壊れゆく泡沫
「ねえ、左だっけ?」
「って言ってた」
商店街を出ると、突然に視界がひらける。ビルの窓々にオレンジの陽光が反射している。さすがにその光からは熱を受け取れない。
それほど強くない風が、身体を震わせる。
「しーちゃんさ、こんなに寒いのにアイスなんて食べて大丈夫なのか?」
「あ、お腹とか壊すかな?」
見知らぬ大人に見下ろされ、しーちゃんはアイスを鼻の頭につけながら、俺たちの表情を観察する。
ふいに思い立ったらしく、ソフトクリームをこちらにかかげた。
「あげる。ひとくちだけね」
「あー、せっかくだけど、さっきパフェ食べちゃったから」
「ん!」
私のアイスが食えんのか、というふうに、不機嫌そうに突き出してくる。お金を出したのは俺なのに。
「じゃあ、一口いただきます」
遠慮してちょびっとだけ齧る。すると、しーちゃんはにんまりと笑い、鼻息を荒くした。
子供の感情表現がいまいちわからないが、喜んでいるのだろうか。
ぺろりとアイスを食べ終えると、しーちゃんは俺の手も取って、時々ぶら下がりながら歩いた。その人懐こさに、ギャル美と目を合わせて苦笑する。
アイス屋が言ったのであろう信号を待ちながら、道路の向こうを確かめる。角に大きなマンションがあるが、雑居ビルと弁当屋、道路を挟んでまたマンション。
「どっちだと思う?」
「正面のでしょ」
「いやあ、わからんぞ。あのおっさん、すごく適当言いそうだ」
「ね、しーちゃん。しーちゃんのお家はあれ?」
俺の言葉は無視して、少女に確認する。しーちゃんは「うん」と肯いた。
「ほらね」
ギャル美が勝ち誇ったように眉を上げた。そういう動きをしても、額に皺が目立たないのが不思議だ。
そうして視線で火花を飛ばしあううちに、電子音が信号の変わったことを告げる。二人で手を引いて、少々緊張しながら横断歩道を半ばまで渡ったときだ。
「しーちゃぁん!」
と、背後から声がした。「しーちゃぁん! しーちゃぁんっ!」
声は繰り返し近づいてくる。振り返ると、両手いっぱいに買い物袋を持った女性が走って来る。
「ママ!」
しーちゃんは、想像した通りの言葉を叫んだ。
手品を見せたときよりも、アイスをおごってやった時よりも、差し出されたそれを食べたときよりも、ずっと嬉しそうな声だった。
思い出したように泣きじゃくるしーちゃんの頭を撫でながら、おばさんはしきりに頭を下げた。「ありがとうございます」と繰り返す。
様子の良い中年女性である。ずいぶん綺麗だったが、年齢は四十を前後するくらいだ。三十を超えてできた初めての娘を精一杯に可愛がっている光景が自然と想像できた。
ずいぶん遠くまでそうして頭を下げていた親子が見えなくなると、正面に向き直ったギャル美は言った。
「黒沢ってさ、案外優しいよね」
「あ?」
「さっきも私のこと、助けてくれたでしょ」
「そりゃ、同級生が困ってりゃ助けるでしょ、普通」
「まあ、普通ね。でもその普通を、普通にできる人って、そんなにいないんじゃない?」
「だからって優しいとは限らないぞ。俺が悪人だって、困ってる奴には優しくする」
「それじゃあどうして、さっきの子を助けたのよ」
「迷子をほっとけってのか? ギャル美は鬼だな」
「ほら、優しい」
違う。
街灯が目立ち始めた道の先を見つめ、唇の裏で反論する。
困っているから助けたわけではない。優しいからでもない。
さまよい歩く少女を見たとき、俺はたった一人、かつての家で積み木をしていた自分を思い出していた。
助けて欲しかった。
たぶん今でも、助けて欲しい。
心のどこかでは、孤独を持て余して泣き暮れている。父親がおらず、助けを求めるべき母親は病気がちだったから、頼るべき大人がいなかった。表面上のいろんな穴を埋め合わせるために、心にぽっかりと穴を開けたのだ。
涙の浮かぶ気配がして、俺は欠伸をするふりをした。両手に息を吹きかけて温める仕草の流れで、そっと目元を拭う。
そうして自分さえも欺き続けていた。それは些細なことであると、信じ込んで生きていた。
空の裾がクリーム色に暮れ残っている。そういえば、夢でみた心の世界も、空はクリーム色だったことを思い出す。
「黒沢さ」
ギャル美がなんでもないふうに言った。そう、いかにもふと思いついた感じを、装っている。
「なに?」
「気のせいかもしれないけど、最近元気ない?」
「……高三の一月の終わりに、進路がまったく見えてなくって元気な奴はいないだろ」
「それもそっか」
これも誤魔化しだ。忌々しく細めた目に、ギャル美の金髪が映る。夜に沈むことを拒否するように白抜きに輝いている。
いつか彼女が髪を染めた理由を語ってくれた。自分の限界への、ささやかな抵抗。たしか「背伸び」と言っていた。
「いや……でもまあ、ちょっと落ち込み気味かな」
「へえ」
ギャル美は簡単な合いの手を入れる。言葉は短いけれど、声音は穏やかである。話を促すふうでもない。話したければ聞くよという、言外の意思がはっきりと伝わる。
彼女こそ、優しい。
「幸せになりたくないんじゃないかって、言われたんだよ。そんな奴、いないだろ? 不幸になりたい奴なんていない。でも、否定しきれなかった。言われたときにさ、やっぱりかー、みたいな。そんな気持ちがあったんだ。それでうじうじ考えてて、自分じゃどうでもいいことだって思い込もうとしてた両親の離婚がさ、案外大きな影響あったのかもってな。でもそんなこと、今さらどうにもならないから」
