスパッツだ。
しげしげと棚やマネキンを眺めていると、脇にいた内田が俺の肩をつついた。
「ねえ、黒沢くんって、やっぱりスパッツが好きなんですか?」
「はあ? や、やっぱりってなんだよ」
「私がスパッツ穿いてるとき、よく脚を見てません?」
「バカおまえ、そんなわけ……」
「好きなの?」
「……嫌いじゃない」
「あ、認めるんだ」
内田は感心したように肯いた。
「いや、一般的にな? 陸上をやってる奴ってのは、まあ八割方はスパッツフェチになると思うんだよ。機能性良いし。見た目も良いし。うん、一般論だよ」
ころころと内田が笑う。
「どうしてそんなに必死なの」
「別に必死じゃ……」
ふいと背後を見る。
「黒沢くん?」
「あ、いや……なんでもない」