寒さのせいか、鼻がむずむずとする。すんとすすって、空を見上げると、ぽつんとひとつの星が浮かんでいた。
ともすれば見失いそうになる弱々しい光。
「でもたぶん、端を発する、ってやつだ。離婚なんていまどき珍しくもないだろ。それなのに……そもそも俺、姉がいるし。だからやっぱり、俺自身の問題なんだよ。一人で積み木やるみたいにさ、何が原因で、何がどうなって、どうすればいいのかって、積んでは崩して積んでは崩して」
俺は自分が思うより、そして知り合いが思うより、ずっと繊細な生き物だ。父親不在を生涯の傷にしてしまうほどに。無神経だから家庭環境について口が軽かったのではあるまい。傷つけられることを恐れて、自ら傷つきにいっていた。なんでもない振りをしていなければ現実に押し潰されかねないほど貧弱な精神をしていた。
「心がさ、もやしなんだよ」
「もやし?」
ずっと適度に相槌を打っていたギャル美は、初めて鸚鵡返しに言葉を発した。
「太陽を当てないで植物を育てると、白くてひょろ長く成長するんだよ。さっさと太陽を浴びるために。俺もそうやって育ったんだよ。義務教育……っていうか、高校ぐらい出るもんだって常識に支えられて生きてきたけど、いざ自分で人生を決めろって段階になって、そういう添木がなくなったから折れちゃった感じかな」
俺のまとまりのない話を整理しているのか、ギャル美はピアスを指先で弄びながら考え込む。
「よくわからないけどさ」
言葉とは裏腹に、はっきりとした口調だった。「こういうこと、黒沢は誰かに相談とか愚痴とか、したことあるの?」
「……そういう意味ではない、かな」
口にするときはなるべく、昨日の食事と同じ扱いをした。
「だろうね。なんか、ぎこちないもん。でもいいんじゃない? やっと人に相談できるくらいになったんでしょ。孤独ってのが、一番悪いのよ。黒沢一人の問題だからって、一人で解決しないといけないわけじゃないでしょうに」
ギャル美は「よくわからないけどさ」と付け加える。
悪戯っぽく笑みを浮かべて、背中を気味良く叩かれた。
「あんがい不器用ね」
「不器用?」
「愚痴り方とか。それになんていうか、情けは人のためならずって言葉を、鵜呑みにしてるよね、たぶん」
背中を叩かれた勢いで吐き出された空気の代わりに、新鮮な冷気が肺腑を満たす。凛と張りつめた空気が、温め続けた問題を冷ましていく。
万事がそれだ、と誰かが叫ぶ。
助けを求められなくて抱え込み、まるでそうすれば誰かに助けられるのではないかと信じて頼みを安請け合いする。そういう、矛盾に思える行為。傷つけられたくない古傷を、自ら弄って拡げたのも、それだろう。
同じ直線上を、正反対に進んでいるような気がした。
幸福な未来を思い描けないのは、現在ではなく過去の問題だ。
思考が徐々に言葉を失い、脳裏にはかつての家が浮かび上がる。たった一人、幸福の廃墟で積み木をする少年の俺がいる。
十数年持て余していたそれが、ようやくはっきりとした形に積みあがる。
「なるほど……ビビりだな、俺は……」
幼馴染の言葉を、思い出した。
「え?」
ギャル美は俺の呟きが聞こえなかったらしく、首を傾げて問う。
「いや……話してみるってのは大切だな。ちょっとすっきりした」
「そう? じゃあお礼は、学食のカツでいいわよ」
「一つだぞ、一つ」
幸せになりたくない生き物なんていない。その言い方からして、あべこべだ。自分は幸福になりたいのだと、堂々と言えない。
俺は幸福に慣れていないのである。それを手に入れることではなく、手に入れた後に失うことを、心底恐れている。幸福の具体を、無邪気に壊した経験が、まさかこれほど尾を引くなどと、誰が予想するだろう。
俺にとって幸福は、確実に壊れゆく泡沫だ。
それを再び失うのならば、慣れきったぬるま湯の不幸に沈んでいるほうが、ずっと幸福だ。
幸福であるために、不幸を選ぶ。大きく矛盾しているが、たしかな筋道がある。少なくとも過去に縛められた俺にとっては、輝かしい未来を思い浮かべることさえ苦痛なのだ。
それを望むこと、手に入れようと努力すること。そしていつか失われるそれを、後生大事に抱える労力を費やして、すっかり幸福に慣れた頃に、失うことが怖かった。
「今日は変な話、聞いてくれてありがとうな」
駅前で手を振って、照れ隠しに言った。言葉にすると、よけいに照れくさくなる。
「いいよ。よくわかんなかった黒沢が、ちょっとわかったし」
階段を上りきったところで、ギャル美は振り返って手を振った。「受験、頑張れよう」
すっかり夜になった帰り道、俺は一人で自転車を飛ばした。
なんだかとても疲れていた。なれないことをしたとか、子供の相手をしたからとか、そういうことではない。ずっと蓋をしていた問題が、ずいぶん嵩を増して甦った気分である。
見上げた空には月がぽつんと輝いている。さっき見た星は、もうどこかへ消えてしまっている。
まだ何も、解決してはいない。
未来のことも、現在のことも、過去のことも。
それでも少しは前へと進めたような気がしていた。少なくともその問題について、頭を働かせることくらいは、できるようになったのだから。
月を睨んでペダルを強く踏んだ。
まだ何も、解決してはいない。スタートさえ切っていないだろう。
しかしスタートラインへ向けての、小さな一歩は踏み出したはずだ。




